第27話 【書籍化】青いワンピース

 三十代前半の矢野隆史やのたかしさんに聞いた話だ。


 今から二年ほど前のことになる。海釣りが趣味の矢野さんは、翌日が休みのその夜も、釣り具を車に放り込んで家を出た。出発したのは午後九時半過ぎで、約一時半間後にいつもの漁港に着いた。地元の人間しか知らないような小さな漁港だが、夜釣りでの釣果がまずまずのお気に入りのポイントだ。


 漁港内の駐車場に車を停めた矢野さんは、釣り具一式を抱えて防波堤のほうへと歩いていった。防波堤の長さはおよそ二十メートル。その根元で竿をだしている五十がらみの男性が、親しげに声をかけてきた。


「よう、兄ちゃん、今日もきたな」


 たぶん、この界隈が地元の人だろう。お互いに名前を知らないのだが、何度もここに足を運んでいるうちに、こうやって言葉を交わす仲になった人だ。


「こんばんは。調子はどうですか? 釣れてます?」

  

 挨拶がてら尋ねてみると、男性はにやりと笑った。


「今日は大漁だな。いちヒロでよくあたりよるから、兄ちゃんも浮き下をそこに調整してみ」

「一ヒロですか。珍しく浅めですね」


 ヒロは浮きから餌までの距離をざっくり表す単位だ。両手を左右に広げたさいの指先から指先の距離――約一・五メートルが一ヒロになる。いつもであれば、この漁港はヒロの仕掛けでよくあたるのだが、今日は例外のようだ。


「ところで」と男性が尋ねてきた。「お連れさんはどうした?」

「連れ? そんなのいませんよ」

「ん? そうなのか?」男性は不思議そうな顔をした。「誰かを連れているように見えたんだけどな……」

 

 男性が竿だしているところは、駐車場がよく見える場所だ。聞けば、車をおりた矢野さんのすぐ後ろに、若い女性が立っていたという。そんな連れに覚えはないが、風貌を尋ねてみると、真っ黒の髪を短く切り揃えて、青いワンピースを着ていたそうだ。


「たまたま近くにいただけの人じゃないですか?」

「ん、まあ……そうか……」


 納得しているのかしていないのか、男性は微妙な顔をしてそう呟いた。


 そんなことがあってから約二週間後の夜だった。矢野さんは会社帰りに馴染みのショットバーに足を運んだ。決して小洒落た店ではないのだが、取り揃えている酒の数がかなり豊富で、しかも他店の七割程度の値段で呑める。しがないサラリーマンはコスパがなにより重要だ。


 ガラス張りのドアを押し開けて店に入ると、カウンターの中にマスターが立っていた。年齢はおそらく四十代半ば。無精髭が渋く似合っているマスターは、すぐに矢野さんに気づいて笑顔を見せた。


「ああ、矢野さん、ちょっぴりお久しぶりですね」


 前回ここにきたのは一ヶ月ほど前だった。確かにちょっぴりお久しぶりではあるが、ひとりで店を切り盛りしているこのマスターは、客の来店状況をすべて把握しているのだうか。だとしたらたいしたものだ。

  

 マスタの記憶力に感心しながら、矢野さんはカウンター席に腰をおろした。


「最近残業が多くてなかなかこれなかったんですよね」

「それは大変ですね。お疲れさまです。どうぞ」


 目の前に差し出されたおしぼりを「どうも」と受け取ると、マスターが入口のドアを見やりながら尋ねてきた。


「お友達は入ってこないんですか?」

「友達?」

「女の子と一緒だったでしょ?」

「いや、ひとりですよ」

「あれ、矢野さんがさっき店に入ってきたとき、すぐ後ろに若い女の子がいたんですけど……」

  

 その女性は矢野さんの肩越しに、店の中をうかがっていたそうだ。


「矢野さんの後ろにべったりとくっついていたから、てっきりお友達かと……」

「え、そうなんですか? 僕は全然気づきませんでしたけど」

「めっちゃくっついてましたよ。年齢は二十歳はたちくらいかなあ、青いワンピースを着た髪の短い女の子です」

 

 それを聞いた矢野さんは、釣り場での会話を思いだした。夜釣りに出かけたあの日、先に竿をだしていた男性が、同じようなことを言っていた。


 青いワンピースを着た短髪の女性。単なる偶然に違いないが確かにそう言っていた。


 それから一週間が過ぎた。


 その日、午後四時過ぎに会社の喫煙ルームに向かうと、同僚の田中さんが紫煙をくゆらしていた。同じ営業の仕事に就いている田中さんと矢野さんは、歳が近いという理由もあって気心の知れた仲だった。


 たわいもない雑談で盛りあがっていると、田中さんがなにかを思い出したように言った。


「あ、そうそう、今日の昼に連れてたあの子は誰だよ? なんとなく目立つ子だったな。会社うちにはいないし、取引先の子か?」

「今日の昼?」


 田中さんは頷いた。

 

「二時前だったかな、取引先に急いでいたから声をかけなかったけど、駅前でお前を見かけたんだよ」

「ああ……その時間なら昼飯かな」


 その日の矢野さんは顧客まわりのタイミングが悪くて二時近くまで昼食を取れなかった。田中さんが見かけたというのは、いつものそば屋に向かっていた矢野さんだろう。


「昼飯か。それで、連れのあの子は誰だ?」

「連れ? ひとりだったけど」

「なに言ってんだよ」田中さんは怪訝な顔をした「二十歳はたちくらいの女の子を連れていただろう」


 矢野さんはっとした。釣り場の男性とバーのマスター。ふたりが言っていた特徴が似通った女性――


 まさかと思いながらも、矢野さんは尋ねた。

 

「それって、青いワンピースを着た髪の短い……」

「そうそう、その子。あれ、誰だよ?」

 

     ◇


 日曜日の午後二時過ぎだった。ひとり暮らしをしている矢野さんは、米や調味料を調達するために実家に戻っていた。


 顔をだしたついでに、矢野さんは例の話をした。青いワンピースを着た短髪の女性が、複数の知人に目撃されている。すると、矢野さんの妹である亜美あみさんが、悲鳴じみた声を響かせた。


「きゃー、なにそれ。めっちゃ怖い。やめてー」


 白々しいうえに芝居じみた悲鳴だ。怖がっているというより、楽しんでいるらしかった。


 矢野さんがいるのは一階のリビングだった。テレビの前にソファーが据えられており、そこに矢野さんと亜美さん、それに矢野さんの母である夏子なつこさんが腰をおろしていた。


 矢野さんは数年前に実家を出たが、五歳年下の亜美さんは未だ実家暮らしで、親のすねをかじり倒して生きている。父の茂雄しげおさんはゴルフに出かけて留守だった。息子がたまに戻ってきているだから、家にいるのが良き父親だと思うのだが、茂雄さんは薄情にもゴルフを優先したらしい。


「女の子を泣かせたことがあるんじゃない? きっとその子に呪われているんだよ」亜美さんは両腕で身体を抱いた。「怖っ」

「呪いなんかあるわけないだろ。そもそも女子を泣かせたりしてないし」

「恨みは知らないうちに買ってたりするよ。怖い怖い」


 亜美さんが大袈裟に身体を震わせたとき、それまで黙って話を聞いていた母の夏子さんが、ぽつりと呟いた。


「どおりで……」


 それに反応したのは亜美さんだった。


「どうりで? なにが?」

「少し前にね、お父さんが同じような話をしていたのよ」


 夏子さんの話によれば、茂雄さんも複数の知人に言われたそうだ。青いワンピースを着た髪の短い女性がすぐ後ろにいた――


「五、六回は言われたみたいよ」

「嘘……私、全然聞いてないけど……」


 亜美さんの顔は少し強張っていた。夏子さんの話を聞いて、本気で怖くなりはじめたのだろう。


「あんたに言ったら騒ぐでしょう。だから言わなかったのよ」


 矢野さんは英断だと思った。間違いなく亜美さんは騒ぐ。


「でも……」夏子さんは思案げに続けた。「最近は言われなくなったみたいなのよ」


 それから矢野さんに目を向けた。


「その女の子……お父さんからあんたに乗り移ったのかもね」


 矢野さんはつららで背中を撫でられたような悪寒を覚えた。恐るおそる後ろを振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。


 冒頭で伝えたとおり、ここまで話は矢野さんが約二年前に体験したことだ。また、青いワンピースを着た髪の短い女性は、その後も何度か目撃されたものの、いつしかまったく見かけられなくなったとのだという。


 矢野さんは神妙な顔で僕に告げた。


「女の子がなんだったのかは未だによくわかりません。でも、見かけられなくなったということは、きっと僕から誰かに乗り移ったんだと思います」





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