1 月光に照らされた


去年の10月頭頃だったと記憶しています。

半袖シャツで少し肌寒いと感じるほどでしたから。




普段は老人ホームで

介護士として働いている作者。



その日は遅番という勤務形態で、

夜の10時まで働いていました。



1年前はその時間丁度に終われるほど仕事に慣れておらず、

仕事にキリをつけられたのは夜中の11時でした。



体は疲れていましたが、

仕事の重圧から解放されて、

肩の荷が下りたような清々しい気持ちで

ありました。



帰る支度をしてリュックサックを担ぎ、

夜勤者に「お疲れ様です。」と声をかけてから、

職員用の階段を下りていきます。




靴箱で外靴に履き替えて裏口の重い扉を開き、

忘れないようにさっと振り向いて鍵を閉めました。



さあ帰ろうと前を向いた時です。

見慣れぬものが目に入ってきました。




裏口の目の前、

アスファルトの狭い道路を

挟んだ先に田んぼが広がっています。


豊かに稲が実り、

まるで毛足が長い絨毯のようになっていました。


そこまでは昼間の通勤時と変わらぬ光景です。



建物の外壁を照らす光とは別に、

澄んだ空から注ぐ月明かりが眩しく田んぼを照らしています。

恐らく4、5メートル程先でしょうか、

その田んぼに実った稲穂の上を

大きな犬が歩いているのです。



犬はもちろん四つん這いで、

その体高は成人男性の腰ほどの高さ、

全体が白い毛で覆われ、

歩く度にその毛先が

水中にでもいるかのようにゆったりと揺れています。

その体は月光に照らされてぼんやりと光っていました。



あまりにも幻想的で思わず見いってしまいます。

ずっと眺めていたい美しさです。



まるで鼻唄でも歌っているかのように、

穏やかな足取りで歩くその犬。


田んぼの半分まで来たところで、

ピタッと立ち止まり動きを止めました。




そして、ゆっくりとこちらに顔を向けたのです。

その顔を見て吹き出るような恐怖を感じました。


真っ白でのっぺらぼうのように目、鼻、口がなかったのです。

なのに、何故か目があったような気がしました。



動けずにいる私のことをしばらく見つめたその犬は、

体の向きをぐるっと変えて

こちらに向かって駆けてきたのです。



(まずい!逃げないと!

 捕まったらまずいことになる気がする!)



慌てて三段の階段をかけおりて、

足をもたつかせながら車のある駐車場まで

走り抜けました。



途中後ろを何度か振り返りましたが、

何も追いかけてきてはいませんでした。






その日のことを興奮して色んな人に

話したところ、

ある方から

「やだぁ、野良犬かしら。」と

言われました。


その人が言うには、

ここら辺は捨て犬が多く、

野良化することがあるとのこと。


それなら、こちらに寄ってきた理由もうなずけます。


なんだか悪いことしちゃったなと

残念な気持ちになりました。





その数日後、

今度は早番の帰りで夕方だったと思います。


まだ日が登っていて明るかったので、

田んぼを見てもどうとも思いません。


道路と施設を隔てる垣根に沿って

歩いていきます。




「バウ!」



突然大きな声で吠えられました。


うわあっ!と思わず鳴き声の方を見ると

そこは垣根であります。


裏側をわざわざ確認することはしませんでした。




何故なら、その垣根と施設の隙間に

そんな大きな吠え声を出せる犬が

入れるスペースなんてないですし、

何より、垣根の隙間やすかすかの根本には

動物の足はおろか影もなかったからです。






今でもあの犬を思い出します。



もし、逃げずにその犬を受け入れていたら

どうなっていて、どんな景色を見たのだろうか…

そんなことを考えて少しワクワクしている自分がいます。




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