椋――ムク――弐

「ゲッパクは詳しいんだね。鬼って長生きなの?」

「どうだかな。俺は、たしか百年経ったかな」

「百歳なの?」

「いや。百十歳くらいだと思う」

 そんな話をしながら歩いていると滝が見えた。

こっち側に来てからずっと聞こえていた水音はこの滝だろう。高さも水量も、今まで見た滝とは比べ物にならない。

滝壺の近くには細い木が何本も絡まって出来たような巨木があり、その一か所に林檎の実がなっている。

滝の横の岩壁には水晶なのかは分からないが、何色もの石が煌めいていてこの場所を美しく彩っている。ただ一つ気になるのが臭いだ。鼻の奥を突くような変な臭いがしている。

「この臭いなに?」

「これか? そこの岩で囲ってあるとこ。あの水ちょっと触ってみろよ」

 滝壺から流れ出した川に寄り添う場所に深そうな水溜りがある。促されてその水を触ると、冷たいと思っていた水は温かい。

「温泉なの?」

「おう。俺が岩できれいに囲ったんだ」

 ゲッパクは得意気に胸を張る。

他にもゲッパクは色々と手造りをしているらしく、一つ一つ見せてくれた。

先ず巨木だと思っていたものは実はその中が空洞になっていて、それがゲッパクの家だったのだ。中に入るとまったく仕切りはなく、一つの空間にたくさんの物が散乱している。

大きい物は機織り機。木と藁で作った寝床。真ん中に置かれた丸い机だ。壁には野菜や木の実が干してあったり、白い織物が隅に置かれていたりする。

 これなら暮らすのに何も不自由はなさそうだ。

「すごいだろう。俺は何でも自分で作るんだ。麻で織物。木を切り倒して家や家具もだ。染物だってするぞ。掃除は苦手だけどな」

 すぐに戻ると言ってゲッパクは外に出た。

 姿さえ鬼でなければ、これほどいい夫になりそうな男はいないだろう。

鬼というのは人に似た種族なのかもしれない。もしかすると人の祖先だったとか。会話をすればするほど分からなくなる。

何の下心も無しに生け贄の人間を助けるなんてあり得る事じゃない。

けれど人間に追われたアタシはこうして鬼に助けられた。どうであれ、まだ会ったばかりなのだから警戒を解くべきでないことは明らかだ。けれど頭も体も疲れ切っていて、気を張れば張るほど真綿で首を締められるみたいに、泥に沈むみたいに何も考えられなくなる。

 床に座り込んでいるとゲッパクが戻って来た。

 本心だけが壊れた戸口のような口から外へ出る。

「さっきさ、カラスが言ったこと。火薬の臭いがするって。アタシが殺すのは白じゃなくて人間なんだよ。別に恨みがあるとか親の仇とかじゃないけど、それでも殺すんだよ。人間同士でさ。内側に逃げたい奴が多すぎて狭いんだ。それだけの理由なんだよ。汚いだろ? それでも別の場所でなら生きていけると思ってた。だから知らない人が怪我してたアタシを助けてくれた時は嬉しかったんだよ」

 泣いてしまいそうになって言葉を区切る。ゲッパクは黙って待ってくれているようだ。

「その助けてくれた村の人たちにさ、自分たちの為に生け贄になってくれって言われたんだよ。分かる? 人間に対する信頼が丸ごと、一気に消えた。汚いなぁ……人間って本当に汚くて真っ黒だよなぁ。自分が助かる事ばっかり考えてさ。アタシの事は虫けらみたいに扱うんだよ」

 涙がこぼれそうで目を伏せるアタシの前で、ゲッパクは机にドカッと腰を下ろし唸っている。

「そんな人間ばっかりじゃねぇだろうよ。白にだっていい奴もいれば悪い奴もいる。同じだろう」

「同じじゃない!」

 つい怒鳴り声を上げてしまった。

「同じじゃないよ……。あんた達は面倒だからって村ごと焼き払ったりしないでしょう? 男女平等だって言って、女でも戦場に行かされるんだ。狂ってるよ!」

 ただ同意の言葉がほしかった。それで救われたかった。

「弱いんだなぁ、人間は」

 そう相槌を打ったゲッパクの言葉に胸がざわつく。

「アタシは弱くない!」

「分かってるって。落ち着けよ。ただ俺は白とか人間とか関係なく……」

「見てないからそんな事が言えるんだ!」

 言葉を聞くのが怖くてゲッパクの声に被せて怒鳴った。

怖いと思ったら止められなくて、何の非もないゲッパクを責める言葉が溢れてくる。

人の口は汚い。アタシの口も汚かったんだ。

「ムク。怯えは凶器なんだ」

 ゲッパクが話し終わる前にアタシは家を飛び出した。外に出ると、来た時には無かった大鍋が火にかけられている。

 ――やっぱり、こういう事だったんだ!

 少しでも信じたアタシが間違っていた。けれど、何となく分かっていたんだから絶望するような事じゃない。ここからも逃げる事になっただけ。

「ムク!」

 ゲッパクの声が聞こえて、アタシは家の裏手に隠れた。そこには大きな斧が落ちていて、思わず声をあげそうになるのを堪える。

戦場の恐怖とは全く別物の、自分が餌であるという恐怖を感じる。

「よう」

 白いカラスが急に目の前に現れて、アタシは驚きのあまり叫ぶ声もなくカラスを地面に叩きつけた。

「静かにしていて」

「なんだよ。さっそく喧嘩でもしたのか? これだから人間は」

 馬鹿にした態度で羽をヒラヒラとさせる。

「大鍋があった。それに……」

 ちらりと斧を見てカラスに目で訴えると「ははぁ、そうか」と言って羽で顔を覆った。

「もう気づいたのか。鬼め、今回は食べ損ねたな」

「やっぱり」

 走り出そうとすると、大袈裟に驚いてカラスがアタシの顔面に張り付いた。

「おっと、待てよ。逃げるにしても人間が足で鬼に敵うはずないだろう。俺が手伝ってやるから、お前はそこの獣道をのぼって滝の上で待ってなよ」

「ありがとう。けど、あんたゲッパクの味方じゃないの?」

「さっき酷い言われ方したから仕返しさ。ご飯に逃げられて悔しがればいいんだ」

「やっぱり性格わるいね」

「俺さ、本当は白じゃないんだ。体が白いだけでさ。お前たちが白い服を着たって白にはなれないだろう? だから壮絶ないじめを受けて歪んじまったんだよ」

「そうだったのか……ごめん」

 高く舞い上がるカラスが急に可哀想になった。

自分の方がまだマシだと、そう思ったのかもしれない。

 カラスがゲッパクに「人間が川沿いに走って行くのを見た」と言っているのを聞いてからアタシは静かに獣道を駆け上がる。

その獣道すら色とりどりの花が咲き乱れ、葉を踏むたびに青臭い匂いがし、土は土の匂いだし、花は濃厚な香りをさせている。

血や硝煙の匂いはしない。

ゲッパクだって生きているだけ。アタシが猪肉を食べるようなものだ。汚れきった人間のアタシはこの世界にさえ追い出されるというだけ。

 水しぶきを浴びながら滝の上に行くと、そこにはいつも食べているのとは違う、白い猪がいた。

逃げようと思った時、猪が驚いた顔をした気がした。表情なんて分かりづらいけれど、そんな気がして足が止まってしまったのだ。

「人間が何故ここに居る?」

 白というのは、みんな言葉が通じるみたいだ。いつも食べている猪と会話をするのは不思議な気分だ。

「生け贄だよ。来てすぐゲッパクに会ったんだ」

「生け贄か……。今でなければ食ってやったと言うのに」

 どういう訳か今はアタシを食べる気はないらしい。それなら、とアタシは猪に聞く。

「ゲッパクはアタシを食べる?」

「ゲッパク? あの鬼か。あぁ、心臓なら食うだろうな」

 少しだけ落ち込んでしまうという事は、この期に及んでもアタシはゲッパクを信じたいらしい。けれど、もう信じない。汚い人間でしかないアタシは人間の半円に帰るんだ。

「アタシは帰る」

「帰れ。恩知らずめ」

 恩知らずと言われた意味が分からず首をかしげると、ズイッと鼻で押し倒された。

「龍を知っているか?」

「知ってるよ。死んだんだろう? その龍が怒ってるからって、アタシは生け贄にされたんだから」

 猪は右の前足で地面をダン! と叩いた。

「これだから人間は。いいか! 龍は命がけで人間を守ったんだぞ! お前らにとっては命の恩人だ! それを、怒っているから生け贄だと? ふざけるな!」

 口をグワッと開けて猪は怒っている。

龍が人間を守った? 龍は人間を襲う、人間の敵ではなかったのか?

この怒り方からして嘘を吐いてはいない。アタシの方が事実を知らないんだろう。

「何も知らないんだ。教えてくれないか?」

 猪はしばらく鼻息荒く怒っていたが、ため息を吐き話し出す。

「人間たちが白側に宣戦布告したと言う話が出回った。俺たちは人間を襲うつもりだったが、龍がそれを許さなかった。連れの狼と一緒に白の大群を黙らせたんだ。あの龍がいなけりゃ今頃は百年前の再現だったろうな」

 もし龍を筆頭に大群で攻めて来られたら、人間同士で争ってばかりいる今の状態では防げるはずもない。そう考えると背筋が寒くなった。

 会った事のない龍に感謝すると同時に、これは都合がいいとも思った。

龍が守ってくれたと言う話を持って帰れば、今度こそあの村の人たちは歓迎してくれるかもしれない。腹の立つ奴らで、二度とあんな奴らの世話になりたくはないと思う反面、どこでどう生きたらいいかもわからないのが現状だ。

生きてさえいれば何とかなると、誰かに言われた言葉を思い出す。誰だったのかは思い出せない。

「おい、その子を食うなよ」

 カラスが帰って来た。

「お前が連れてきやがったのか。ふざけた真似を」

「ハクジなら助けたろうな」

「うるさいぞ! どうせお前が蛇を焚き付けたんだろう! でなければ、あんな事をするはずがない!」

 カラスは空をくるくると回り、猪はまた叫び散らしている。アタシには猪が理不尽なことで怒鳴っているように思えた。

「ちょっと! 根拠もないのに怒鳴るのは間違ってるよ!」

「ほぅ。か弱き人間風情が、ずいぶん威勢がいいじゃないか。どうやら自分が餌であることを知らないらしい」

「知ってるよ。もともと殺される気で来たんだから今さら怖くない!」

「なるほど。ハクジの言う通りだな」

「ハクジって?」

「身の程を知らん人間などに教えるものか」

 どうしてだろう。人間のように表情があるわけではない。ただ最後の言葉が少し小さな声だっただけなのに、とても悲しんでいるのが分かった。

「さぁ、もう行こう。ゲッパクはずっと下流の辺りを探してるから今のうちだ」

 カラスに急かされてアタシは逃げ出した。

 振り返るけれど、猪はじっとアタシを睨みつけるだけで追って来ない。

「お前はどこに帰るつもりなんだ? 帰れないって言ってただろう」

 猪が問う。

「聞いてたのか。龍が助けてくれたって話をすれば迎え入れてくれるよ」

「どうだかな」

 馬鹿にされて、言い返してやろうと思うのに言葉が見つからない。

言葉が見つからないことほど切ないことは無い。

言いたい事だけが肺に溜まっていって、消化もされないから苦しいまま救われない。


 ――アタシは何処まで流れていくのだろう。


 さっき逃げてきた道を走って、また逃げる。

木々は向こう側では見たことが無いくらい高くて太い。来た時には気付かなかった、横に大きく広がる木に満開の白い花。群がる原色の蝶たち。こんな景色、この濃厚な香りも、高い空も美しいと思った。

けれど見納めだ。

「ありがとう。カラス」

 そう言ってアタシは森の端っこ、何の柵もない境界を越えた。

「俺はここまでだ」

 カラスはすぐに飛び立っていく。


 アタシは村に向かった。

もう村が見えているから場所は分かる。

あの時は怒っていたし、アタシは空に浮かぶ巨大な龍を見たわけではないので分からなかったけれど、こんなに境界が近ければ恐ろしかっただろうと思う。

アタシたちは餌なんだから。

 村に入ってすぐ医者の先生がいた。

「あなたは……無事だったんですね」

 先生はものすごくバツが悪そうな顔をしてアタシに謝罪する。

「傷は痛みますか?」

「傷? あぁ忘れていたよ。それより聞いてほしい事があるんだ。村長に会いたい」

「ムクか?」

 そこに猟銃と、片手に頭の取れた鳥を持っているカイさんが走り寄って来る。

「何しに帰って来たんだ! 俺を殺しに来たのか!」

「違う! 話があって来たんだ!」

「いや、俺を恨んでいるんだろう!」

 先生が落ち着けと言っても全く聞く耳を待たない。その内に人がバラバラと集まって来て、ヒソヒソと話をする。

 ゲッパクが言っていた「怯えは凶器なんだ」という言葉が頭をよぎる。

 怯えが燃え広がる前に言ってしまった方がいい。

「白たちに聞いて来たんだ! 皆が見た龍は暴れる白たちから人間を守るために、命がけで止めてくれていたんだ。それで龍は死んだ。龍が人間を守って死んだんだよ!」

 一気にざわつく空気の中、女の人が聞く。

「龍は本当に死んだのね?」

「そうだよ」

 そこで歓声が上がった。

「もう龍に怯えなくていいんだ!」

「これで内円に逃げなくて良くなったね」

「よかった、よかった」

 聞こえる声はそんな物ばかり。

「やっぱり人間なんてこんなもんか」

 頭の上から声が聞こえて、カラスがアタシの肩に止まった。

 なんだ、結局付いて来たのかと思っているとカイの悲鳴が聞こえて、耳慣れた銃声が轟いた。

理解ができないうちにアタシは背中から倒れて、腹に痛みを自覚する。

触れてみると手の平がべっとりとした赤色に染まった。

 辺りには悲鳴も怒鳴り声もなく、ただ「どうするべきか?」と、話し声だけが淡々と聞こえている。

「ムク!」

 この場に似つかわしくない、焦ったような声に呼ばれる。

ふわっとアタシを抱きかかえたのはゲッパクだった。

「ここで……なに、してるの?」

 途切れ途切れに聞くと、パタパタと雫が落ちてきた。カラスが何処かへ飛んでいく。

「なぜ撃った!」

 白鬼が来たと悲鳴を上げる人間たちの中で、カイが開き直った態度で答える。

「災厄の色なしカラスを従えてたじゃねぇか。その女は俺たちに復讐しに来たんだ!」

「人間は変わんねぇのか……」

 そう呟くと弓や剣や銃を向ける人間たちに一言「動くな!」とゲッパクは怒鳴る。

 ゲッパクの迫力にゴトゴトと武器を落とす音が聞こえた。

「次また撃ったらお前らを残らず食ってやるからな!」

 痛みで朦朧としながらも、ゲッパクだけがアタシの事を想ってくれていると気が付いた。

けれど流れ出る血に思考が奪われる中で、このままでは白と人間が争う事になるかもしれないとも気付く。全て今さらだ。

「あの……僕は医者です。見せてもらえませんか?」

 先生の声が震えている。

「ムク。この傷なら医者に診てもらえば命は助かるだろう。けど、もし人間が嫌なら……お前を俺と同じ、鬼にすることも出来るんだ。お前が選んでくれ」

 ――人間はこりごりだ。

 鬼になれると聞いてすぐにそう思った。どういう原理なのか今は考えも及ばないけれど、鬼にしてくれるのなら人間なんてキッパリ捨ててやる。そうしたら、もう少し生きる事も苦ではないかもしれない。

「にんげんは……いや」

 消えかけの声はゲッパクに届いたか分からない。

ゲッパクは先生に「来るな!」と怒鳴っている。怒鳴られ続けている人間たちの声はすっかり聞こえなくなった。

そうすると静かなもので、今は耳元で風の音がするだけだ。

「……くれ。い……くない」

 ゲッパクの声が聞き取れない。

 重い目を開けてみると、ゲッパクはアタシの左胸に手を伸ばして優しく触れた。

触れられたところが熱を持ったようになる。

一瞬ヒュッと息が詰まる感じがしたけれど、その後はただ痛みもなく水に漂うような浮遊感を感じるだけだ。

それから、ふっと糸が切れたような開放感と恍惚感が訪れる。

 ゆっくりと胸から離されたゲッパクの手には、赤く脈打つ肉塊があった。ゲッパクの口が動いて何か言ったけれど、何も聞こえない。今アタシには少しの音も無い。

それは信じがたいくらいに気持ちが良くて、鬼でも人間でもなく今のままでいいとさえ思った。

 ゲッパクは手の中の肉塊を頬張る。

髪も肌も真っ白なゲッパクの口元だけが赤く染まっていく。

それでもアタシはゲッパクだけは信じられた。きっとアタシの為にゲッパクはそれを食べているのだと分かる。何の不安もない。

その証拠に、今アタシが考えている事と言えば『ゲッパクの瞳は赤かったのか』という事ぐらい。

それから抗いがたい眠気に襲われて目を閉じると、抱きしめられたのを感じる。


 落ち続ける水音が聞こえる。

目を閉じているのに何色もの光が目に飛び込んでくる。手を動かすと草の感触がする。それから鼻をつく臭い。

 アタシは目を開けた。

「やっと起きたか」

 アタシを覗き込む赤い瞳が不安げに揺れている。

「ゲッパク。おはよう」

 目の前には水晶が煌めく滝。

起き上がってから撃たれたお腹と穴が開いているはずの左胸を触るけれど、傷が見当たらない。

「鬼の体に作り替わるから、ついでに治ったんだよ」

「アタシ鬼になったの?」

「おう」

 言われてみれば肌は白く、皮膚は硬く冷たい。伸ばした覚えもないのに、足元までありそうな白い髪がはらりと肩から落ちた。

「アタシの心臓は空っぽなの?」

「新しい心臓がある」

「ゲッパクが食べたから?」

「おう」

 隣に座ったままゲッパクはそれ以上なにも言わない。

「アタシたち兄弟みたいだね」

「おう」

「どうして、あの村が分かったの?」

「カラスを脅して聞いたんだ」

 思わず笑ったアタシに、ゆったりとした口調でゲッパクが話す。

「鬼ってのは元は人間なんだ。みんな鬼に心臓を食われて鬼になる。村には、今後ひとりも境界を越える事は許さないと言ってきたから大丈夫だろう。それから、俺は誰も殺しちゃいねぇぞ」

 お礼を言えばいいのか謝罪をするべきか分からなくて、ゲッパクの肩に凭れかかる。

「ゲッパクも人間だったの?」

「俺は十歳で生け贄にされた。あれから百年くらいは鬼をやってるよ」

 機織りも、温泉や寝床だって納得できた。

「ごめんね。信じられなくて勝手に逃げて。それでも助けてくれて、ありがとう」

 ゲッパクの手が頭をすっぽり包み込む。

涙が勝手に溢れる。人間だった時にはこんな事はなかったのに。

「怖くて当たり前だ。俺が人間を忘れていたのが悪いんだ。けど……お前は人間のままで居させてやりたかった」

「アタシは今の方がいいよ」

 体の奥から水が湧き続けているみたいに、冷たくて清らかだ。

「何か変わったか?」

「体が軽くなった。すごく楽だよ。アタシは人間から解放されたんだ」

「けど、今度は白の半円に閉じ込められたぞ」

 真っ直ぐアタシを見据えるゲッパクの目が何かを訴える。

 もしかしたら、それでもゲッパクは人間の可能性を信じていたのだろうか?

百年経っても人間を捨てきれないのかもしれない。

アタシはどうだろうか?

人間の残酷さを捨てて優しい鬼になれるだろうか?

どの道アタシはもう逃げない。

 アタシの目覚めを知るかのように、近くで狼が遠吠えをする。


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