第13話 橋

 三十代前半の岡野守おかのまもるさんに聞いた話だ。


 ゴールデンウィークの連休がはじまったばかりのその日、岡野さんは奥さんの栞里しおりさんを助手席に乗せて高速道路を走っていた。人里離れた山の中に川魚をメインにした和風レストランがある。情報誌でそれを知った栞里さんにせがまれて、ひとり千五百円のランチを食べにいくところだった。


 高速道路を走ること約ニ時間、白のワンボックスカーは一般道におりて山道に入った。


 高速道路は少し混んでいたものの、山道の交通量は微々たるものだった。若葉を萌やしはじめた樹々を横目にストレスなく進んでいく。しかし、軽快なドライブは突として中止を余儀なくされた。


 車は小さな川にかけられた橋に差しかかった。十メートールほどしかない橋で、欄干は錆だらけだった。そこを渡り切ったところで、なぜかエンジンが止まってしまった。スターターボタンを押してみても、エンジンが動きだす気配はない。


「故障?」


 栞里さんが不安げに尋ねてきた。


「んー……バッテリーでもあがったか……」


 岡野さんはそう答えながらスマホを確認した。電話が繋がりさえすれば、JAFを呼ぶなどしてなんとかなる。しかし――


「ちょっとピンチかもな……」


 期待した電波が届いていなかった。通りかかる車に助けを求めるしかない。岡野さんは栞里さんを助手席に残して車をおりた。すると、幸いわいなことに、シルバーのセダンがすぐに止まってくれた。


 運転手は六十がらみの男性で同乗者はいなかった。岡野さんが駆け寄ると、男性は車からおりてこう尋ねてきた。


「もしかして、車が止まりましたか?」

「はい、そうなんです。お手数をおかけして申しわけないんですが、携帯の電波が届くところで、JAFを呼んでもらえないでしょうか? 電話代はお支払いしますので」


 山をおりれば携帯が繋がるだろう。電話代はお礼も含めて千円くらい渡しておけばいい。だが――


「申し訳ないです。私は携帯を持っておらんのですよ。でも、心配なさらずともエンジンはすぐにかかるはずです。まずは五分待ってみましょう」


 なにを根拠にすぐにエンジンがかかると言うのか。だが、男性の言葉は正しかった。


「そろそろ五分経ったでしょう」男性は携帯灰皿でタバコを揉み消しつつ指示してきた。「エンジンをかけてもらえますか?」

「はあ……」


 エンジンの再スタートは何度も試みた。無駄だと思いながらもスタートボタンを押すと、呆気なくエンジンがかかった。


 岡野さんも驚いたが、栞里さんも同様らしかった。


「あれ……直ったの?」

「らしいな……」


 岡野さんは車をおりて男性に言った。


「エンジン、かかりました。でも、どうしてでしょう。さっきは全然かからなかったんですけど……」

「この橋を通ったのははじめてですか?」

「はい」

「じゃあ、ご存知ないのも仕方ないですね。ここはこういうところなんです。もしかしたら、あとでまた車になにかあるかもしれませんが、特に問題はありませんので心配なさらないように」


 男性は意味深なことを告げると、自分の車に乗りこんで走り去った。それを見送った岡野さんも、車に乗りこんでアクセルを踏んだ。栞里さんには男性が言い残していった言葉を伝えないでおいた。「どういう意味?」と尋ねられても答えに窮してしまう。


 ランチを予約したのは午後一時。五分ほど遅れて到着した古民家を模したレストランは、山の緑の中につくねんと佇んでいた。完全予約制の店内には他に五組の先客がいた。テーブルの数からして、六組が予約のマックスらしい。


 間もなくしてテーブル並んだランチは、聞いていたとおりに川魚が中心だった。刺身、唐揚げ、煮つけ――それらも絶品だったが、冷奴も予想外に美味かった。川魚が名産の地域は水質がいい。豆腐作りにも適しているのだろう。とにかく、家からかなりの距離があったものの、足を運んだ甲斐は充分にあった。


「美味しかったねー」


 レストランを出てすぐに、栞里さんが助手席で言った。かなりのご機嫌さんらしくニコニコしている。たまには嫁孝行するのも悪くない。車を走らせる岡野さんも上機嫌だった。


 ところが――


 いきも渡ったあの橋で再びトラブルにみまわれてしまった。橋を渡り切った直後に、またもエンジンが止まったのだ。


 栞里さんが助手席で呟いた。


「なんで……」

  

 その顔は少し強張っていた。同じ橋で同じトラブルが起きた。気味の悪さを覚えているのだろう。


 それは岡野さんも同様だった。なんだか気味が悪い……


 エンジンの再ストートを試みたが、やはりうんともすんともだった。だが、もう一度試すしかない。そう思ったとき、シルバーのセダンがバックミラーに映り、岡野さんの車の後ろにゆっくりと停車した。


 見覚えのある車だった。岡野さんは車をおりて運転手を確かめた。行きしなのエンジントラブル時にも車を止めてくれた、あの老齢の男性だった。


 向こうも岡野さんを覚えていたらしく、車をおりつつ愛想良く話かけてきた。


「ああ、これはさきほどの。やはりまた止まってしまいましたか」


 そういえば男性はこんなことを言っていた。


「あとでまた車になにかあるかもしれませんが」


 その言葉どおりに車は再びエンジントラブルにみまわれた。男性にはなにか心あたりがあるのだろう。だからこそ、またここにタイミングよく現れたに違いない。


 しかし、男性が口にした説明は曖昧なものだった。


「不思議に思われるかもしれませんが」男性はタバコに火をつけながら続けた。「先程もお伝えしたとおり、ここはこういうところなんです。昔からこういうところなんですよ」

「こういうところ……」


 岡野さんの呟きに男性はうなずいた。


「そうです。こういうところなんです。とにかく、しばらくすればエンジンがかかるはずですから、五分ほど待ってみましょう」


 意味がわからないまま車に戻った岡野さんは、五分経った頃にエンジンのを再スタートを試みた。すると、行きしなと同じうように、あっさりとエンジンがかかった。バックミラーで後ろを確認すると、車の外でタバコを吸っている男性が、片手をあげて笑顔を見せていた。


「どういうこと?」


 不安そうに尋ねてきた栞里さんに岡野さんは答えた。


「いやな、ここはこういうところらしいんだ……」

「こういうところって?」


 栞里さんは怪訝な顔をしている。そういう顔になるのはもっともだが――


「俺もよくわからないんだ」岡野さんは視線で後ろを示した。「あのおじいさんがそう言うんだよ」


 すると、栞里さんはちらりと後ろ見て、怪訝な顔をますます険しくした。

 

「……あのおじいさんって?」

「いや、だから、後ろに車を止めてる……」


 言いながら後ろを振り返った岡野さんは、首をねじった恰好かっこうのまま動きを止めた。あの老齢の男性がシルバーのセダンごと消えていたからだった。


 エンジンが再スタートした直後、岡野さんは男性の姿を確認している。バックミラー越しではあったが、片手をあげて笑顔を見せていた。ところが、その男性がどこにもいない。ついさっきまでそこにいたというのに、蒸発したかのように忽然と姿を消していた。


 男性を逐一見ていたわけではない。しかし、目を離していたのは三十秒ほどだった。そんな短時間で車に乗りこみ、走り去るなんてできるものだろうか。それも岡野さんがまったく気づかないうちに――


 岡野さんは薄寒さを感じながら栞里さんに尋ねた。


「なあ、後ろにシルバーの車が止まってるのは見たよな?」

「シルバーの車?」


 栞里さんは後ろを見たあと、岡野さんに向き直って言った。


「さあ、私は見てないけど……それよりおじいさんって誰のことなの?」


 男性はどうやって姿を消したのか、なぜ橋でエンジンが止まったのか、岡野さんは未だにその答えをだせていないそうだ。





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