第3話 新しい家族(前編)

 三十代半ばの森下友紀もりしたゆきさんに聞いた話だ。


「仕方のないことなんですけど、最近は吐きけがすごくて……」


 そう言って苦笑いする森下さんは、二階建ての木造住宅に住んでいる。一年ほど前までは一匹の猫を飼っていたそうだが、その愛猫が逃げだしてしまったため、現在は旦那さんとふたりきりの生活だという。


「メスの黒猫でした。名前はムムっていいます」


 黒いといえば夜、夜といえば月、月は英語でムーン。その頭文字をふたつ並べて『ムム』。森下さんが命名したそうだ。また、ムムと森下さんが出会ったのは、今から四年ほど前のことらしい。


「いってらっしゃい。気をつけて」


 ずいぶんひんやりとする十一月中旬の朝だった。仕事に向かう旦那さんを玄関先で見送った森下さんは、いつものように一階のリビングで掃除をはじめようとした。掃除機をクローゼットから取りだしたとき、家の外で猫がしきりに鳴いているのに気がついた。


 声質からして仔猫らしいが、どこで鳴いているのだろう。耳を澄ましてみると、家の裏のようだった。


 キッチンの奥に勝手口がある。そこをあけて家の裏手を確認してみると、案の定黒い毛玉のような猫がすぐ見つかった。大きさからして生まれて間もない仔猫に違いない。室外機の横におぼつかない感じで座りこみ、いかにも不安そうな声でミーミーと鳴いている。


 森下さんは勝手口から身を乗りだして、家の裏とその周辺を注意深く見まわした。ほかに猫は見当たらない。親猫とはぐれてしまったのだろうか。


 しかし、これだけ引っ切りなしに鳴いているのだ。しばらくすれば親猫が気づいて、我が子をさがしに戻ってくるだろう。森下さんはそう考えて勝手口を閉じた。


 ところが、夜になって旦那さんが帰宅する頃になっても、仔猫は相変わらず家の裏でミーミーと鳴き続けていた。


「猫って夜行性なんだろ。夜のうちに親猫が連れていくんじゃないの」


 旦那さんは楽観的だったが、しかしそうはならなかった。夜が明けて朝になっても、仔猫のか細い鳴き声が、リビングに漏れ聞こえていた。


 森下さんはそのか細さを案じずにはいられなかった。昨日はほとんど絶え間なく鳴き続けていたというのに、今日の鳴き声は途切れ途切れでやけに頼りない。鳴き疲れただけであれば問題ないが、あんなに小さくて弱々しい仔猫だ。衰弱していたりしないだろうか。

 

 森下さんがそんな心配をしていると、昼過ぎなって天気までもが大崩れした。突如として陰気な曇が垂れこめ、豪雨ともいえる雨が降りだしたのだ。


 容赦なく叩きつける雨にさらされている仔猫が、どんな見てくれになっているかは想像に容易い。森下さんは仔猫がかわいそうでかわいそうで仕方なかった。どんどん心もとなくなっていく鳴き声が、必死で助けを求める泣き声にしか聞こえなかった。


 まもなくして森下さんの我慢は決壊した。


「もう、無理。ほっとけない!」


 ひとりで声をあげた森下さんは、そこから俊敏に行動した。勝手口をあけ放って家の裏に出ると、濡れ鼠になった仔猫をさっと拾いあげ、すぐさま胸に抱いてリビングに戻った。


 土砂降りの雨に苛まれていた仔猫は全身がずぶ濡れで、バスタオルでくるんでやってもガタガタと震えていた。冷たい雨のなかに長時間放置されていたため、体温が著しくさがってしまったのだろう。しかし、尾の先やヒゲの一本まで丁寧に拭いていってやると、いつの間にか仔猫は身体の震えを止めていた。小さい頭をこっくりこっくりさせて、船まで漕ぎはじめている。


 森下さんはほっと胸を撫でおろしたが、今度は旦那さんのことが心配になった。一度家の中に招き入れた仔猫だ。もう外にほっぽりだすなんてできない。つまり、旦那さんに一言の相談もなく、森下さんの衝動的な独断で、仔猫を飼う状況を作りあげてしまった。


「勝手なことしちゃったな。きっと怒るよね……」


 しかし、森下さんの心配は杞憂に終わった。旦那さんは変なこと案じたものの、森下さんの独断を咎めようとはしなかった。


「飼いたければ好きにすればいいよ。でも、大丈夫なのか。黒猫は縁起が悪いんじゃなかったっけ?」


 そんなの迷信に決まってるって。森下さんの突っこみで旦那さんの懸念は払拭され、晴れてムムは森下家の新しい家族となった。


 飼い猫として新しい生活をはじめたムムは、森下さんにも旦那さんにもよく懐いた。だが、人に媚びるような甘え方は決してしなかった。顎をなでてやればゴロゴロと喉を鳴らしたし、抱きあげてやるとその身を委ねたりもした。しかし、人と猫の違いをどこかで見定めて、適度な距離を保っていたように思えた。賢くて矜持のある猫だったのだろう。


 猫の成長は人のそれよりずっと早いが、ムムも一年で立派な成猫に育ち、しかもかなりの美猫に変貌を遂げた。黄色い目以外は真っ黒だというのに、なんとも言えぬ華やかさがあるのだ。毛並みの良さなのか、佇まい美しさなのか、他の猫にはない気品があった。


 あるとき、家にやってきた森下さんの友人が、ムムを見つめてしみじみと言った。


「猫にあまり詳しくない私でもわかるね。ムムってすっごい美形だわ」


 他の猫とどこが違うのかよくわからないが、重要などこかが決定的に違うのだ。SNSに画像をアップすると、みなが美人だと絶賛してくれた。


 最近の飼い猫はほとんどが家猫であり、ムムも例にたがわずで室内で育てた。ずっと家の中に閉じこめておくのは、監禁しているようでかわいそうにも思うが、猫は行動範囲が比較的狭い動物だ。室内が快適であればストレスを感じないのだという。


 しかしムムは、ときどき外の世界に興味を示した。森下さんの家のリビングは二坪ほどの庭に臨んでいる。その庭が見える掃きだし窓の前に座り、外をちょくちょく見つめるのだ。


 庭にはホームセンターで購入したプランターがふたつ並んでいた。そこに咲く花をぼんやりと眺めていることもよくあったし、空を不思議そうに見あげていることもしばしばあった。いつだったかムムのその視線を追いかけてみると、青い空に真っ白な入道雲がもこもこと盛りあがっていた。


 当時はまるで気にしていなかった。しかし、今になって思えば、ムムがいなくなった原因は間違いなくその庭だ。たとえばカーテンを閉めておくなどして、庭を見れないようにしておけば、今とは状況が違っていたかもしれない。


【後編に続く】





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