海が太陽のきらり

lager

海が太陽のきらり

「海には、人魚なんていないわ」


 そんな言葉と一緒に思い出すのは、焼けた肌に張り付く濡れた黒髪だった。

 陽子、とその少女は名乗った。

 切れ長の瞳と、小さな鼻。

 真上から降り注ぐ直線的な陽射しが、彼女の長い髪を艶々と輝かせていた。


「海にいるのは、もっと綺麗で、悲しいものよ」


 長く海に通う生活をしていたせいでかさついた唇が紡ぐそんな言葉が、僕には何故か妖しく光る宝石のように思えた。彼女は自分の零した言葉を恥じるように目を伏せると、僕に上目遣いの一瞥を寄越し海へと潜った。

 その時の顔にかかった飛沫の感触さえ、僕にとっては忘れがたい思い出の一つとなった。

 僕は大きく息を吸い込み、彼女を追った。




 僕が、その海辺近くの寂れた町を訪れたのは、ただの三回だけだ。

 高校生の夏休み。僕は部活にも所属せずにバイトに明け暮れていたのだけど、夏休みの中の一週間だけは、母と共に彼女の実家のあるその町に逗留することが義務付けられていた。

 いや。逗留と言うと語弊があるかもしれない。実際には日の殆どを僕はその家から追い出されて過ごしていたのだから。

 僕の両親が離婚したのは、僕が中学に入ってからのことだった。

 そして、母の両親が共に亡くなり、母の実家が空き家となったのを幸いに、彼女がその家を便利な別荘扱いし始め、さらには彼氏とのモーテル代わりに使うようになったのが、僕が高校一年になった時の話。


 母が僕を連れてきたのは、ただご近所さんへの心証をよくするために他ならず、初日に挨拶回りを終えてしまえば、あとの僕はただのお邪魔虫でしかない。

 僕だって、家にはいたくなかった。一度だけ、夜にうっかりリビングのゴミ箱の蓋を開けてしまったとき、使用済みのコンドームから漏れる生々しい栗の花とゴムの匂いに顔を打たれ嘔吐しかけて以来、僕は絶対にあの家のゴミ箱には手をつけないと決めている。


 二年目の夏。逗留二日目。

 僕は昨年と同じように朝食を摂るとすぐに家を出て、町を散策した。

 母の彼氏さんが来るのは三日目だろうから、本当は今日は家を出る必要もないのだけど、明日から長い長い一日をどう潰して回るか、下見をしようと思ったのだ。

 強い日差しの中を、目深に被ったキャップの中から覗くようにして見回す町は、たったの一度しか訪れていないのにも関わらず、とても馴染み深い景色に思えた。

 蝉の声と、焦げ付くアスファルトを歪ませる蜃気楼。電柱の根元に引っかかったアイスクリームの包み紙。色の濃い青空と、風に乗って鼻に抜ける潮の匂い。


 目的もなくぶらぶらと歩き回っていた僕は、いつしか海岸線に出ていた。

 全ての道は、海へと繋がっている。そんなフレーズが頭に思い浮かぶ。

 別に泳ぐつもりもない。かと言って釣りをする道具も心得もない僕は、ただまんじりと、車も通らない道のガードレールにもたれかかり、岩礁に打ち付ける白い泡の行き来を見つめていた。


 彼女に出会ったのは、その時が最初だった。


 これは冗談でもなんでもなく、最初は水死体だと思った。

 誰一人として泳ぐものもいないような岩礁の向こうに、ぷかぷかと浮かぶ黒い何かを見つけた僕は、それが紛れもない人間の頭部であることを認め、思わず身を乗り出していた。

 ――誰か、人を呼んで……。

 一人あたふたとしていると、やがてその塊は明らかに波の動きとは無関係にぐるりとひっくり返り、日に焼けた浅黒い肌を見せた。

 小柄な女性。いや、年は僕と変わらないくらいかもしれない。その少女はしなやかな動きで海面をかき、近場の岩に手をかけると、ゆっくりと息を整え、顔を上げた。

 そして、僕と目が合った。


 その切れ長の目が、僕の姿を捉えた途端、シャッターを閉めるように伏せられた。

 彼女は慌てたように岩肌を蹴り、そこから離れた浜へ一目散に泳いでいくと、彼女のものらしき手荷物を抱え、歩き去っていった。

 歩きながらサンダルをつっかけ、大きめのTシャツを被る彼女の水着の尻を、僕はしばらく目で追い続けた。やがて、自分が今どれだけ破廉恥な行いをしていたのかを自覚し、一人で頭を抱え赤面した。




 三日目。

 僕はやはり朝食を摂ってすぐに家を出た。絶対に彼氏さんとは顔を合わせたくなかったので、大きな幹線道路や比較的商店の集まっているようなエリアには行かないと決めていた。昨日の晩に作っておいたおにぎりを二つと、水道水の入ったペットボトルをナップサックに詰めて、真夏の町を歩いた。

 脳裏に過るのは、昨日見た少女の後ろ姿だった。

 僕の足は、自然と海岸線に向かっていた。


 彼女の姿はなかった。

 微かな落胆を覚えたが、では彼女に会ってどうするというほどの考えがあったわけでもない。僕はまた、何の目的もなく、白い波の打ち寄せる浜と岩場の境に座り込み、心を空にして夏の色彩を眺めていた。

 視線の遥か向こうに山塊のような入道雲が見える。真上の空は鮮やかな青。徐々に薄くグラデーションとなって水平線に流れていく。海の色は複雑だ。潮目によって色味が微妙に違うし、波打つ海面は陽の光を乱反射する。

 碧。紺。藍。紫。黒。淡い色はあまりない。

 濃い潮の匂いを呼吸していると、海に浸かりもしないのに、自分が海の中を漂っているような奇妙にふわふわとした感覚に落ちていく。


「あの」

 ほとんど放心していたような僕の背中に声がかけられた。

 弾かれるように振り向けば、意外なほど近くに立つ、少女の姿があった。

 長い黒髪と、浅黒い肌。ぶかぶかのTシャツと、膝から下が雑に切り取られたどこかの学校指定のジャージ。

「すみません。昨日、ここにいらした方ですよね」

 それが、彼女との二回目の出会いだった。


 彼女は、地元の小さな旅館の一人娘なのだという。

「ごめんなさい。昨日、失礼な態度をとってしまって……」

「いや。こっちこそ。覗き見するつもりはなかったんだけど」

「すみません……」

 体の向きを斜めに逸らし、伏し目がちに話す彼女の声は少し鼻にかかったようで聴き取り辛い。

「ご旅行ですか?」

「うん。まあ、そんなとこ」

「この辺り、あんまり若い人いないから」

 余所者は一目で分かるということらしい。

 僕と彼女――陽子は、ぽつぽつと言葉を交わした。


「海斗、っていうんだ」

「カイは……」

「海。泳ぐのなんか苦手なのにさ」

「私は好きです」

「今日も泳ぎに?」

「はい」

 夏休みとあらば、旅館の仕事もそこそこ忙しい。それでも彼女は、朝の仕事の手伝いを終えるとこの浜辺にやってきて、誰もいない海の中を泳いでいるのだという。

「邪魔しちゃったね」

「いえ。すみません」

 

 よく謝る子だな、と思った。旅館の手伝いなんてしていると、そういう癖がつくものなのだろうか。いや、単に彼女の性格なのかもしれない。

 僕はこれ以上彼女の楽しみの時間を奪うのが忍びなくて、それじゃ、とそっけなく挨拶をし、立ち上がった。彼女はもう一度すみません、と小さく零すと、いそいそと服を脱ぎ捨て、藍色の水着姿で海に潜っていった。

 僕は浜辺から道路に上がり、錆の目立つガードレール越しに彼女の姿をもう一度追った。

 海の中の彼女は、陸の上でのおどおどとした所作がまるで嘘のように、生き生きとして、力強かった。

 陽射しを受けて輝く彼女の髪を見て、確かに陽子という名前がよく似合うと思った。


 しばらく潜水していた後で海面に顔を出した彼女と再び目が合い、僕は小さく手を振った。彼女はそれを見て咄嗟に右手を上げかけ、すぐにそれを引っ込めると、立ち泳ぎのまま器用にお辞儀をして、海中に消えた。




 翌日、四日目。

「泳ぎを教えてくれないかな」

「え?」

 僕は、前日に陽子と別れた後で購入した水着をジーンズの下に履いて、彼女を訪った。僕を見て一瞬はにかんだ笑みを浮かべた彼女は、僕からの申し出を受けて大いに戸惑った。

「でも、私、人に教えたこととかなくて……」

「いいんだ。迷惑でさえなかったらなんだけど」

「そんな、迷惑なんてことは」

 勿論下心もあった。けど、それ以上に、彼女の泳ぐ姿をもっと間近で見たいという気持ちが強かったように思う。泳ぐのは苦手だし、はっきり言って嫌いだけど、人と一緒ならそうそう事故も起こるまいという、無根拠な自信もあった。


「じゃあ、私でよかったら……」

「うん。よろしく」

 そういうことになった。

 結果から言うと、陽子はお世辞にも教えるのが上手くはなかった。いや、端的に言って下手だった。

「体を、こう、ぎゅんって揺らして腕を回すと、勝手に前に進むから、後はいいタイミングで息継ぎして」

「いいタイミング?」

「水戸黄門のリズムです」

「ええ?」

「じーんせーい、らくあーりゃ、くーもあーるーさー」

「分かんないよ……」

「ええっと……」


 陽子はどうやら、こと泳ぎに関して苦労したことがないらしい。

 彼女に備わる生来のリズムと呼吸が、海を泳ぐことにマッチしているのだろう。彼女の言葉による説明をあてにするのは限界があると知った僕は、必死に彼女の動きを真似して海水を掻き回した。

 滑らかに水を蹴る足。波打つ体。首筋の動きまでもを観察し、追い縋った。

 人間と言うのは単純なもので、当初の目的とは裏腹に、ある程度海中での動きが身についてくると、次第に泳ぐこと自体が楽しくなってくる。

 両手に感じる、海水の抵抗感。体を包む浮遊感とスリル。陽射しの熱と、海水の温度のコントラスト。僕は夢中になって、陽子と二人きりの海を泳いだ。


「私、海が好き。海で泳ぐのが好き」

 五日目を併せて二日間も一緒に過ごしていると、次第に彼女の口から敬語が消え、代わりに笑みが増えていった。その頃には僕も、足の着かない場所でパニックを起こさない程度には、海での泳ぎにも慣れていた。

 成程、確かに海を泳ぐということは、プールを泳ぐこととは全く違う。

 匂いも違うし、音も違う。体全部を水に包まれているという条件は同じなはずなのに、海水の中で感じる音は、プールのそれと比べて遥かに大きく、複雑な色に満ちているように思えた。

 波のリズムと、大きなうねり。岩肌に打ち付けられる飛沫。海底を撫でる水の音。無数の命の音。それでいて、人間の発する言葉という騒音から完全に隔離された、絶対の無音。日頃都会に住んでいることで、自分がいかに人間の発する音の洪水の中を生きていたかを実感する。

 そんな世界の中を自由に泳ぎ回る陽子の姿は、美しさを通り越して神秘的ですらあった。


 僕たちは、ひとしきり泳ぎ疲れると、さきほどまで遊びまわっていた海を見ながら、無意味な会話を交わし合った。

「ねえ、知ってる? 水戸黄門の歌のリズムで、どんぐりころころが歌えるの」

「なんですか、それ?」

「どーんぐーり、こーろこーろ、どーんぐーりーこー」

「やだ、変なの」

「今度から泳ぐときはこの歌詞を思い浮かべてみて」

「無理よ。笑っちゃう」


「いつまで、こっちにいるんですか?」

「今週いっぱい。だから、明後日の朝には帰る」

「そう。天気、丁度よかったみたい。来週から雨が降るって言ってたから」

「雨の日でも泳ぐの?」

「いいえ。でも、雨が上がったらすぐ入るの。雨が降った後の海も好き。濁っててきれいじゃないけど、何だか、力強く感じる。命に満ちてるの」

「へえ」

「初めて入った時は、お味噌汁の中を泳いでるみたいだと思ったけど」

「あはは。海藻とかあるもんね」

「お味噌汁の具、何が好きですか?」

「しじみかなぁ」

「私はなめこ」


 陸に上がった陽子は、いつも俯き気味に喋った。

 少し鼻にかかった声でぼそぼそと話す彼女の様子は、海中を舞うように泳ぎ回る姿からはかけ離れていて、彼女の居場所は陸の上ではなく、あの冷たい静寂の世界にこそあるのだということを実感させた。

 それなのに、陽子の海を見る視線に僅かな翳りがあることに、僕は気づいていた。

 晴れ上がった青空と、それより遥かに深い色の大海原。どこまでも突き抜けていくような広大な景色を僕が疲労と満足感から呆然と眺めている横で、陽子は何かを堪えるように唇を引き結んで、それでもまっすぐに、その切れ長の目で海を見ていた。

「私、海が好き。海で泳ぐのが好き」

 その言葉も、まるで自分や僕以外の何かに向かって言い聞かせているように、僕には思えた。

 



 そして、六日目。

 翌日の朝には出立する予定であることは告げていたので、僕が彼女と過ごせるのはこの日が最後だと、お互いに分かっていた。

 陽子は砂浜と岩場の境で僕を待っていた。

「見てほしいものがあるんです」

 そして、やはりぼそぼそとした声でそう言うと、僕を顧みもせずに岩礁の先へと誘った。海に慣れない人間にとって、岩礁を歩くというのは正直に言って怖い。当然ながら人が歩きやすいような作りにはなっていないのだから、常に足元に気を配らないといけないし、気を配っていてさえも、時折ぬるりとした感触の何かに足を取られ、バランスを崩しかけることもある。

 陽子は、まるでコースの決められたアスレチックを攻略するような動きで、ひょいひょいと灰褐色の岩場を渡っていった。

 

 彼女の足が止まる頃には、僕はいくらか距離を離されていた。少し焦りを覚えながらもなんとか追いつくと、僕の口から思わず感嘆の声が漏れた。

 天然のプールだ。

 僕にはそう思えた。

 そこは、岩礁の中でもかなり奥まった場所にあって、ちょうど車道がカーブする崖の下に位置していた。崖の上には小さな木立があって、普通に道を歩いていても見つけづらいだろうと思われた。一体どういう自然の作用が働いたのか、楕円に抉られたような岩場が深い淵を形成し、中で泳げるようになっている。

「すごい」

「秘密の場所なんです。以前、たまたま見つけて」

「すごいよ」

 語彙力を失くした僕に、彼女はくすりと笑いかけると、その場で着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。

 浅黒い肌が顕わになり、ほつれた黒髪が潮風に棚引く。

 その瞬間に、彼女は変わる。陸の上の恥ずかしがり屋の女の子から、人を惑わす海の精へと。


 ――人魚みたいだ。


 僕のそんな心の声は、どうやら口から漏れていたらしい。今正に海中に飛び込もうとしていた陽子の動きが止まり、きょとんとした顔でこちらを振り返った。

「あの、なんて?」

「ごめん」

「いえ……」

「初めて見た時にも、思ったんだ。人魚みたいだ、って」

 これは大きな嘘。人魚と水死体じゃ、えらい違いだ。僕はまた、彼女がはにかんで俯くだろうと思った。その照れ隠しに海へ飛び込んだ所で、僕もそれに続こうと考えた。

 案の定、彼女はさっと目を逸らすと、大きな飛沫を上げて彼女の世界へと飛び込んだ。そして後に続いた僕を出迎えると、不意に薄暗い声でこう言った。

「海には、人魚なんていないわ」

「え?」

「海にいるのは、もっと綺麗で、悲しいものよ」

 その言葉の意味を問い質す間もなく陽子は海中に没し、僕も大きく息を吸い込んで、それに続いた。


 その岩場の中は、彼女のために用意されたステージだった。

 あっという間に僕では追いつけない程深くに潜った彼女は、陸上よりも緩やかに流れる時間の中で、海と一つになっていた。透明度の高い水を突き抜けて岩肌に注ぐ陽光が七色の分光をばら撒き、それを羽衣のように身に纏って、陽子は舞った。

 色が、音が、解けて絡まる。

 彼女のしなやかな肉と、長い髪が、踊る。躍る。踴る。

 僕はもはや彼女についていくことも忘れ、海面に無様に浮かび上がったまま、この世のものとも思えぬ演舞に見入っていた。


 前から思っていたが、陽子は息が長い。測ったわけではないが、優に二、三分は海中に潜っていられる。一度海面に浮上した彼女はまるで人の世のルールに不承不承従うかのように一度呼吸を挟み、再び真っ直ぐ、水底を目指した。

 そして、くるりと反転しこちらに視線を向けると、僕に向けて両手を広げた。

 

 ――オイデ。ココマデ。


 その誘惑は、一瞬で僕の心を絡めとった。恐らく、水深は五メートル程。あんな場所まで潜った経験は、僕にはない。

 揺らめく分厚い海水に阻まれ、彼女の表情は分からない。

 僕は大きく息を吸い込み、体を折り曲げた。

 上半身を垂直に。海面に突き出た足が滑稽な動きで暴れる。

 渾身の力を込めて水を掻き、体を押し込んだ。

 沈んでいく。真っ直ぐに。落ちていく。

 徐々に暗くなる。体が重くなる。

 恐怖が増していく。

 陽子の顔が、近づいていく。

 その左手が、僕の右手に重なった。

 

 逆の手を掴もうと伸ばした僕の左手から陽子の右手がするりと逃げ去り、上方を指差した。

 もう息が苦しくなっていた僕がそれに従って体を反転させる。


 光が、はぜた。


 自然が作り上げた天然の巨大水槽。

 その縁となる岩礁の楕円の丁度真ん中に、日輪があった。

 深さ五メートルの水底から見上げる陽光は、煌びやかで、優しく、多面的な、冷たい光の華だった。


 僕はしばし、息苦しさも忘れて放心していた。

 やがてつないだままであった右手を引かれ、陽子と共に浮上し始めてからようやくそれを思い出し、俄に迫った死の予感に、必死になって足をばたつかせた。

 辿り着いた大気の中で、僕は盛大に咽こみ、酸素を貪った。

「ごめんなさい!」

 背中をさする陽子が青い顔で謝る。僕は岩肌にしがみついたまま、なんとか息を整え、弱々しく笑みを作った。

「大丈夫」

「でも……」

「もう平気だから」

「ごめんなさい」


 すっかり陸の上の姿に戻った彼女と共に、僕は岩肌に上がった。比較的平らな個所にタオルを敷き、腰掛ける。隣で同じように自分のタオルの上に座った陽子の、岩の形に歪んだ太腿の肉が、やけに艶めかしく思えた。

 僕と陽子はしばらくの間、無言で潮風を浴びていた。

 波の音の規則的なリズムは、僕の心臓の鼓動よりも遥かに遅く、柔らかな風は、火照った肌を冷ますには物足りなかった。

「キレイだった」

「うん」

「すごく、キレイだった」

「見てほしかったの。私の宝物」

 きっとあと数分もすれば、陽の角度が変わって、先程の景色は見えなくなってしまうのだろう。縛りもせずに伸ばしたままの黒髪の一房を弄ぶ陽子の指は、とても小さく、儚げに見えた。


 僕は右手を伸ばし、陽子の肩を掴んだ。

 びくりと震える彼女の挙動が、僕の心を竦ませた。

 それでも、僕の気持ちは溢れたまま止まらなかった。他にどうすることも出来なかった。

 俯いたままの彼女の顔を覗き込み、掬い上げるようにして、僕はキスをした。

 陽子の荒れた唇は、一瞬固い感触を伝えたあと、その奥にある柔らかな弾力を僕にくれた。

 何の味もしない、ただ唇を触れ合わせるだけの拙いキスだった。

 それでも、その一瞬の交錯と、掌に触れた彼女の肩の温度だけが、その時の僕の全てだった。


 陽子の、膝の上に置かれた両手が握り拳を作っていた。指が白くなるほど握り締められたそれは、微かに震えていた。さらに一段と角度を増した俯き顔が傾き、彼女の頭だけが、僕の左側の胸に預けられた。

 黒髪に擽られた肌に、ぞわりとした感触が伝う。小さい体だった。その華奢な肩を抱きしめることもできずに、情けなく宙をかく僕の腕から、陽子の体がするりと抜けた。

「…………」

 ぼそりと、何かが囁かれた。

 鼻にかかったその声は、ひどく聴き取りにくかった。

 ぴしゃぴしゃという足音が、僕から遠ざかっていく。きっと、初めて会った時と同じように、歩きながら器用にサンダルをつっかけ、いつものぶかぶかのTシャツを被り、紺色の水着に包まれた小さな尻を揺らして去っているのだろう。僕には、それを見ることは出来なかった。

 ただ、空が青いことしか分からなかった。

 陽子がくれた最後の言葉は、僕には聞き取れなかった。けど、その意味だけは十分すぎるほどに伝わった。


 ――サヨナラ。


 僕はそう言われたのだ。

 一人残された彼女の秘密の園で、僕はたっぷり一時間ほど、固まっていた。




 翌日、僕と母は当初の予定通りにその町を去った。親戚やご近所さんへの挨拶周り、家のメンテナンスを頼んでいる業者への確認等もろもろの用事を済ませ、午前中の内に車に乗った。母はどうやら前日付近に彼氏さんと喧嘩でもしたのかひどく不機嫌で、車内は終始、無言だった。

 残りの夏休みは、ほとんどバイトのシフトを消化するだけで終わった。二学期が始まれば、カレンダーにぎゅうぎゅうと押し込まれた行事や試験もろもろで、あっという間に年は暮れた。年が明ければさらに早い。僕は進級し、母は彼氏さんと別れた。

 

 そして、三年目の夏。

 母はもう実家には帰らないと言い、僕は一人であの町へ行くことを決めた。

 進学などする気もなかった僕は早々に就職活動を始め、マナー講座や会社見学などなどのスケジュールの合間を縫っての旅行だった。

 初日はやはり挨拶回りと家の掃除に費やされ、二日目の朝に、僕はようやく、海へと向かった。

 それは、一年前の光景と何一つ変わることのない、空と海だった。

 誰もいない砂浜。彼方に聳え立つ入道雲。濃い潮の匂い。

 陽子の姿だけが、そこになかった。


 翌日も、陽子は現れなかった。その日は風が強く、空の高くを灰色の雲が流れていた。

 僕は諦めきれず、一年前の記憶を頼りに、彼女の生家である旅館を探して歩いた。けれど、町のどこを探しても、そんなものは見つからなかった。真新しい安ホテルと、老夫婦が趣味でやっているような宿があるばかりだった。

 その老夫婦に、話を聞いた。


 その町にもう一つあった、小さな旅館。その主であった陽子の父親が、昨年の春に海難事故で亡くなったのだという。

 父親の命を呑み込んだ海へと毎日出かけては一人泳いで遊ぶ陽子のことを、彼女の母親は理解することが出来なかった。陽子の母は新規の予約を断り始め、全ての客がいなくなった昨年の夏休みに、陽子を連れて彼女の実家の長野へ帰って行ったのだそうだ。

 四方を山に囲まれた、信州の町へと。

 まさか一週間かそこらでそんな話がまとまるはずもない。あの時、陽子は知っていたのだ。自分がこれから、海のない町へと越して行かねばならないことを。


 痛ましそうに語る老夫婦の話から、いくつもの連想が生まれた。

『ごめんなさい』

 口癖のように陽子の口をついて出たあの言葉は、きっと彼女の母親に対して言い慣れたものだったのだろう。


『私、海が好き。海で泳ぐのが好き』

 それはきっと、本心だったのだろう。あれは、海そのものへの謝罪であり、怨み言であり、言い訳であったのだ。


『海にいるのは、もっと綺麗で、悲しいものよ』

 綺麗なものは教えてもらった。悲しいものを、彼女は隠していた。


 僕は、ふらふらと曇天の町を歩き、やがて、彼女の秘密の園へと足を向けていた。

 少し迷いながらも辿り着いたその巨大な淵は、記憶の中のそれよりもずっと暗く、深い、墓所のように思えた。

 服を脱ぎ捨て、潜った。

 海水は冷たく、重く、肌に纏わりついた。少し潜れば瞬く間に重力が拡散し、上下の感覚が曖昧になる。一年ぶりに味わう、海の鼓動。波のうねりは大きく、僕を攪拌した。

 

 恥を承知で言うが、僕は半分くらい、陽子の実在を疑っていた。

 彼女は去年の僕が見た夏の幻で、本当はそんな少女などいやしないのではないかと、そんな妄想に耽ったこともあった。

 この一年の間に、彼女を思い出すモノはいくらでもあった。サイダーのボトル。ビーチサンダル。夕陽。教室で前の席に座る女生徒のうなじ。海洋生物のドキュメンタリー番組。

 そのどれもが彼女の面影をほんの欠片ほど含んではいたけれど、陽子という少女の影を掠めるばかりで、僕の記憶の中の彼女と真に結びつくものはなかったのだ。


 行先は聞いた。探せばきっと、会うことは出来るだろう。それでも、その行為に一体なんの意味があるだろう。


 ――ねえ。


 深く深く、水底に潜った僕の背後から、声が聞こえた気がした。

 咄嗟に振り返った僕の目に、光の華が咲いていた。

 上空で雲間が晴れたのだろう。少し傾いだ陽光が、頭上の高くで水面に弾け、僕の体にばら撒かれた。

 暗い檻のように思えた岩場に、色彩が蘇った。

 虹色のプリズム。揺蕩う海藻。泡沫。何もかもが、煌いて――。


 その中に、僕は幻影を見た。

 しなやかに、力強く、艶めかしく舞い踊る、マーメイド。

 

 ――陽子。


 僕は、水を蹴った。

 海中に咲く光の華。その中に舞い踊る彼女の影に、手を伸ばした。

 伸ばしても、伸ばしても、それはするりと逃げていく。

 長い黒髪。褐色の肌。荒れた唇。華奢な肩。

 どこまで行っても、決して僕のものにならない、光と影。

 やがて僕の体は海面を突き抜け、大気の中へと顔を出していた。その瞬間に幻影は消え去り、僅かに差していた日の光も消え失せた。雲の流れが大きく変わり、再び陽が遮られたのだ。僕はよろよろと岩肌にとりつき、息を整えた。


 あるいは。

 本当に陽子という女は、幻だったのかもしれない。

 あの老夫婦の言っていた悲劇の家は、実は全然別の誰かのことで、僕が見た陽子は、海の中にいた、綺麗で悲しい何かだったのかもしれない。


 海の中でしか会えない女。

 海の中でしか見えない光の華。


 少なくとも、僕がこの一年に思い起こしたどんな陽子の面影よりも、先に見た光の中の幻影は、確かなリアルだったのだから。





             了



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