第10話 【書籍化】事故物件

 二十代後半の片岡亮一かたおかりょういちさんに聞いた話だ。


 片岡さんは二十一歳のときに株式会社フジタ(仮名)に就職した。高校を出てからフリーターを続けていたのだが、将来のことがふと不安になって、アルバイト生活にピリオドを打った。


 フジタは賃貸物件をいくつか所有する不動産関連会社で、入退居時の手続きといった事務作業や、軽度の肉体労働などが片岡さんに任された仕事だった。片岡さんのほか正社員が数名、パートも数名――従業員は社長を含めても十人に満たなかった。


 フジタに就職してから半年ほどが過ぎたときだった。いやな事件が起きた。ワンルームマンションの一室を借りていた三十代の男性が、バスルームで手首を切って自殺したのだ。


 片岡さんは男性のことよく覚えていた。


「その人が住んでいたマンションの一階にフジタの事務所があったんです。だから、ときどき顔を合わせることがあって、そのつど明るい笑顔で挨拶してくれる人でした」


 男性の遺体が運びだされたあと、片岡さんは彼が借りていた部屋に入った。社長に部屋の状況を聞いてはいたものの、実際に目のあたりするとどうにも不気味だった。


 すべての壁と天井のクロス(壁紙)に、ひらがながびっしりと書きこまれていた。どうやら黒のサインペンを使って書いたらしく、文字の大きさは約1センチメートル四方だった。


 お経……?


 そう思って片岡さんは文字列を目で追ってみた。だが、お経でもなければ、これといった意味もなさそうだった。き、は、て、さ、う――単にひらがなを羅列しているだけらしい。

 

 どうしてこんなことをしたのだろうか。自殺する人間の心理状態はよくわからない。片岡さんはそんなことを考えながら部屋の中を見まわした。


 いつもであれば退居した部屋の清掃はパートさんに任せる。だが、ひらがなが書きこまれたクロスは貼り替え作業が必要だ。パートさんたちだけではどうにもならない。片岡さんは事務所に戻ると、クロス業者に連絡を入れた。


 そんなことがあってから、約二年が過ぎた。


 自殺のあった例の部屋は、別の借主がついていた。借主は飲食店に務めている二十代後半の男性で、過去に自殺があった部屋だと知っての入居だ。


 自殺、他殺、事故死、孤独死――忌むべき過去がある部屋を事故物件という。そういった部屋は賃料が安く設定されているため、過去を気にしなければお得な部屋でもある。男性も賃料の安さに魅力を感じて部屋を借りていたそうだ。


「でも、お得だからって、安易に事故物件に住んじゃダメです」


 片岡さんがそう言ったのには確固たる理由があった。その男性がまた自殺したからだ。


 しかも、バスルームで手首を切るという自殺の方法ばかりか、部屋の異質な状態も二年前のそっくりだった。すべての壁と天井のクロスに、意味のないひらがながサインペンでびっしり書きこまれていた。


 その一報を片岡さんに伝えたときのフジタの社長は、恐怖が振り切ってしまっていたのか、冷静に見えるほど無表情だったそうだ。


 しかし、片岡さんは無表情でなんていられなかった。あの部屋はどう考えてもおかしい。まったく面識のない入居者ふたりが、ここまで酷似した自殺をするなんて――


 霊に懐疑的な片岡さんも、さすがに異常なものを感じた。


 そんな不気味きわまりない部屋だ。二度と入りたくない。近づくのだってごめんだ。しかし、落書きされたクロスの貼り替え作業を行うため、クロス職人につき添って部屋に入る必要があった。


 片岡さんは恐るおそる部屋に入った。


 同行したクロス職人は五十がらみの小柄な男性で、フジタと十五年以上も取引しているベテランの職人だった。これまでにも何度か仕事で絡んだことがあり、お互いの名刺はとっくに交換してある。


 男性は部屋を一瞥するや否や呟いた。


「またですか……」


 片岡さんは男性の呟きに応じた。


「そうなんですよ。二年前とまったく一緒です。まじ、怖いですよね。二回も続けて自殺があって、しかも二回とも部屋がこれですから……」


 すると男性は「二回?」と怪訝な顔をした。


「二回じゃないですよ。僕が知っているだけでも五回目です」

「五回……」背筋がゾクリとした。「冗談ですよね……」


 しかし、冗談でも嘘でもなかった。その部屋では酷似した自殺が五回も起きていた。バスルームで手首を切り、天井や壁には意味のないひらがな――


 片岡さんはようやく気がついた。あのときの社長が無表情だったのは、恐怖が振り切っているわけではなかったのだ。表情どおりに冷静だったのだろう。同じことを五回も経験して、もう慣れてしまっていたのだ。


 この一件で退社を決意した片岡さんは、実際に約一ヶ月後にフジタを辞めたそうだ。





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