錫――スズ――弐


 あの龍がいつもそうだったように、キナリは崩れて小さくなった丘の先端に座っていた。


「よぅ、キナリ」

「なんだよ。また騙しに来たのかよ」

「俺は嘘ってのは嫌いでね。ちょっと話が大袈裟になるだけなんだ。それよりキナリ。お前にとっておきの情報を持ってきたぞ」

「聞きたくない」

「おいおい、俺に怒るのは筋違いってもんだろ? とにかく聞きな。海で龍の子供に会ったんだ。どうだ? 驚いただろう」

 キナリはさっと立ち上がって俺に詰め寄る。

「師匠の子か!?」

「まず間違いないだろうな。紫の目をした十三歳の人間だ。今はな」

 キナリはあからさまに嬉しそうな顔をしてから、思い出したように溜め息を吐く。


「おい、カラス。お前どこで聞いてたんだよ。それ俺しか知らない話だろう。でたらめ言いやがって」

 俺は胸を張って答える。

「そこの茂みに隠れてたのさ。けど俺が盗み聞きしてたから、あの子供に気付けたんだから良かっただろう? 名前はセツって言うんだけど……」

「黙れ!」

 キナリが俺に牙を剥く。

「そんな嘘を吐いて、もしまた大事になったらどうする気だ!」


 ――あぁ、嘘だと思われたのか。


「くだらない」

 俺は吐き捨て、その場から飛び去る。

 何だよ。俺はいつも、嘘は吐いていないのに……。

 狐には『境界を跨ぐ川の上流から獅子の死体が流れてきた』と言った。

 それは本当の事だ。

 大蛇には『地上の王はお前だ』と言った。

 人間の女が逃げたいって言うから手伝ってやっただけだ。

 からかったのは悪いと思うが、女に付いて行ったのは危ないといけないと思ったからだ。

 その言葉を争いの火種にしたのは本人たちだろう。

 白も人間も少しの切っ掛けだけで疑って争い出すんだ。そっくりじゃないか。俺の言葉なんか軽く否定して、ただ信じればいいだけなのに。


 ――人間が人間を辞める時代だもんな。


 それから人間たちの待つ所へ戻る気にもなれず夕焼け空をひたすら飛んだ。息が苦しくなるくらい高く飛んで、赤色の中をずっと飛んで、気が付いたら青色が迫っていた。


 海辺に帰ったのは、糸屑みたいな月が山陰に消えた夜中だ。

 だいぶ遅くなってしまったので、セツが機嫌を損ねていないかと慌てて飛んだ。浜辺には火が一つ揺れていたので、そこに向かって降りる。

「おーい。遅くなって悪かったな」

 二人は昼間の岩の先から水面を覗き込んでいる。

「あぁ。おかえり」

 何十年ぶりに聞くその響きに、キナリの事で毛羽立っていた気持ちが静まっていく。

しかし、よく見るとシコクは全身ずぶ濡れだ。

「どうかしたのか?」

「人魚さんが潜っちゃったんだ。あの人たちが起きて、怖がっちゃって」

「怖い? 人間が好きだとか言ってたはずだろう?」

「いや、怖がって傷つけたのは人間の方だ」


 ――あぁ、なるほど。


 おやっさんたちは人魚に会って『食われる』とでも思ったんだろう。人魚については人間の方にも色々と言い伝えが残っているから、俺も気をつけろと言われていたっけ。

「それで、シコクは追いかけたのか?」

「そうだ。でも駄目だった」

「そうだろうな」

 その後しばらくすると、セツは何処からかやって来た巨大な白くない兎に寄りかかって眠った。

 俺は服が乾かないシコクと酒を飲みながら話をする。その時には俺は人間の姿だ。

「なぁ、セツが言う色って何なんだ?」

 火で薄っすらと見えるシコクの表情を窺いながら、直球で聞いてみた。

「そうだな……半分は白なら信じてもらえるかもしれないな。セツには感情が色で見えるらしいんだ。黒は怯え。白は攻撃性。青は悲しみ。みたいに」

「なるほどなぁ。見られてたのか」

 半分は白と言われた言葉が引っ掛かるが、それを口には出さないでおく。

「あぁ。……ありがとう」

 シコクはなぜかお礼を言って、海を見る。


「急に目を覚まして、隠れる暇もなく人魚は見つかってしまったんだ」

 唐突に始まった話を聞くと、シコクは人間の味方と言うわけでは無いようだ。

 おやっさんたちは俺が居なくなった後で目を覚ますと、海から顔を出す人魚を見て悲鳴を上げたらしい。

けれど特に攻撃はせずに逃げて行ったという。

「じゃあ何で人魚は潜ったんだよ?」

「人魚はイルカの生まれ変わりなんだ」


 イルカとしての時間が終わると、そのまま人魚の生が始まる。イルカの時と同じだけ生きる事になっているから、生の残り時間が分かるのだとシコクが言う。


「人間と泳いだ記憶が消えなくて、楽しかった事が忘れられなくて何度も会いに来ているらしいが、もう……あまり時間が無いと言って泣きながら潜っていったんだ」

 風のない夜、水面がピチャンと音を立てる。

「とても寂しい色をしていたと言っていた」


 このご時世に人間の温もりを求めるなんて、哀れなものだ。

 あの龍といい人魚といい、どうして求めるのだろう? 

 どうしても求めてしまうのだろうか? 

 俺を妊娠していた時にあの仲違いが起きて帰れなくなった母さんが「人間は口汚くて傲慢だけど憎めないの。馬鹿な子ほど可愛いって言うしね」と話していた事と雰囲気は似ているのかもしれない。

 確かにどちらの半円も生きてみると、白は神様と言われるほど大したものじゃないし、人間の優しさは不意に降り出す雨みたいで沁みる。

 諦めはしても捨ててしまえない何かがある。けれど二色が混ざると雷雲の色になる。

「一緒に来るのなら聞いてほしい事があるんだ」

「どうした?」

 シコクが火の中に木を投げ入れる。それから立ち上がり、生乾きの服を着る。

「セツをよく見ていてほしいんだ」

「また何で?」

「襲われそうになった事がある。男によく好かれるんだ」

「はぁん。こう言っちゃなんだが、気持ちは分かるよな」

 セツは美しい。

 辺り一面の新雪の上に一滴の血が落ちるような美しさだ。人魚の歌声のような麻薬と言ってもいい。それは龍の持つ何かしらの力なのかもしれないけれど。

 けれどあの射抜くような目が嫌だ。何も見ないでほしい。


「頼む。どうか人間を嫌わないでくれ。またいつか繋がれるように」

 こいつには溜め息が出る。

「あのなぁ……俺は混ざり者だから白でも人間でもない。どっちでもないんだ。俺に言うのは筋違いってもんだよ」

 シコクは「すまない」と頭を下げる。面倒くさい奴だ。

「人間が人間を辞める時代だからなぁ。白とか人間とかじゃなく、お前はいい奴だよ」

「人間を辞めるって?」

「あぁ。鬼たちの話だ」

 適当に話を終わらせようと思っただけなのだけれど、シコクは食い付いて詳しく聞きたがった。そのうち荷物の中から酒まで出してきて長期戦の装いだ。


「面白い話じゃないけどな」

「それでも知りたい」

 俺はつい数日前の、生け贄女が鬼になった話をしてやった。その女が最後に人間を信じて撃たれた事まで話すと、シコクは会いたいと言う。

「しかしなぁ。あの女、人間にこれっぽっちの未練もないみたいだから会わないかもしれないぞ」

「人間はもう駄目なんだ。だって……こんな事ばっかりじゃないかぁ」

 シコクの語尾がしっとりと濡れる。どうやら泣き上戸らしい。本当に面倒な奴め。


「縋るものが無いんだよ。何もかもが曖昧になって、これって言う絶対者がいなくなったから怖くて仕方ないんだろう。まぁ、俺は元から何も持ってないからいいけどな」

 これだけ酔っていたら明日には会話の内容なんて曖昧だろうから、俺は本心で話す。

 別に気を許したわけじゃないけれど、こんな夜があってもいい。

 もしかすると俺も酔っているのかもしれない。


 そして目が覚めるとセツが居なかった。

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