第4話 新しい家族(後編)

 確かムムが四歳になってすぐの頃だった。森下家のささやかな庭に、見知らぬ猫がやってきた。


 ノラらしき茶トラ柄のその猫は、なにをするわけでもなく、庭の奥に行儀よく座っていた。それにいち早く気づいたムムは、珍しく落ち着かないようすを見せて、掃きだし窓の前でうろうろと歩きまわった。おそらく茶トラはオスだろうと、森下さんはなんとなく思った。


 その後も茶トラは毎日のように姿を見せた。すると、ムムもいい加減侵入者に慣れてしまったらしく、これっぽっちもそわそわしなくなった。プランターの花を見ているときと同じように、じっと茶トラに目を向けるものの、窓の前に座る後ろ姿がいたって静かだった。


 一方の茶トラはといえば、当初は庭の奥に座っていたというのに、じわりじわりとこちらに近づいてきた。最後は掃きだし窓の間近に居場所を据えて、窓越しにムムと見つめ合うようになった。


 もし、森下さんが窓をあけてやりさえすれば、ムムと茶トラの二匹は、身を絡めてじゃれ合うに違いない。しかし、だからこそ窓をあけてやるわけにはいかなかった。


 ノラ猫のほとんどがなにかしらの病気を保有していると聞く。ノラをムムに接触させたくない。


「ごめんね、ムムと遊ばせてあげれなくて……」


 窓をコンコンと指で小突いて呟くと、茶トラは追い払われたと思ったらしく、森下さんを一瞥してから庭の外に出ていった。ムムはその後ろ姿を静かに見送り、窓のそばからしばらく離れようとしなかった。


 森下さんは小さく唸った。


「んー……」


 私って悪役っぽいよね。王子さまとお姫さまを引き裂く意地の悪い魔女みたい……


 五月中旬のとある朝だった。森下さんはいつものように玄関で旦那さんを見送ったあと、淡い陽光が射しこむリビングに戻って掃除をはじめた。ムムと茶トラもいつもの朝を迎えており、掃きだし窓を隔ててじっと見つめ合っていた。


 森下さんはテレビのまわりに掃除機をかけ、それから掃きだし窓のあるほうに移動した。そのときようやく気がついた。リビングにいるとばかり思っていたムムが、庭におりて茶トラと鼻先を向き合わせていたのだ。


 え、なんで……


 見れば、掃きだし窓が二十センチほどあいている。きっと鍵をかけ忘れていたのだ。それに気づいたムムか茶トラが窓をあけてしまったらしい。


 森下さんは窓に駆け寄り全開にした。かなり焦っていた。だが、ムムを驚かせないよう、普段どおりの声で呼びかけた。


「ムム、こっちにおいで」


 しかし、その声はムムに届かなかったようだ。急に駆けだした茶トラを追って、ムムも庭の外に出ていってしまった。


「待って、ムム!」


 森下さんは慌てて庭におりた。だが、ムムを追いかけようにも、その姿はもうどこにもなかった。


 リビングに戻った森下さんは、ムムを心配しつつ、冷静に考えてもいた。しばらくすれば、きっとムムは戻ってくる。ふらっと数時間後に、遅くても夜には――

 

 病気も気になるところだが、もし感染していたとしても、動物病院で診てもらえばいい。よっぽどのことがない限り、大事に至ることなんてないだろう。


 ようするに、そのときは深刻に考えていなかった。


 ところが、ムムはいつまで経っても家に戻ってこなかった。その日はもちろんのこと、一週間が過ぎても、一ヶ月が過ぎても、三ヶ月が過ぎても、茶トラについていったきりだった。


 そして、森下さんはとうとう諦めて、掃きだし窓を閉めることにした。ムムがいつ戻ってきてもいいように、朝も晩も少しだけ窓をあけておいたのだが、これ以上待っていても無駄だろう。もうムムはここに戻ってこない。


 ムムはむやみに甘えてくるような猫ではなかったし、人と接するさいにある種の壁を作っていた。しかし、家の裏で鳴いていたムムを家に迎えいれた森下さんにだけは、親しみのようなものを感じてくれていると思っていた。あるいは特別な存在になっているかと――


 しかし、茶トラについていったあのときのムムは、森下さんをちらりとも振り返らなかった。この家で数年間一緒にすごしたというのに、少しの未練も見せずに出ていってしまったのだ。もう森下さんのことを忘れている可能性だってある。


「薄情者め……」


 そう苦笑いをしたくもなるが、ムムのことを思えば、これでよかったのかもしれない。


 猫は元来気ままに生きている動物だ。家の中に閉じこめられているより、外の世界で自由に駆けまわるほうが、しあわせな猫生を送れるに違いない。


「そう、きっとしあわせ……」


 自分に言い聞かせるように呟き、森下さんは掃きだし窓を閉めた。


 それから半年ほどが経った朝だった。ムムがいない生活にもすっかり慣れた森下さんは、いつものようにリビングの掃除をしていた。すると、掃除機をひととおりかけ終えたとき、視界の端に影のようなものが黒く映った。そこになんとはなしに目を向けた森下さんは、黒猫が庭のなかほどに座っているのを見つけた。

 

「ムム!」


 森下さんは反射的に窓に駆け寄った。黒いノラ猫なんていくらでもいるが、ムムほどの美人はどこにもいない。庭にいる黒猫は間違いなくムムだ。ムムが今になって戻ってきたのだ。


 そして――


「もしかして、その子たち……」


 ムムのそばにはかわいらしい四匹の仔猫がいた。茶トラが三匹に黒猫が一匹。状況からしてムムの子供に違いない。


 森下さんは窓をあけようと手を伸ばした。だが、すぐに思いとどまってその手を引っこめた。ムムはもうノラ猫だ。ぱっと見は元気そうであっても、病気に感染している可能性がある。以前の森下さんならともかく、今は接触を避けるべきだろう。


 しかし、頭では冷静に判断できても、行動はそれに反して感情的だった。ムムがせっかく戻ってきたというのに、見ているだけなんてあり得ない。森下さんはサンダルをつっかけて庭におりると、ムムに近づいてその前にしゃがみこんだ。


「ムム……」


 頭を撫でながら名前を呼ぶと、ムムは森下さんを見あげるだけだった。しかし、仔猫たちはいっせいに森下さんに擦り寄ってきた。足もとでミーミーと鳴く声が、仔猫だったときのムムを思いださせた。


「もしかして、子供を見せにきれくれたの?」


 思いこみかもしれないが、そんな気がしてならなかった。それに、この家に戻ってきたということは、森下さんとすごした数年間を、完全に忘れたわけではなかったのだ。


「私のこと覚えてくれてたんだ……」


 ムムがいない生活に慣れたとはいえ、再びムムを目にすると、いろんな思い出がよみがえってくる。心が温かくなって目頭が熱くなった。


「それにしても……」森下さんは目尻を拭って、足もとの仔猫を見つめた。「四つ子ってすごいね。きっとムムは子育ても完璧なんだろうね」


 旦那さんとふたり暮らしの森下さんは、出産も子育ても未経験だ。しっかりと母親をしているムムに感心するばかりだった。


 その後、ムムは十五分ほど庭にいたが、おもむろに立ちあがると、我が子を引きつれて歩きだした。森下家のせせこましい庭をあとにして、外の広々とした世界に戻るのだろう。


 森下さんはその後ろ姿に言った。


「元気でね、ムム……」


 茶トラのあとを追って庭を出ていったときの厶ムは、森下さんをちらりとも見ようとしなかった。だが、そのときは足を止めてこちらを振り返った。


 そして、こう言ってくれたような気がした。


 大変だと思うけど頑張って――


 ムムはとてもさとい猫だ。森下さんの身体に起きている変化を敏感に感じ取って、そう言ってくれたとしても不思議ではない。


 以上が森下さんが僕に語ってくれたムムの話だ。また、森下さんはこの話を終えてから、話題を自分の近況に戻して、冒頭の言葉を口にしたのだった。


「仕方のないことなんですけど、最近は吐きけがすごくて……」


 森下さんのお腹の中には小さな命が宿っていた。もうすぐニヶ月目に入るらしいが、ここ最近は強いつわりに悩まされているそうだ。食べものの匂いをかぐだけで、吐きけが襲ってくることもある。


 大変だと思うけど頑張って――


 つわりがつらくてどうしようもないとき、森下さんはムムの応援を思いだすそうだ。同じ女同士の厶厶。母親として先輩の厶厶。そんな彼女の応援は心強い。不思議とつらさがやわらいで、頑張れる気がしてくるのだという。





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