生成り――キナリ――壱


 翼のない狼は地を駆けずり回る。よく晴れた空は高く、高く広がり、地面から離れられない俺は立ち止まって溜め息を吐いた。狼の俺は最期の瞬間まで空とは縁がないだろう。

 ゴツゴツした岩肌の急斜面を飛ぶように駆け上がる。登った先の丘の上がハクジの住処だ。通い続けてもう十年は過ぎた。

「キナリ。またそんな所から登って来よって、向こうにちゃんとした道があるだろうが」

「それじゃあ鍛錬になんねぇだろう。俺は気高き一匹狼なんだぜ」

「群れから追い出されただけじゃないか」

 そいつはタテガミ付きの巨大なトカゲのような姿で、真っ白な鱗は時折キラリと空の色を反射する。透き通った紫の瞳が俺を見る。ハクジは龍だ。空さえ切り裂きそうな翼を持っているはずだけれど十年は広げられていない。少なくとも俺は一度も見たことがない。

「なぁ師匠、狩りに行こうぜ」

「お前の師匠になった覚えはないわ」

 このやり取りも十年以上続いている。弟子にしてくれと頼んでいるのに、狼に龍は継げないと断られ続けている。

「頼むよ。龍はもう師匠だけなんだろ? 次に繋げなきゃなんねぇだろ」

「私で終わらせる」

「バカなこと言うなって。龍がいなけりゃ白は纏まらねぇよ」

「分かっておるわ」

 俺がしつこく言い寄る時の返答は一言だけ。岩のように、もしくは山のように動くことが無くなった龍だとしても、その一言には反論できない威厳がある。

 それでも時々は一緒に狩りに出かけたりもした。

 初めて会ったのは俺が女の取り合いに負けて群れを追われた時。多少の怪我はあったが、情けない姿を知り合いに晒すのが嫌でひたすら走った。大きな川を見かけて休憩がてら傷を舐めていると叫び声が聞こえた。聞いた事のない甲高い声だったので人間かもしれない。人間の事はよく知らないし分からないが、興味があるので行ってみる。すると人間じゃない何かがいる。何がいるのか分からないほど、そいつは大きい。真っ白な背は綺麗な鱗に覆われていて、太く長い尾は雄々しいを通り越して神々しい。すぐに何者かは分かった。

「なぁ、龍のじいさん。今ここに人間がいなかったか?」

 俺は、もしかしたら食ってしまったんじゃないかと思った。

「あの女は自分たちの半円に帰った」

「え? 帰したのか?」

「信じる心のない生け贄になにが出来る」

 龍が何を言いたいのかは分からなかったけれど、どうでもいい。立ち上がった姿は雲間から漏れ射す陽を受けていて、見惚れた。

「龍はもう居ないと思ってた……」

「私が最後だろう」

 濡れたように揺れる紫の瞳が人間の半円に向けられた。龍の寿命は長く、おそらく百年前の切っ掛けより昔から生きているだろう。何を思って逃がしたのか、向こう側を見るのか、たかだか八年生きただけの俺に分かるはずもない。

「えらく傷だらけじゃないか」

「俺は気高き一匹狼なんだ。このぐらいは当たり前だぜ」

「なるほど、喧嘩に負けて群れを追われたか。理由はなんだ?」

「……女を助けてやりたかったんだ。嫌がってたから」

「女の取り合いか」

「嫌味な龍だな」

 フッと馬鹿にするみたいに笑う様子に、不思議と怒りは湧かなかった。きっと器が違い過ぎるんだ。だから怒りなんて消えてしまうんだ。力とか心の広さとか、圧倒的な差をありありと見せつけられた。敗北以前の問題で、俺では相手にさえならない。

「なぁ、俺を弟子にしてくれよ」

「馬鹿を言うな。狼に龍の弟子が務まるもんか」

「やってみなけりゃ分からないだろう」

「ふん。お前、人間は好きか?」

「知らねぇよ。見た事ないんだから」

「ほぅ。名前は?」

「キナリだ! なんだ、弟子にしてくれるのか?」

「するわけないだろうが」

 あの日から俺はハクジを師匠と呼び、嵐の日も山火事が起きても側にいる。弟子だと認められてさえいないけれど、そばに置いてくれているのだから脈はあると信じている。俺は龍にはなれないのだから信じることしか出来ない。

「十年かぁ。長かったよな、師匠」

「十三年だ」

「そんなに経ったのか! 俺も年取るよなぁ」

「しょんべん臭い餓鬼が何を言う。私はもう三百を一つ過ぎたぞ。じきに終わる」

「師匠こそなに言ってんだよ。最近じゃあ龍の寿命は四百年なんだぜ」

 ハクジは馬鹿にして笑い「お前は適当なことしか言わんな」と言った。俺にはそれが昔と少し違って楽しそうに、嬉しそうに見える。……思い上がりかもしれないけれど。

 こんな事があった。

 普段は「お前の師匠になった覚えはない」なんて言っているけれど、気まぐれに稽古をつけてくれたり、教えを説いてくれることがある。その日は珍しく、いつもいる丘から海まで走ると言われた。

「私は飛ばない。お前に理があるのだから私より早く着けよ」

「飛ばなくたって早いじゃねぇか。それにデカさが違う」

「グチグチ言うな。いつも誇りだ何だと喚いている奴が、それぐらい出来なくてどうする。龍の弟子になりたいという割に小さい奴だな」

「出来ないとは言ってねぇだろう」

 煽られていると気が付いて、俺は今にも走り出しそうなほど嬉しかった。今日のハクジは夏に雪が降るかと思うほど機嫌がいいらしい。

「行け!」

 俺は狼だ。足には自信があるんだ。体の大きなハクジには通れない木々の間を颯爽と走り抜ける。ハクジは草原をゆるく走っているらしく、その一歩ごとに地面が揺れるのを感じる。感情が破裂しそうなほど熱く、風さえ俺を避ける。相手は龍だ。俺の全力でやっと足下に及ぶかどうかという相手。あまりの速さに目を閉じて走ると潮の匂いがした。俺は海に突っ込む勢いでさらに足を速める。足元の感覚が土から砂に変わった所で止まり目を開けると、海の中からハクジが俺を見ている。

「遅かったな」

 走り出す前から分かってはいたが、スッと力が抜けた。

「くそっ! これが限界だってのに」

 荒い息を整えていると、ハクジがいつもより低くゆっくりとした調子で言う。

「狼の限界を自分にはめるな。常識は時を追うごとに変わっていく。熱くなっている瞬間にこそ冷めた目で状況を判断できるようになれ。そうして狼の限界を超え、お前はお前になるんだ」

 すっと背筋を伸ばし、声は出さずに頷いた。何か一言でも言えばハクジの話が終わってしまう気がした。こんな事は滅多にない。

「強い心を持っている奴だけが優しさを与えられるんだ。人間たちに神と呼ばれていた私たち龍に弱さは許されなかった。しかし私は自分の弱さに飲まれた。故に、二度と空は飛ばんと決めたんだ……。これは戒めだ。私たち龍の咆哮は星落としと言われていてな、空から光が降るんだ。実際は綺麗なだけで何の力もない光だが、それでも人間たちはその光が神聖なものだと信じていた。統べる者はその妄想に応え神聖で、世界に対して平等でいなければならない。そのためには頑丈な精神が必要不可欠だったのだ」

 ハクジは龍の限界を超える事が出来なかったのではないだろうか。そんな気がした。今までハクジが飛ばない理由を聞いたことが無かったが、かなりの歳なので昔の怪我とかで飛べないものだと思っていた。

「どうした? キナリ」

「いや……その、人間を恨んでるのか?」

「違うな。恨まれているのは私だ」

 今ハクジは俺を見ていない。ずっと遠くの、過去でも見ているような目をしている。

「昔みたいに、一緒に生きたいのか?」

「そう望むから、共にあってはならない。私たち白はまた必ず人間を傷つける」

 話に聞いた人間というのは、ひょろっこくて力も弱く脆い者らしい。天災や自然界そのものとさえ呼ばれる龍からしてみれば、人間は雪のような存在なのかもしれない。

「……」

 何があったのかと聞けなかった。それは分かりきっているようで、聞いたところで俺には何一つ分からない事なのだから。

「星落としも、もうしないのか?」

「祈る者もいないのに吠えたって仕方がない」

「なぁ師匠。星落とし、俺に教えてくれないか?」

「お前の師匠になった覚えはないわ」

 俺はどうしても星落としを覚えて弟子だと認められたくて吠えた。けれど当たり前にその声は狼の遠吠えで、泣きたくなった。

「弟子を卒業したら星落としが出来るようになるんだぜ」

「適当な事を言いよって」

 ハクジが人間の話をしたのはそれっきりだ。

 丘の上に夏のぬるい風が吹いた。ハクジはいつも人間たちの世界に背を向けて座っている。巨木の森の向こうが人間たちの閉じこもった半円。

「おい、キナリ。こっちへ来てみろ」

 ハクジは崖の淵に刺さる水晶の大岩を示した。

「水晶は人間たちの声を私たちに届けてくれるんだ。聞いてみろ」

 こんな別れ別れの世界で人間たちの声なんか聞こえるはずもなく、何かを期待するようなハクジの表情に少し苛立った。人間たちと生きた時間は、百年たっても忘れられないほど楽しかったのだろうか?

「何も聞こえない」

「静かに座ってろ」

 仕方なく目を閉じて水晶の前に座ると、吹き抜ける風に似た透明な歌声が聞こえてきた。

『日の出の彼方にまします白よ。

 白き息吹は今も我らを清めてくださいますか?

 黒き我らの祈りは届きますか?

 お姿見えぬ悲しみに、言葉を交わせぬ今の世に、懺悔、懺悔とうたう歌。

 白き風吹く陽のもとに、祈れや祈れ、届けや届け』

 狼の遠吠えや鳥の鳴き声とは似ても似つかない。ハクジの話し声のように胸にズシンとくる低音でもない、少しの物音にも消されてしまいそうな小さな声だ。

「これが人間の声なのか?」

「そうだ。最近よく聞こえるようになってな。お前に聞かせてやりたかったんだが、いつもフラフラと出歩いて歌が止んだ頃に帰って来る」

 まさかこんな風に歌う人間が今の時代に居るなんて考えてもいなかった。人間はいつまでも半円に閉じこもっていて、俺たち白はいつまでも嫌われ者なんだと思っていた。

「綺麗だけど頼りない声だな」

「人間は小さくて脆く、浅はかだ。だからこそ愛おしくもなる」

 これには更に驚いた。ハクジが他の白たちのように人間を嫌っていないとは気づいていたが、こんな風に目を細めて歌が止んだ水晶を見つめ、愛おしいと口走るなんて。何を考えているか分かりづらい所はあったが、それは単に生きた歳月の差ではないのかもしれない。もし俺も人間を知っていたのなら、話をしたのなら、同じように愛おしく思えるだろうか。

「会いに行ってやるのか?」

「だいたいの場所は分かるが。なぁ、キナリ。お前、龍の子供がどんな姿をしているか知っているか?」

「なんだよ。急に話を飛ばすなよ」

「飛んでいない。黙って答えんか」

「知らねぇな。そもそも龍は師匠しか見た事ねぇよ」

 ハクジは龍には性別がないのだと言った。龍は人間の女の腹に子供が入った卵を託し、産み育ててもらうらしい。その子供は二十年、人間の姿で人間として生きる事になる。

「それって、龍は人間との混ざり者って事か?」

「違う。人間の女に産み、二十年のあいだ育ててもらう。それこそが龍なんだ。だから混ざりようがない。その子供は間違いなく純血の龍だ」

 話しの繋がりが分からないままハクジの話を聞く。

「人間と離されて龍は子を託せないまま死んでいった」

 人間と白が別れたばかりの頃は人間相手に暴れようとする白たちと、それを止めようとする白たちの争いが絶えなかったと言う。その頃、人間も白もかなり数を減らしたらしい。

「私は人間に会いには行かん。しかし私の子らが、もしかすると半分になってしまった世を繋げてくれるかもしれんぞ」

「師匠の子供!?」

「怯えた人間どもに殺されていなければな」

「いくつだ? 龍になるまで何年だ?」

 俺は驚いて早口で聞いた。

「望みがあるのは十三年前と、八年前だ。生け贄の女に卵を託した」

「生け贄の女か……十三年前? それって初めて師匠に会った時の」

 ハクジは笑っただけで何も答えない。

「なぁ、キナリ。種がいつか芽を出すその時は、導いてやってくれよ」

「まかせとけ!」

 一瞬「自分でやればいい」と言いそうになったが止めた。最期を感じずにはいられない言葉に、大役を任された事への喜びはかき消された。


 数日後、久しぶりの曇りでいくらか過ごしやすかったので一人で狩りに出かけた。ハクジを誘ってもよかったのだが、あれから顔を出していないので誘いづらい。

 ハクジは自分の話をあまりしない。何年かに一度ああして小出しにするのだ。その度に俺は情けなく動揺させられたり、胸の痛む思いをさせられる。ハクジに遠い目をさせる過去はもうその目の内側にしかなく、俺に出来ることは何もない。

 俺は過去を捨ててきたのだから問題はないが、きっと捨てきれない想いがあるのだろう。

 そんな事をグズグズと考えていると、近くの茂みからガサゴソと音がする。俺は昼飯の予感に身を低くして、いつでも飛びかかれる態勢で獲物が出て来るのを待つ。

「よぉ、キナリ」

 話しかけられたが飛び出した足は止められず、寸での所で食い付くのだけは我慢した。そいつは白くてゴワゴワの毛並みの狐だった。こんな時はいっそ話なんか出来なければ、何も知らないまま昼飯にありつけたのにと恨みがましく思う。

「昼飯がしゃべるなよ」

「酷いじゃないか。友達だろう? あぁ、そんな事よりキナリ、あんたハクジの爺さんから人間の言葉を習っているそうじゃないか」

「おう。俺みたいな気品のある狼には教養も大事だからな」

「酷な事をするねぇ」

 途端、狐の目がすっと細められる。

 胡散臭い表情だ。この表情の時は気をつけなければならない。この山に住む大勢の白たちが口を揃えて「嘘つきの狐に気をつけろ」と言っていたのだ。

「何がだよ」

 そうと知っていれば大丈夫。俺が気を付けて聞けばいいだけの事だ。

「その前にどいてくれないか? 恐ろしくて話せやしない」

 渋々どくと、あからさまにため息を吐いて毛づくろいを始めた。

「それで何が酷なんだよ」

「まったく知らないのか? あれだけ一緒にいて聞かされていないなんて、あんたは本当に信頼されていないんだな」

 腹が立って、片足で喉元を押さえつけてやった。

「すまない。口が悪かったよ。話すから……」

 前足を放すと狐は激しく咽る。

「ゴホッ……実は、ハクジは百年前の……ほら、あの切っ掛けになった龍なんだよ」

「人間と白が別れる事になった、あれか!?」

 驚いて声が上ずってしまった。たしかに一度も聞いた事のない話だ。

「ハクジはこの辺りの白の代表として、人間たちと話をする特別な役割を担っていたんだ。けど……何の前触れもなく人間たちは牙を剥いた。ハクジは待ち伏せされて剣で斬りつけられ、弓で射抜かれ、挙句の果てに痛みで暴れたハクジを恐れて火を放ったんだよ」

「何てことだ……」

 それなのにハクジは、人間の話をする時や向こうの半円を見る時には寂しそうな表情をする。そんな仕打ちをされても人間と暮らした時を忘れられないなんて悲しすぎる。もしかすると龍が死んでいった事の責任を感じているのかもしれない。

「そんな爺さんに人間の言葉を教わるなんて、酷だと思うだろう?」

 呆然としている俺を無視して狐は続ける。

「僕は警告をする。百年たった今、人間たちは近いうちにもう一度こちら側に牙を剥くぞ。少し前に見たんだ。剣を持った人間の男が境界の森付近をうろついているのを。あれは先兵で、きっと人間たちの村では我らを皆殺しにする準備を進めているに違いない。その証拠にズタズタに斬り殺された獅子が川を流れてきた。あの川の上流は人間の半円の中にあるんだよ。あの獅子は宣戦布告だ」

 俺は背筋が冷たくなるのを感じた。

 ――どうして今なんだ。

 せめてハクジが生きている間は止めてくれと祈るが、誰に届くわけもない。ハクジさえ人間を好いていなければ一人残らず噛み殺してやるのに。

「僕は他の奴らにも知らせに行くから、ハクジにだけは言うなよ。こんな事をハクジが知ったら気の毒だ」

「分かった」

 後の言葉が続かなかった。狐は慌ただしく走り去り、俺は行き場なく座り込んだ。

 見た事もない人間。ましてや、あんな歌を聞いたばかりで恨む気はなかった。大事そうに話すハクジを見ていても噂に聞くほど人間は悪くないんじゃないかと思っていた。けれど何の危害も加えていない俺たちに二度も牙を剥こうなんて、許せるわけがない。

 百年たっても水晶のそばを住処に決めて嬉しそうに歌を聞いていたのに。そう言えば、ハクジは自分が弱さに負けたのだと言っていたが、あれは切っ掛けの時の話だろうか?

 ――いや、待てよ。

 百年も何もしてこなかった人間が、あんな弱々しい声で歌う人間が、今さら俺たちに牙を剥いたりするだろうか? これは嘘つきの狐の言うことを鵜呑みにしては駄目だ。しかし本当だった時の事を考えるとハクジには聞きづらい。

 どうしたものかと考えているうちに、足は自然とハクジの元へ向かった。もう誰も知らないし見ていないのだから、ハクジに聞くしかない。

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