アレルギー

心憧むえ

アレルギー

 随分と鄙びた田舎に、私は住んでいた。二階の自室からの眺望は、見渡す限り田んぼや畑、それらを囲む山々で埋め尽くされている。

三十歳に差し掛かろうとしていた私は、未だ実家に寄生していて、ここより他の場所に足を運んだことはただの一度もない。そうなってしまったのも、いつからか発症したアレルギーのせいだ。



 自室で目覚めた私は、身体を起こして背伸びをする。書棚から適当に選んだ小説を手に取り、椅子に腰を下ろしてページをめくる。そうしているうちに、階段を上がってくる足音が聞こえてくる。


「真、朝ご飯ここに置いとくからね」


 母はそれだけ言うと、ドアの前に食事の乗ったオボンを置いて、一階へ降りていく。足音が聞こえなくなったところで、私はおずおずとドアを開け、そそくさとオボンを部屋へ持ち込みすぐにドアを閉じる。そしてご飯にありつく。食べ終わるとオボンを再びドアの外に置いて、自室にこもって小説を読み耽る。私は何十年もこうやって、判で押したような生活を繰り返してきた。しかし、今日は少しだけ、違った。朝飯が載ったオボンに、食事とは別に折り畳まれた白い紙があった。紙を開くと、どうやら母が私宛にしたためた手紙だった。手紙には、こう書いてあった。



――真へ  昨日、あなたが小学生の頃親友だった蒼汰君がやってきました。親友である貴方に折り入って話したいことがあるそうだから、勝手だけど私が明日に約束を取り付けておきました。ぜひ会ってあげてください。



 手紙を読み終えてすぐ、私は激しい痛みに襲われた。あまりの強さに立っているのもままならなくなって、その場に倒れ込んだ。苦しい、呼吸が安定しない。徐々に焦点が合わなくってきて、意識が遠のいていく。そしてそのまま、意識を失った。


 目が覚めると、私はベッドに横たわっていた。体は鉛のように重かったが、何とか上体を起こして、ベッドの頭にあるデジタル時計を見遣った。時刻は八時を示していた。階段を上がってくる足音が聞こえてきて、母がドアの前に食事を置いた。



「真、朝ご飯ここに置いとくわね。昨日はあまり食べてないから、今日はちゃんと食べるのよ」


 そういって母は階段を降りて行った。私はすぐに立ち上がることが出来ず、ベッドに座ったまま昨日のことを思い出していた。確か、母が昼飯を持ってきて、その中に紙があって、それは母からの手紙で、内容は――。



 数瞬、家の中にインターホンの音が鳴り響いた。それは私の思考を遮って、言い知れない焦燥を煽っていく。思い出した、今日は、誰か来るんだった。インターホンが鳴ってすぐ、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。それは、毎日聞いているものよりも少し重い音。足音はドアの前で鳴り止んだ。



「真、久しぶり。入るぞ」


 私は何も答えなかったが、奴はそんなこと気にせず部屋に入ってきた。


「久しぶり、真。元気してたか」

「久しぶりだな、蒼汰。あまり元気とは言えないな」



 蒼汰は腰を下ろして、胡坐をかいた。顔を見るのは小学生の時以来だが、面影が色濃く残っているおかげで、目の前の人物が蒼汰本人であると容易に認識できた。



「俺たち小学校の時はほんっとよく遊び倒してたよな。二時間目が終わった後の十五分休憩なんか、俺と真は真っ先にグラウンドに向かって野球してさ」



 蒼汰は話しながら、興味ありげに部屋の隅々を見回している。そうして書棚に目を止めると、一冊一冊を眺め始めた。


「小説読んでんだ。あの頃のお前からは考えられないな」

「十数年ぶりに再会して、そんなことを話したかったのか? 私は長く患ってるんだ。要件があるなら手短にお願いしたい」



 蒼汰は私の言葉にたじろいだのか、黙って俯いた。本来私は人と喋ることすら憚られる状態だというのに、長く居座られてしまうとアレルギーが発症する恐れがある。


「要件はなんだ」



 私は語気を強めて蒼汰を質した。蒼汰はなにか言いたげな表情を浮かべ、口籠っている。蒼汰の煮え切らない態度を目の前に、私は今にも怒鳴ってしまいそうだったが、そうなる前に蒼汰が口を開いた。



「実は、大事な話があるんだ。でも、その、なんというか……」

「早く言ってくれ」

「ここじゃなんだ。外にでも出かけよう。真もしばらく外に出ていないようだし」

「いや、それは――」



 蒼汰は勢いよく立ち上がり、私の手を取って有無を言わせず私を自室から引っ張り出した。勢いを保ったまま階段を駆け下りて玄関に向かい、あっという間に外に出る羽目になった。


「いきなり何をするんだ。外はあまり得意ではないんだ」


 そのまましばらく連れて行かれ、いつしか私たちは畦道に立っていた。


「いやー久しぶりに走った。汗だくだくだ。真も、どうだ。久しぶりの外は気持ち良いだろう」



 隣で気持ちよさそうに汗を流す蒼汰は、したり顔でこちらを見遣る。まったくいい迷惑だ。長い間運動とは無縁だった堕落した体には、少しの運動でさえ命取りだ。現に今、私は喋ることも出来ずに肩で息をしている。


「こ……こんな……ところで、一体なんの話をするというんだ。いい加減話してくれ」


 蒼汰はその場に座り込み、天を仰いだ。次いで呼吸を整えるように大きく息を吐いた。


「俺、実は結婚するんだ」

「そんなことをわざわざ、私に言いに来たのか」

「いや、これには続きがあって。相手は、お前の母さん。美代子さんと結婚するんだ」

「……は?」



 私は驚きのあまり、自然と口が大開きになる。次に掛けるべき言葉を見つけることが出来ず、ただただ唖然とした。

言っていることに嘘偽りはなかった。



「俺さ、真の家に行って、初めて美代子さん見た時、綺麗だなって思ってすぐ好きになったよ。でもそんなの、小学生にはよくありそうな話だろ? でも、中学、高校、大学、社会人になっても気持ちは変わんなくてさ。真は知らないだろうけど、お前が中学入って、引きこもりになったって聞いてから、ちょくちょくお前ん家来てたんだぜ」


 どうやら蒼汰の言っていることは、すべて真実のようだ。


「それは、その、なんというか……」



 頭の中を整理して、やっとのこと冷静さを取り戻した私は、母について考えていた。私が小学校に上がる前に父親を亡くしてからというもの、女手一つで私を育て、あげくアレルギーを発症した私の面倒をずっとみてくれた。不運に見舞われ続けたのだ、対価として相応の幸せを受け取る権利は必ずある。それに、どこの誰とも知れない相手ではない。ここで私が母の幸せを否定することなど、微塵もなかった。先程まで蒼汰に対して抱いていた苛立ちもいつの間にか収まって、密室の窓を開け放った時のような爽快感を覚えて、微笑が零れた。



「母のことをとやかく言うことはない。あの人は人一倍苦労してきた人だ。これから人一倍しあわせにしてやってくれ」

「勿論、そのつもりだ。それに、俺今土建屋を営んでるんだ。この歳で、社長だぜ?」

「私と同い年でもう社長か、それはすごいな。私たちを十分幸せにしてくれるに違いない」

「俺に任せとけよ。それで、今度結婚式を予定していて、お前にもぜひ出席してほしいんだ」



 私は当然、蒼汰の申し出を快諾しようとした。しかし、それは遮られてしまう。昨日味わった激しい胸の痛み。心臓を直接指圧されているような鈍い激痛。頭の中をミキサーでぐちゃぐちゃにかき混ぜられているみたいで吐き気を催す。その場に立っていられなくなり、倒れ込んだ。久しぶりだから忘れていた。この痛み、アレルギー発症の痛みそのものだ。ぼやけていく視界の中で心配そうに蒼汰が私を見下ろしている。声がだんだん遠くなって、やがて聞こえなくなった。



 目が覚めてまず初めに感じたこと、それは、私の体が揺れているという事だ。私はストレッチャーの上で仰向けになっているようだった。

聴力を徐々に取り戻していた私の耳朶を打ったのは、慌ただしい声と人の息づかいだった。



「真! 大丈夫か! 頼む、目を覚ましてくれよ!」


 再び体中に痛みが走る。そうだ、この痛みの原因は、私の持つ『嘘アレルギー』によるものだ。


「そ、蒼汰……ど、どうして……」

「よかった、本当によかった。生きて俺たちの結婚式に来てくれよ。頼む、死なないでくれ!」


 蒼汰の言葉一つ一つが、槍のように私の体を突き刺していく。


「そ、蒼汰……」


 ゆっくり、蒼汰が私の耳元に口を近づける。


「嘘アレルギー、知ってるよ。お前邪魔なんだよ、寄生虫。さっさと死ね」

 私はそのまま集中治療室へと運び込まれ、閉まりゆく扉を眺めた。蒼汰は私を見下ろしながら、不気味な笑みを浮かべている。



 痛みは少しも、増えなかった。

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