第26話 姉

 三十代前半の北川舞きたがわまいさんに聞いた話だ。


 その河の広さは対岸がはっきり見えないほどだった。岸辺ではかわいらしい野花が風に傾ぎ、どこかで小鳥たちがさえずりあっている。頭上の空はどこまでも青く澄み渡っており、背中に差す陽光は人肌のように温かい。


 しかし、河原の芝生に腰をおろした北川さんは、のどかな景色を堪能する気分ではなかった。両方の目尻りに膨らんだ涙が、今にもボタボタとこぼれ落ちそうだった。


 喪失感に苛まれている北川さんの隣りには、三つ年上の姉である京香きょうかさんが座っていた。京香さんはこうなった事情をいち早く察して、ここまで迎えにきてくれたのだ。そして、北川さんの話が一段落したとき、神妙な顔をしてこう呟いた。

 

愛梨あいりちゃん、話しはじめたばかりだったんだ……」


 北川さんは頷いた。


「他の子より遅かったから心配していたんだけど、最近になって急に話しはじめたんだ……」


 二歳になる愛梨ちゃんは北川さんの娘さんだ。はじめて話した言葉は、ママ、だった。


「こんなことを言うのは親バカなんだろうね。でも、愛莉の声はほんとにかわいかったの」

「きっと舞に似たのね。小さい頃の舞もかわいい声をしていたもの」

「そうだったかな? でも、愛莉の声をもう聞けないんだよね。泣いたり笑ったりする声を、もっと聞きたかったなあ……」


 北川さんは立てた膝に顎を乗せた。もう涙を堪えることができなかった。視界のすべてがぶわっと歪む。


「愛莉は顔が凄く小さくてモデル体型なんだよね。だから、どんな服だって似合うと思うの。幼稚園になったらこんな服を着せて、小学生になったらこんな服って、いろいろ考えていたのに全部無駄になっちゃった」


 涙を拭って話を続ける。


「成長して反抗期を迎えた愛梨に、ひどいことを言われるかもしれない。『大嫌い』とか『ババア』とかね……でも、そのくらい全然平気。大きくなった愛莉と親子ゲンカもしたかったなあ」


 頭に浮かんだ愛莉は今よりずいぶん背が伸びていた。中学生の制服が誰よりも似合っていて、どこの誰よりも美人だった。


「これこそ親バカかもしれないけど、愛莉は頭が良さそうな顔をしてるんだ。きっと高校も大学もいいところに進学するよ。就職先は外資系の大手企業とかで、イケメンで優しい同僚と結婚したりしてね。愛莉のウエディングドレス姿を見たら、私、絶対に泣いちゃうと思う……」


 いくらでも話を続けられそうだった。だが、とうとう嗚咽で言葉が詰まってしまった。すると、黙って話を聞いていた京香さんが、北川さんの震える肩をそっと抱き寄せた。


「舞は愛莉ちゃんのことをほんとに大切に思っていたんだね」

「なによりも大切。愛莉にはなんでもしてあげたかった……」


 心の中を素直に吐きだすと、これまで以上に涙が出た。


「そう思うのなら……」北川さんの肩を抱く京香さんの手にぐっと力が入った。「こんなところにいちゃダメ」


 そして、京香さんは諭すように話をついだ。


「舞、よく考えてみて。このまま諦めていいの? きっと後悔するよ」


 強い口調でありながら、温かい響きもあった。


「愛莉ちゃんが大切なんでしょう。だったら諦めちゃダメ」


 そう、愛莉はなによりも大切だ。成長していく愛莉にあれもこれもしてあげたい。だが、ここで諦めてしまうと、あれもこれもすべてが叶わない。


 こんなところにいちゃいけない。まだ諦めるわけにはいかない。


 そう思い至ったとき、涙がぴたっと止まった。めそめそしている暇があったら戻る努力をするべきだ。


「愛莉ともっと一緒にいたい。愛莉のところに戻る」


 北川さんが告げると、京香さんは頷いた。


「そうよ、舞はまだこっちにきちゃだめ。愛莉ちゃんのところに戻って」


 言いながら、京香さんは河とは反対の方向を指差した。指を追って背後を振り返ったとき、北川さんは病室のベッドで目を覚ました。


 今から約六年前――以上が北川さんの臨死体験だ。


 北川さんは交通事故により生死の境をさまよった。近所のスーパーマーケットに向かって歩いているとき、中型トラックと接触して内蔵にひどいダメージを負った。出血性ショックを引き起こし、一度は心肺停止状態に陥ったという。


 五日ぶりに目を覚ましたとき、愛莉ちゃんの顔が目の前にあった。抱き寄せようと試みたが身体がほとんと動かず、涙ばかりが大量に出た。


 二ヶ月後になんとか退院したが、当初は足のしびれなどの後遺症に苦しめられた。しかし、こつこつとリハビリに勤しんだおかげか、現在は医師が驚くほど元気になっている。去年はハーフマラソンに挑戦して完走も遂げたそうだ。


「あれは三途の川だったのかもしれませんね」


 北川さんは臨死体験を振り返ってそう僕に告げた。目の前にあったという広い河のことを言っているのだろう。だとすれば、京香さんと並んで座ったという河原は、さしずめ賽の河原といったところか。


 それから北川さんは、京香さんのことも話してくれた。


「姉は八歳で亡くなったんですが、私を凄くかわいがってくれていました。だから私も姉にとても懐いていたんです。お姉ちゃんお姉ちゃんって言いながら、姉のあとを追いかけていたのを覚えています」


 京香さんの死因は風邪をこじらせた肺炎だった。北風が厳しい一月下旬に呆気なくこの世を去った。


 京香さんの葬式が執り行われたさい、北川さんは狂ったように泣き喚いた。当時の北川さんは五歳で人の死をよく理解していなかった。だが、京香さんがいなくなったことだけはわかっていた。泣けばそれをなかったことにできるような気がして、京香さんが少しでも早く戻ってくるように泣き続けたのだ。


「あのときは、親戚の人たちだけじゃなく、葬儀場のスタッフさんにまで迷惑をかけてしまって……」


 子供の甲高い声はときに耳障りだ。だが、当時の彼女を叱ったりした者はひとりもいなかったという。仲のいい姉を亡くした幼い妹の気持ちに寄り添える、心優しい大人ばかりだったのだろう。

 

 さらに北川さんはこんな話もした。


「臨死体験は単なる夢だと言う人や、死後の世界なんてないと言う人もいますが、私は臨死体験も死後の世界も信じています」


 その理由も語ってくれた。


「小学校に入学した年に、愛梨がこう言ったんです。『京香ちゃんと遊んだ』って。夢の中での話ではあるんですけど、愛梨のお友達に京香という名前の子はいません。にもかかわらず、京香という名前が愛梨の口から出たんです」


 だから、北川さんはこう信じているらしかった。


「姉はずっと昔に亡くなってしまいましたが、今も私と愛梨を見守ってくれていると思います」


 それが本当かどうかは僕にはわからない。だが、本当であってほしいとは思う。





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