銀色の吐息が宝石の屑になる季節

夕空心月

第1話


カレンダーを一枚めくっただけなのに、空気の纏う色や匂いがすべて変わったような気がする。

私たちは勝手に10月を殺し、彼の遺した鮮やかな残骸を踏みつけ、今年もまた11月を迎えた。凛と冷えた空気を吸い、吐き出す。今年もあと2ヶ月ですね、と能天気にアナウンサーが告げている。気の早いクリスマスソングが退屈そうに流れている。寄り添う恋人たち、寒そうに手を擦り合わせながら歩くサラリーマン。


イヤホンを耳にあて、初冬の匂いのする街を歩いていた私は、不意に息苦しさを感じて立ち止まった。

私の奥深くに冷凍されていた記憶が、名前のない透明な感情と共に、俄に起き出す気配がした。

何が引き金になったかは分からない。ガラスのように冷たく美しく、鋭利で危うい空気のせいか、厭になるほど青く高い空のせいか、足元で音を立てる秋の亡骸のせいか、それとも。

けれどその記憶には実体がなく、輪郭もふわふわとしていて、私はうまくそれを映像化することが出来ない。靄のようなものがかかった向こうで、セピア色の映像が流れているのを眺めているような感覚だ。これはいつの記憶だろう。遠い昔の記憶のような気もするし、つい最近の記憶のような気もするし、或いは、私がまだ私でなかった頃の記憶であるような気もする。

私は道端にしゃがみこみ、透明に圧迫される胸を押さえる。枯れ葉の匂いが濃くなる。目を閉じると、どこからか聞こえる子供たちの声や、信号が青に変わる音が、先ほどよりも近く聞こえるのが分かった。




***




幼い頃、冬の夜に出掛けることが好きだった。冬の夜というのはひどく特別なもののような、神聖なもののような気がして、私はいつも、静かに心を踊らせていた。街はきらびやかな灯りで満ちていて、空に光る星や月は一際明るく見えた。空気は冷たく、ひんやりと私の頬を撫でた。そこかしこで弾むような音楽が流れていた。私は母親に手を引かれ、冬の夜を歩くのが大好きだった。まるで、自分がスノードームの中の景色の一部になったような感覚だった。


気づくと、隣にいるのは母親ではなくなっている。そこにいるのは、かつて好きだったあの人で、彼は私より少し先を歩いている。私は彼のことが好きだった。彼のすべてが欲しかった。けれど、私は彼と一緒になれないということも知っていた。私は彼の手を握ろうと何度も手を伸ばしては、静かに引っ込めることを繰り返していた。

不意に彼が振り向き、どうしたの、と微笑む。触れたら雪のように消えてしまいそうな、あまりに儚い微笑み。私はその白い首筋にキスをしたくて堪らなくなる。永遠に触れることは出来ないのに。

「好きだよ」

私は言う。彼が私を見る。

「冬が」

私は続ける。彼は安心したように、また微笑む。


気づくと、私は一人になっている。街灯の少ない道を、ひとりぼっちで歩いている。どこへ向かっているのかは分からない。ただ、帰りたい、と思う。けれど、どこに帰りたいのかは分からない。

ママはどこに行ったのだろう。あの人はどこに行ったのだろう。あれから、どれくらい時間が経ったのだろう。私は、どうやってここにたどり着いたのだろう。私は。

空を見上げた。そこには藍色が広がっていて、心細そうに星が幾つか瞬いていた。私の口からこぼれる息は銀色の粒になり、夜に溶けていった。藍色の布にビーズがこぼれおちていくようだった。


冬の匂いがしていた。


この匂いを、私は知っていると思った。

けれど私はもう、そこにはいなかった。取り返しのつかないところまで来てしまったのだ、と感じた。

細い三日月だけが、不思議そうに私を見下ろしていた。




***




どうしたの、という声で私は我に返った。

顔を上げると、そこには恋人がいた。心配そうに、私の顔をのぞきこんでいる。

大丈夫、ちょっと目眩がしただけ。私は立ち上がる。今見ていたものは何だったのだろう。私の記憶か、幻か、それとも。

ならいいけど、と彼が答える。何も言わずに差し出された手を、私は握る。

死ぬまでに、あと何回、私はこの季節を繰り返すのだろうか。その時隣にいるのは、一体誰なのだろうか。

「好きだよ」

私は言った。彼が振り向く。急にどうしたの、と笑う。

私は何も言わず、彼の肩に頭をもたせかける。冬と彼の匂いが混じりあい、そっと私を包み込む。


冬が、と私は答えた。心の中で。

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