第28話 良き妻

 四十代後半の寺西昌也てらにしまさやさんに聞いた話だ。

 

 その日の寺西さんは午後七時半過ぎに自宅に着いた。残業で遅くなる予定だったのものの、ほぼいつもどおりの帰宅だった。最近は若手の成長が目覚ましく、仕事が思いのほかスムーズに進む。最近の若いもんはとよく耳にするが、寺西さんの会社の若いもんは、やる気があって将来が楽しみだった。


 革靴を抜いでリビングに向かう。明かりが漏れ出ているドアを開けると、奥さんの加奈子かなこさんがテレビの前あたりに立っていた。寺西さんの帰宅にまったく気づかないようすで、なにかを踏んづけるようなしぐさをしている。ひどく真剣な顔で何度も何度も踏みつけているが、ソファーの影になって足もとは見えなかった。


「加奈子、どうしたんだ……?」


 尋ねながらソファーをまわりこむ。加奈子さんの足もとが見えたとき、寺西さんは思わず悲鳴あげそうになった。


 加奈子さんが踏みつけていたのは、二年前から飼っているナツの頭だった。


 ナツはメスのゴールデンレトリバーであり、頭が原型をとどめないほどに変形していた。おそらく、何度も踏みつけられたために、頭蓋骨が砕けてそうなったのだ。また、変形したさいに飛びだしたと思われる眼球が、ひしゃげて潰れて平べったくなっている。これも踏みつけられてそうなったに違いない。ラグマットは血でべっとりと濡れており、獣臭けものしゅうなのか血生臭ちなまぐささなのか、とにかく不快な臭いが鼻腔を苛んだ。


 寺西さんは戦慄しながらも、加奈子さんを怒鳴りつけた。


「加奈子、やめろ!」


 しかし、加奈子さんは顔をあげなかった。足もとを睨み据えたまま、ナツを何度も踏みつけている。


 なぜ、そんなことをしているのか意味がわからない。しかし、加奈子さんの凶行を黙って見ているわけにはいかない。寺西さんは声を張りあげながら加奈子さんに駆け寄り、その勢いを殺さないまま両手で思い切り押しのけた。

 

「やめろ、加奈子!」


 しかし、ふっ飛ばされたのは寺西さんのほうだった。気づくと床に倒れていた。


 加奈子さんに押し返されたのだろうか。一瞬のことでなにが起きたのかが不明だったが、加奈子さんはなおもナツを踏みつけていた。


「おい、加奈子、もうやめろ!」


 もう一度大声を張りあげて立ちあがろうとしたとき、寺西さんはソファーの上で上半身を起こしていた。


「え……」


 状況が判断できないままあたりを見まわすと、向かいのソファーに加奈子さんが座っていた。目をまん丸にしてこちらを見ている。


「び、びっくりするじゃない。急に飛び起きて。なんなのよ……」

「びっくりじゃないだろ! お前、どうしてナツを……」


 最後のほうは声がしぼんでいった。ナツが寺西さんのすぐそばにいたからだ。ソファーの下で大きな身体をデロンと伸ばしている。


「どうしたのよ……」加奈子さんは怪訝な顔をした。「寝ぼけてるの?」


 寺西さんはわけがわからないまま、加奈子さんの話を聞いた。その話によると、仕事から帰ってきた寺西さんは、「ちょっと眠い」と口にしてソファーに横になったそうだ。そのまま三十分ほど寝息を立てていたのだが、突然「加奈子、もうやめろ!」と叫んで飛び起きたのだという。


「大丈夫? 凄い汗だけど」


 加奈子さんに言われて、寺西さんは額に触れた。指がヌメっと濡れる。


「俺、ほんとに寝てたのか……?」


 家に帰ってきたのは覚えている。だが、「ちょっと眠い」と口にした覚えはない。ソファーに寝転んだ記憶もない。


 覚えているのは加奈子さんがナツを踏みつけていたことだ。それに、頭が変形したナツから漂ってくる不快な臭い。獣臭けものしゅうなのか血生臭ちなまぐささなのか、どちらかは判然としないが、とにかく不快なあの臭い。


 しかし、最近は少々寝不足気味だった。だから、知らないうちにうたた寝をして、あんな変な夢を見たのかもしれない。寺西さんは自分にそう言い聞かせて、加奈子さんの言うとおりなのだろうと納得することにした。


 ところが、それから約二週間後にナツが死んだ。死因は頭蓋骨骨折だった。


 その日、三日間の出張から寺西さんが帰ってくると、加奈子さんが涙を流しつつ駆け寄ってきた。そして、こんな説明をしたそうだ。


 脚立に乗って高い棚に手を伸ばしているときに、バランスを崩して後ろ向きになって脚立から落ちた。そこにいたナツを下敷きにしてしまい、頭蓋骨骨折という致命傷を負わせてしまった。ナツの亡骸はすでに業者に引き取ってもらった。     


「きっと、ナツは……ナツは私を助けて……くれたのよ……」


 加奈子さんは嗚咽混じりにそう言った。だが、寺西さんはしっかり見ていた。泣きながら駆け寄ってきたときの加奈子さんは、右足を捻挫でもしたかのように引きずっていた。


 寺西さんの脳裏にあの光景が浮かぶ。二週間に見たあの夢。加奈子さんが何度も何度もナツを踏みつけていたあの悪夢――


 あれは単なる夢だ。寺西さんはそう思いながらも、訊かずにはいられなかった。


「……その足どうした? まさか、ナツの頭を踏みつけて痛めたんじゃないよな?」


 すると、加奈子さんはひどく動揺した。


「ち、違うわよ! ふざけないで。そ、そんなことするわけないじゃない!」


 寺西さんはそのようすを見て確信した。加奈子さんはナツを踏み殺している。根拠なんてものはないが、直感で間違いないと確信した。


 あれは単なる夢ではなく予知夢のようなものだったのだろう。寸分違すんぶんたがわず夢のとおりではないとしても、加奈子さんがナツを殺したのは間違いない。ナツの死は事故でなく、故意によるものだ。


 加奈子さんはナツの死体を業者に引き取らせたと説明した。しかし、そう言ったのは加奈子さん本人であって、本当は車などで適当なところに運んで捨てただけかもしれない。いずれにせよ、ナツの亡骸を手際よく処分して証拠隠滅をはかったのだ。用意周到で手慣れた感さえある。今回がはじめてではないのかもしれない。


 寺西さんは加奈子さんのことをずっとき妻だと思っていた。だが、それ以降はただただ恐ろしいだけになり、もう一緒にはいられないと別れを決意した。そして、約ニヶ月後に実際に離婚が成立した。


 離婚に必要な手続きをすべて済ませ、これで最後だという別れぎわ、寺西さんは加奈子さんに尋ねたそうだ。


「……なあ、なぜナツを殺したんだ?」


 すると、加奈子さんはしばらくの沈黙後、冷たい目をしてこう言ったのだという。


「いくら掃除をしても、毛を落とすからよ……」





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