錫――スズ――壱

 空は気持ちが良い。何の疑いもなく俺を受け入れてくれるし、探ろうともしないから。

ただ手ぶらで飛んでいられる空だけが俺を慰めてくれる。

「おーい。居るか?」

 俺の家の前に立つ誰かが空っぽの室内に向かって声をかける。

俺は慌てて森に降りて白い翼を隠し、人間の姿に変化する。

そして綿の実の様なくせ毛に灰色の瞳の、柔和な男になる。

何食わぬ顔で浜辺の小屋へ駆けて行き、声をかけた。

「すいませんね、おやっさん。何か用でしたか?」

「居たか! いやー助かった。沖に出るんだが船員が足りなくてなぁ。来てくれるか?」

「構いませんよ」

 これが俺の、人の側の顔。

 もう一つの顔は災厄の色なしカラス。白の側をうろつく時の顔だ。

 災厄の色なしカラスの方は、人間にも白にもちょっと知れた名だ。どちらからも疎まれているという意味だけれど。

父さんは白の化けカラス。母さんは人間だ。

いつでも人間と白いカラスの姿を使い分けられる俺は都合がいいように行き来して生きてきた。今の世の中で境界を跨いで関係なく生きているのは俺くらいだろう。

だからこそ、これも俺にしか分からない事だろうけれど、白と人間は似ている。

 柵もないのに傷つける事を恐れて越えられない白と、傷つけられる事をおそれて小さく閉じ籠る人間。白もきっと拒絶される事が怖いのだ。だからこそ牙を剥く。


「船が出るぞ!」

 男たちの掛け声が重なる。

 船で沖に出るのは好きだ。目を閉じれば浮遊感と風が、まるで空を飛んでいる感覚にさせてくれるから。

翼のない人間たちはこうして空を感じているのだろう。

しかし困った事に、つい翼を広げたくなってしまう。俺が二つの姿を使い分けている事は白にも人間にも話した事がないから気付かれてはならない。

誰にも言ってはならないとの母さんの遺言だ。

 母さんは、白だとか人だとかは関係なく「心を持つから芯が揺らぐ」と言っていた。「だから優しくならなきゃね」とも。

 俺は優しくなんてなれなかった。

帰って来るなと家族に言われた母さんは、その家族を無理に許そうとして優しくなりたかったのだと思う。

俺は母さんの家族を恨んでも憎んでもいない。疲れる事は嫌いだから、ただ諦めて嘲笑うのだ。

 おやっさんの掛け声で男たちが網を引き揚げる。絡まったまま成す術もなくポロポロと船に転がされる魚たち。

「今日は大漁だな」

「かみさんが喜びますよ」

 人間たちがそんな会話をする、その頭上で海鳥たちは腹が減ったと喚き散らす。

「そういや、お前はいつまで独り身でいる気だ?」

 俺を囲んで大笑いする男衆。

「一人の方が気楽なんですよ。魚が捌ければ飢え死にだけは免れますからね」

 本当は捌いて食べたりはしない。カラスの姿になって丸飲みだ。

 海の男たちは気安くていい。

沖に出て大笑い。酒を飲んで大笑い。

敵でさえなければ彼らの懐は深い。これが恐怖に駆られれば理不尽に他人を攻撃するのだから、人とは本当に情けない生き物だ。

 カラスの時なら見下ろす丘を同じ目線に見る。

元の陸地の見えない青色の真ん中。生きる場所から追い出された魚たちを無感情に眺める。

「女の歌が聞こえる……」

 誰かがそう呟く。

皆で馬鹿にして笑っていると、俺の耳にも女の歌声が届いた。

 他の男たちにも聞こえたようで、近くに一艘の小舟すらない青色のどこかに女の姿を探し始めた。けれどどこにも見当たらない。

 言葉は無く、旋律をなぞる歌。

抑揚のある掠れた声で、酒焼けしたようにも聞こえる声は妙に耳に纏わりつく。

どうしてか頭から追い出せない。

どこかで聞いた覚えのある歌だ。けれど思い出そうとする思考を女の歌が邪魔をする。

波の音さえ絡めとって歌は続く。

男衆は声すらなく聞き入っているようだ。

バシャン! と大きな水音が響いた。

何事かと思いキョロキョロとすると、海に飛び込む男の姿を見た。

また大きな水音が響く。

飛び込んだ男二人は溺れているのではないかと思う泳ぎで、全く先に進んでいない。海の男とは思えない情けない姿だ。

「おやっさん」

 どうしましょうか? と聞きたかったのだが、船の上の男たち全員の様子がおかしい。

目つきは虚ろで口は半開き。おやっさんの肩を揺するとガクン、ガクンとまるで人形のように頭が振れる。これは不味い状況だ。男衆は次々に海に飛び込む。

 女の歌に誘われ、溺れる男の末路。

 俺はその場で人の姿を捨て白いカラスになった。どうせ誰にも見えていない。

空から探すと犯人はすぐに見つかった。波間に揺らめく人魚だ。

「おい、そこの人魚! 面倒くさい事すんじゃねぇよ。殺したいなら他でやってくれ」

「え……? 大変! 人がいたの? もっと早く言ってよ!」

 真珠のような肌と水の滴る長い髪を持つ赤い瞳の人魚は本心から驚いているようだ。

いつも誰かを試すような真似をしている俺だから雰囲気で分かる。

嘘は吐いていない。

「殺す気じゃないなら歌うなよ」

「好きなんだから仕方ないじゃない」

 人魚は溺れる男たちの真ん中まで行くと、踊り始めた。

「今度は何する気だよ」

「波に乗せて岸まで運ぶのに決まってるでしょ!」

 人魚が波と遊ぶ度、水面を滑りながら岸に連れられる男たち。

人のいなくなった船に海鳥が集る。

「あっ!」

 人魚の慌てた声で水面を見ると、おやっさんが沈むところだった。

何を考えてとか理由を言おうとすれば言い訳にしかならないので何も言わないが、俺はすっと人間の姿になり海に飛び込んだ。

水面まで連れて上がれば後は波に揺られるだけでいい。

変わるところをしっかり人魚に見られてしまったので、岸に着いた後の事を考えると憂鬱だ。

だいたい混ざり者と言って馬鹿にするか、あれこれ探ろうとするか、哀れむかだ。

面倒くさい。飛び去ってしまえばいいのだが、逃げたと思われるのは納得がいかないではないか。

岸に着くまで人魚は何も聞かなかった。必死に踊っているからだろう。

「あなたは白なの? 人間なの?」

 岸におやっさんたちを寝かせると人魚は無遠慮に聞いてきた。

 俺はカラスの姿になる。

「白ではないが、人間とは言えないよなぁ」

 嫌らしく言って頭に乗ってやると、寝転がるおやっさんたちの向こうに二人組の人間がいた。踏んだり蹴ったりだ。

 きっとこの人間たちにも見られた。

「この人たちに何をした?」

 背の高い黒髪の男が剣に手をかける。

後ろには灰色の髪の少年がいる。さて、何と言って切り抜けたものかと考えていると、足の下で人魚が泣き出した。

 少年が海にせり出した岩の先まで走って来て「どうしたの?」と首をかしげる。

「歌いたかっただけなの。人がいないと思っていたの……」

「けどお前、あそこは人間側の海だろう」

 俺が言うと「人が好きなの」と、人魚はまたホロホロと泣く。

話をまとめると、人魚の歌は人間を馬鹿にしてしまうらしい。だから混ざり者の俺は無事だったのかと納得した。

「このお姉さん、嘘ついてないよ」

 少年は黒髪の男に言い切った。男の方も「そうか」と言って剣にかけた手を外す。

「みんな生きていてよかったね」

 少年は波打ち際に転がる人間たちを見て、生きていると言う。

 ――何なんだ?

 不審に思いつつ聞かずに去ろうと考えていると、人魚と二人の人間は思い出したように俺に視線を向ける。

見なかった事にはしてくれないらしい。

「さっきは疑って悪かった。ところでお前は白なのか?」

 黒髪の男が真っ直ぐに聞く。

「だから白じゃないって言ってるだろう」

 溜め息が漏れる。

白ではない。どちらも中途半端だから俺はどちらでもないんだ。

それなのに聞かれ続けて嫌になる。俺は都合よく生きていければいいのだから、怒るだけ損だ。だから今回も適当にからかって終わりだ。

見られた動揺で気が付かなかったが、人魚と人間が鉢合わせなんて面白いじゃないか。

どうせ少しの切っ掛けさえ与えれば争いを始めるんだ。毛色の違うものは受け入れないんだ。からかってやろうと思った。

「寂しいんだね。水みたいな色してる」

 何かを言う前に少年が俺に言う。本当によく分からない、不快な奴だ。

「俺が寂しいだって? 面白いこと言うねぇ。今この世に俺ほど広々と生きている奴はいないって言うのにさぁ。この翼のおかげで楽しく生きているよ」

「そう。でも寂しい色をしてるよ。人魚さんも」

「読心術だとでも思ってくれたらいい」

 黒髪の男がそう説明する。

 それにしても嫌な少年だ。笑顔で人の心を抉るのが趣味とはえげつない。

「しかし、その紫の瞳は見覚えがあるぞ」

 この前の騒動で死んだ龍が同じ瞳をしていた。

「そんな事より、白でないのならお前は何なんだ?」

 また黒髪の男だ。

「しつこい奴だなぁ。さらっと流せよ」

「すまない。こういう性分なんだ。俺の名はシコク。教えてくれないか?」

二人そろって混ざり気のない毒のような奴らだ。

逃げたい。けれど気になる事が出来たから吐かせるまでは付き合ってやろう。

「母親が人間なんだ。混ざり者なんだよ、俺……」

 同情を誘う声色を作り、顔を背けて見せる。

「なんだ。災厄の色なしカラスって、半分は人間だったのね」

 足の下の人魚が手を伸ばしてきたので慌てて飛び上がる。

「濡れた手で翼に触るなよ。そう、だから……人間たちにはそう呼ばれて蔑まれているんだ。酷いだろう? 白の方では厄介者扱いされるし。お前の言う寂しいってのは当たってるのかもな。父さんは帰って来ないし、人間の寿命は短いからな……母さんは死んだよ」

 適当に話を大袈裟にして話す。

人間二人も人魚も申し訳なさそうな顔をしている。

狙い通りだ。さて次にいくかと思案していると少年の視線に気が付いた。

真っ直ぐに、わずかに微笑みさえ浮かべて俺を見ている。嫌な奴だ。

「だから俺さぁ、家族を探してるんだよ。なぁお前、家族はどこだ? こいつ死んだ母さんによく似てるんだよ。もしかしたら俺の親戚かも知れないんだ。なぁ、教えてくれよ!」

 嘘は吐かないように気を付けているけれど、今のは大嘘だ。しかし嘘の甲斐あって少年が引っ掛かった。

「知りたいんだね。けど僕の母は生け贄だったらしいから、何も分からないんだ」

 ごめんね、と少年は初めてその顔に影を落とす。

「そっか……お前、今いくつだ?」

「十三だよ」

 それだけ分かれば十分だ。

 生贄の母。紫の瞳に怪しげな読心術。

まず間違いなく、こいつは龍の子だ。

 ――これは逃がすには惜しい大物だ。

 すると大人しかった人魚が、岩に寄りかかりながらシコクを見上げる。

「私はシラハナ。カラスよりも、ねぇ、こっちに来て一緒に泳ぎましょうよ」

「すまないが、人間にはこの時期の海は冷たくて辛いんだ」

「人間か……なぁ、お前たちどこに向かってるんだ? もう少し一緒に居させてくれよ。初めてなんだ。こんな風に包み隠さず話せる人間は。友達いないんだよ」

 流れを自分のものにするのは得意だ。あと七年で龍になるのだから断らせはしない。

七年間みっちり恩を売ってやる。


 ――これでまた都合よく生きていける。


「また水色だ。大丈夫だよ、シコクさん。このカラスさんは白くないから」

 何を言っているのか全く分からないが、二人はそれで話しが付いたようだ。

「目的地は無い。ただ境界あたりを二人で旅しているだけなんだ。それでも良ければ、しばらく一緒に行こう」

 これは益々いい流れだ。

「人間が二人で境界なんて危ないじゃないか! よし。これでも俺は顔が広いんだ。力になるぞ。そっちの、えっと……名前は……いいや。お前はまだ若いし、俺に任せとけ」

「ありがとう。僕はセツだよ」

「そうか。これからよろしくな、セツ」

 掴みどころのない笑顔でも、龍だと思えば急に可愛く思えるから現金なものだ。

 ――この人間は知っているのか?

 取りあえず状況は整ったのだからキナリにも教えてやるべきだろうな、とぼんやり考える。

自分のせいだとは思っていないが、狐に情報をやって白たちを試したのは俺だ。その後の様子を見れば多少の罪悪感くらい湧いてくる。

「ちょっと白の方の俺の家を片付けて来るから、ここで待っていてくれないか?」

 夜までには戻ると言って、俺は龍の眠る地へと飛ぶ。


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