2 頷く女
入社して2年目の初夏。
暑くなりはじめるこの季節、
新しい業務を覚えるのに必死で休もうにも休めず、心身共に疲弊していました。
辛いのは仕事だけなのに、
まるで人生全てが上手くいっていないような
気がして、
このまま生きていけるのだろうかと
強い不安を感じていたのは事実です。
希死念慮を抱く日が数週間続くことも
ございました。
しかし、あの電車に乗っていた女性に
会ってからの1ヶ月間、
私を襲った強い死への渇望。
原因はただの気落ちではないと思うのです。
当時実家暮らしだった作者。
日の出前に家を出て、空が暗くなってから帰るという日々が続いており、
休日は外に出ず眠り続けることもしばしば。
そんな私を見かねてか、ただの家族行事か。
気分転換に出掛けようという母の発案で、
両親と妹の家族4人揃って、
神奈川は横浜に出掛けることになりました。
楽しいイベントがあると分かると、
不思議なことに気分は晴れて、
日々の業務も苦になりません。
どれだけ辛いことがあろうと、
旅行を思い浮かべれば乗り越えられました。
そんなわけですから、
当日を迎えた時の喜びったらありません。
田舎者と馬鹿にされてはならないと、
とびきりお洒落な服に身を包み
バッグに着替えや化粧品を詰め込んで
家族全員、浮き足だって横浜へ。
有名なインスタントラーメンの博物館に驚き、
赤レンガ倉庫の味わい深い外観にため息ついたり。
なにぶん田舎者ですから、
地元にはない高い建物を見上げては、
観光地でもないのに感動してはしゃいでしまいます。
仕事で忙殺された心がぱーっと晴れて
今日まで頑張った甲斐があったなと喜びを噛み締めていました。
日が高く登り、
そろそろ中華街に行って昼食にしようと
電車に乗り込みました。
2席ずつ向かい合わせになっている座席がすべて埋まっていたので、仕方なく立つことに。
何食べようね、どこどこが有名なんだよね、
など、中華街について話していた時です。
視界の端に、こちらを向いた人の顔が見えました。
刺さるような視線を感じ、会話にも集中できません。
(声が大きくて、怒ってるのかな?)
私達の話し声で迷惑をかけているのかもしれないと怖くなり、確認しようとそちらの方へ顔を動かします。
左手に並ぶ向かい合わせになった席の通路側、
私の方へ向いている席に女性が座っています。
年は20代前半。
髪型はアッシュカラーのボブカット、
少し巻いてセットした今風のもの。
整った顔立ちに、澄んだ大きな目は印象的でした。
道で通りすがれば振り向いてしまうような、
とても可愛らしい女性。
しかし、私は不気味さを感じました。
彼女は体の正面ををわざわざ私のいる方に向け
座面のへりを掴み、
少し前屈みになってじっとこちらを見ながら、まるで会話でもしているように
うんうん、うんうん、と頷いているのです。
一瞬、訳が分からず固まりましたが
(いや、気のせいだ。気にしたらだめだ。)
と思って目をそらし、目的の駅に着くまで耐えたのです。
ホテルに一泊して次の日は東京を満喫しました。
最後まで楽しかった旅行。
しかし、あの女性のことだけが妙に心に残って、もやもやとしていたのです。
旅行の後、仕事はより辛く感じました。
お昼の休憩には立てなくなるほどの疲れに襲われます。
熱が出ていないのに熱っぽく、
背中がずっしりと重くてずきずきと痛みます。
(ストレスかな。辛いな…。)
そして、こう思いました。
(死にたいな。死んだら楽なのに。)
学生の頃から辛いことがあれば死ぬことを考えてしまうネガティブ思考であります。
ここまではいつものこと。
でも、今回は違いました。
(山に行かなきゃ。海、海の近くがいい。)
ぽっとそんな言葉が出てきたのです。
電話のアラームが休憩時間の終了を知らせて
はっと我にかえり、その日は終わりました。
しかし、日をおうごとに死にたいと思う回数が増していきます。
最初は仕事でミスをした時に思うぐらいでしたが、だんだんと、何も辛いことがないのに頭の中が常に死のことでいっぱいになるように。
そして、山に行きたいという気持ちが
行かなくてはいけないという使命感に変わり、
気がつくとそのことばかり考えていました。
その頃には、感情や気持ちだけではない
ある現象も起きていました。
仕事や私生活の何気ない活動をしている最中に
ふと意識だけが知らない山にいくのです。
どういう感じなのか、上手く説明ができないのですが…。
目でははっきり現実の世界が見えているのだけれど、
それに重なるようにして山の景色が見え、
その山の空気を肌でも感じているといった具合です。
自分が見ている、主観の映像でありました。
人が歩いて作ったような狭い道、
左右には細い木がまばらに生え、
草が生い茂っています。
私はそこをざっざと歩き、
その先にある場所へと向かうのです。
右手の木々の隙間から、空と混じりあう海が見えているので、
ああ、少し右側へ道をそれれば崖なんだ!と
わくわくしてきます。
現実の私も微笑むんですよ、ここら辺で。
さて、進んだ先、道は崖に繋がり視界が広がりました。
目の前には眩しくて白い空、
少し視線を下げれば海です。
崖の先端、
そこに腰を下ろした女性の後ろ姿があります。
真っ黒で長い髪は腰ほどまであり、
白いワンピースを着ているようでした。
彼女に出会うと、視点はその女性から見たようなものになり、自分の姿ばかりになるのです。
私は彼女を見かけると、笑顔で近寄って右隣に座りました。
そして、
「ここにいたの?」とか
「貴方がいると一人じゃなくていいわ。」とか
まるで彼女が親友であるかのように話しかけます。
これを数日間毎日体験しました。
そして、ある日のこと。
たしか仕事中だったと思います。
またいつものように意識だけ山を歩いて
彼女のいる崖へと向かいました。
そこまでは今までと同じなのですが、
今回は何故か彼女が立っています。
そして、そのまま手を左右に広げて
倒れるように身を投げたのです。
私はそれに慌てることもせず、
彼女のいなくなった空間をしばらく眺めてから、
一歩ずつ踏みしめるようにゆっくりと歩き、
直前で少し駆けて海へと飛び込みました。
水面がどんどん近づいてきます。
岩だけにはぶつかりたくないと心が叫びます。
そして、ばしゃんっと体が海に叩きつけられました。
陸上にいる現実の私の体に
何とも言えない浮遊感がまとわりつきます。
海の中の私は、今しがた自分が飛び降りた崖をゆっくりと見上げました。
そこには飛び降りたはずの白いワンピースの女性が立っていて、こちらを見下ろしていたのです。
水面が揺らめいているので、顔はよく見えませんでした。
この日を境にしてぱったりと、
死にたいと思うことも、
山に行きたいと思うことも、
意識だけ山に行くこともなくなりました。
忙しい時期だったので、精神的におかしくなっていただけかもしれません。
彼女がこちらを見ていたのもたまたまだったと思います。
でも、あの大きな目とあの頷く動きは
今思い出してもゾッとするのです。
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