第7話 【書籍化】バスルーム
三十代半ば
一月中旬のその日、谷川さんは少し残業をしてから会社を出た。帰路の途中で定食屋に寄って、午後八時過ぎに自宅に着いた。
革靴を脱いですぐさま洗面所に向かう。インフルエンザが大流行しているため、帰宅後すぐの手洗いが習慣づいていた。
洗面所の隣りにはバスルームがあり、電球色のライトが煌々とついていた。バスルームの扉は半透明のガラス戸で、そこに女性の裸体が薄っすら透けている。シャワー音などは聞こえてこないが、奥さんの
谷川さんが洗面の蛇口を捻って水をだすと、香里さんのシルエットがこちらに向いた。
「あ、おかえり」
「ただいま」
手を洗いながらそう返した谷川さんは、一糸まとわぬ香里さんをガラス戸越しに見つめた。むらむらとたぎってくるものがある。妻の裸を目にして欲情できるのは、きっとしあわせなことだ。それに、素晴らしいことでもあるはずだ。
しかし、いつまでも鼻の下を伸ばして眺めているのもどうかと思う。変態がすぎる。谷川さんは香里さんから目を逸らして言った。
「意外と早く帰ってきたんだな」
事務の仕事に就いている香里さんは、午後七時頃に家に帰ってくることが多い。だが、今日はシステムの入れ替えがあるとかで、午後九時過ぎの帰宅になる聞いていた。定食屋で夕食を済ませのも、それをふまえてのことだ。
「うん、ちょっとね……」
なにが、ちょっと、なんだろう? 谷川さんは少し気になったものの、「そっか」とだけ返して洗面所を出た。
二階にあがってスエットに着替えた谷川さんは、一階に戻って冷蔵庫から缶ビールを一本拝借した。リビングのソファーに腰をおろして、リモコンでテレビをオンにする。画面に映しだされたのは、バラエティー色の強いクイズ番組だった。
缶ビールをちびちびやりながらテレビをぼんやり観ていると、しばらくして軽い空腹感を覚えた。腹まわりの贅肉を気にして定食のご飯を並盛りにしたが、素直に大盛りにしておくべきだったかもしれない。冷蔵庫やパントーリをゴソゴソと漁ってみるも、小腹を満たしてくれそうなものはなにもなかった。
コンビニにでもいくか……
出かけるならその旨を香里さんに伝えておいたほうがいいだろう。谷川さんはテレビを消して洗面所に向かった。ドアを開けて香里さんに声をかけようとしたが、開きかけた口をそのまま閉じた。バスルームのライトが消えていたからだ。
あれ、香里は……
首を傾げたとき、スマホに着信があった。谷川さんはスエットパンツのポケットからスマホを取りだした。モニターを確認すると、発信者は香里さんだった。
「ごめん、仕事でトラブルがあって、まだまだ帰れそうにないんだ。もしかしたら、十一時頃になるかもしれない。でも、まだはっきりわからないから、めどがついた頃にまた電話するね。じゃあ」
相当急いでいたのだろう。香里さんは早口でそう言うと一方的に電話を切った。
谷川さんはライトの消えたバスルームを茫然と見つめた。
さっきここで香里さんと言葉を交わした。間違いなく香里さんの声だった。しかし、香里さんはまだ会社にいるという。
あの声はいったい……
声の正体は未だにわかっていないそうだ。
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