第9話 【書籍化】女の子の忠告

 三十代前半の中野由美子なかのゆみこさんに聞いた話だ。


「ぶらぶらって、ひとりでですか?」


 僕が確かめるように尋ねると、中野さんは苦笑いして答えた。


「そうです。別に友達がいなかったとかでもないんですけど、ひとりでぶらぶら歩きまわるのが好きで……」


 そのときの中野さんは小学二年生だった。梅雨入りが間近に迫った六月初旬の日曜日に、自宅の近くをあてもなく歩いていたのだという。


「きっと、探検している気分だったんだと思います」

「ああ、探検……子供はそういうのが好きですもんね。それで、あれですか、その探検中に声をかけられたってことですか?」

「そうです。『なにしてるの?』って」


 小学生だった中野さんに声をかけてきたのは、よく似た年頃の小さな女の子だった。場所は自宅のちょうど裏あたりで、女の子の顔に見覚えはなかった。


 声をかけられた中野さんは、その女の子としばらくおしゃべりをしたそうだ。しかし、とりとめのない雑談だったために、話の内容までは覚えていないという。


「子供っていいですね。誰とでもすぐに仲良くなれるから。でも、どうしてだろう。女の子の名前を訊いてないんですよね……」


 その名前も知らない女の子は、おしゃべりが一瞬途切れたとき、中野さんの背後を指差してこう言ったそうだ。


「それ、私ん。うちにこない?」


 女の子が指差した先には、二階建ての戸建住宅こだてじゅうたくがあった。両隣りが空き地だったからかもしれないが、どことなく寂しい感じのする家だった。


「ねえ、うちで遊ぼ」


 女の子に手を引かれるまま、中野さんは玄関ドアをくぐった。家の中も寂しい感じがしたのは、人の気配がなかったからだろう。

 

 女の子が靴を脱ぎながら言った。


「今、お父さんもお母さんも出かけてるんだ。だから誰もいないの」

「そうなんだ。お兄ちゃんとかお姉ちゃんは?」

「いないよ。私、ひとりっ子だもん」

「私と一緒だね」


 狭くも広くもないリビングはごくごく平凡だった。テレビ、ソファー、庭に臨む掃き出し窓。強いて特徴をあげるとすれば、電気がついていないせいでやや薄暗かった。


 中野さんは女の子と並んでソフォーに座り、お人形やボードゲームで遊んだ。女の子はおもちゃをたくさん持っていたが、それを決して自慢しようとはしなかった。


 女の子と遊ぶのは楽しかった。だが、しばしば中断されることがあった。誰かが家の前を通るたびに、女の子が口もとに人差し指を立てて、こんな忠告をしてくるからだ。


「しっ……誰かいる。見つかるといけないから、静かにね」


 なにも悪いことしていないのに……


 中野さんはそう思いながらも、女の子に従って息をひそめた。


 女の子はこんなことも言った。


「あっちに冷蔵庫があるけど、なにも食べちゃダメだよ。飲むのも禁止。大変なことになるから絶対にダメだよ」


 女の子の顔がひどく真剣だったので、中野さんは恐怖にも似た不安を覚えた。冷蔵庫には絶対近づかない。心の中でそう誓いつつ、女の子にうなずいてみせた。


 その後も中野さんはお人形やボードゲームで遊んだのだが、ふと窓の外に目をやるとずいぶん薄暗くなっていた。天気予報では一日中晴れだったというのに、いつの間にか雨が降っていたのだ。


 中野さんは女の子に尋ねた。


「暗くない?」

「全然」


 女の子はそう答えたが、リビングはどんよりと暗い。


「電気つけようよ」

「ダメ……」

「どうして?」

「ダメなものはダメなの」


 女の子に強く言われたので、中野さんはむっとして言い返した。


「ケチっ、電気くらいつけたっていいでしょ」


 女の子はびっくりしたような顔をした。それから震える声で言った。


「だって……ダメなんだもん……」


 今にも泣き出しそうな顔をしている。中野さんは急に悪いことをした気分になって、謝ろうとしたのだが――


「そこからあとの記憶がないんですよ。次に覚えているのは翌日の朝なんですけど、三十八度以上の高熱が出ちゃって……」


 以後三日間、中野さんは高熱にうなされたそうだ。


「その高熱のせいかもしれませんが、女の子と仲直りできたのかとか、いつ家に帰ったのかとか、そういったことをまったく思いだせないんです」

「女の子の家って近くにあったんですよね。ご自宅の裏でしたっけ。そこにいって女の子に確かめたりしなかったんですか?」

「いきましたよ。熱がさがってからすぐに。でも……」


 どういうわけだか女の子の家は見つからず、自宅の裏には空き地だけが広がっていた。中野さんは念のためにその界隈も歩きまわってみたが、やはり女の子の家を見つけることはできなかった。


「古い言い方ですけど狐につままれた気分でした。すぐ近くにあるはずの女の子に家にたどり着けないんですから。それに、家が近所なら小学校の校区も同じですよね。でも、学校にその女の子はいませんでした。ほんと不思議です。いったい、あの子は誰だったんでしょう……」


 僕は「んー……不思議ですね」と応じながら、あることを考えていた。


 古事記の序盤に黄泉戸喫よもつへぐひというものが出てくる。黄泉戸喫は死者の国に定められている絶対的なおきてのことで、あの世の食べ物を口にしてしまうと、たとえ神であってもこの世に戻ってこれなくなるのだ。


 日本を誕生させたのはイザナギとイザナミの兄妹神だといわれているが、その妹神であるイザナミですら、黄泉戸喫によって生き返ることが叶わなかった。


 女の子は中野さんにこう言った。


「あっちに冷蔵庫があるけど、なにも食べちゃダメだよ。飲むのも禁止。大変なことになるから絶対にダメだよ」


 もし女の子の忠告を無視してなにか口にしていたとしたら、はたして中野さんはここでこうやって僕と話をしていたのだろうか。



 ――― 補足 ―――

 黄泉戸喫よもつへぐひのことを詳しく知りたい方は『独断と偏見で現代語訳した古事記』をご覧ください。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892396087





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