落ちる男

KEN

落ちる男

 ビルの屋上。

 上は雲ひとつない夜空。

 下は闇に沈む小さな街。


 私は自分の人生を振り返っていた。

 悲しい事ばかりではなかった。辛い事ばかりでもなかった。楽しい事は……あんまりなかったかもしれない。いや、初めて仕事を任せてもらった時は嬉しかったっけ。今思い出した。

 それでも、私は決断してしまったのだ。何もなしとげられず、何も感動出来なくなった人生にけじめをつける。そこにゆらぎが生じるはずもない。

 靴を脱ごうとして、特に意味がない事に気がつく。屋上から飛び降りてしまえば、私の人生は終わりなのだ。靴が綺麗に残っていようが関係ない。

 肩の力を抜いて、もう一度空を見上げる。これが最期の空だ。星は儚く瞬き、三日月は穏やかに佇む。死出の旅の見送りには十分な光景だ。


 屋上の端に足をかけ、下を覗いた。暗い裏路地には誰もいない。誰かを巻き込むつもりは毛頭ないから、下に人が出てこないかどうかは重要だ。だから飛び降りる場所として、一階の出入り口や窓と重なる場所を避けた。位置取りもオーケーだ。


 ――あとは、飛び降りるだけ。端から一歩踏み出すだけ。

 死んだ両親の顔を思い浮かべる。二人とも三途の川の向こうで苦笑いしているに違いない。けれど、もうそれでいい。


 片足を空に伸ばし、そこに体重を乗せる。

 身体が前へと傾く。


 ひゅーーーーーーっ。


 風を押し除ける感覚が心地いい。

 なびく服。

 迫る地面。

 この数秒を噛みしめる。

 もう、終わりだ。


 ――ぐしゃり。


 頭の中身が潰れた感触、そして音がした。


   〜〜〜


 気がつくと私は、屋上に立っていた。

 空の星も、三日月も空にある。位置がずれているのは、時間が経ったからだろう。

 恐る恐る下を覗いてみた。ちゃんと、首が折れて動かなくなった私がいる。血が酷く吹き出したのか、それとも潰れた臓物が飛び出したのか、路地裏は真っ赤に染まった川のようだ。


 ――そうか、成仏出来なかったのか。


 私はすんなり納得した。三途の川を渡る事も出来ず、屋上に一人佇む事になったらしいと。

 成仏出来なかった事は誤算だったが、私はこれもいいかと思っていた。少なくとも実体を失った今、私に出来る事はない。だからここでぼうっとしていればいいのだ。


 ――いや、そうじゃない。


 私は今困惑している。出来る事がないから、じゃない。目的を終えてしまったにも関わらず、私はその手段を再度行いたいと考えているからだ。

 即ち、ビルから飛び降りたいのだ。


 実体はもうないのに。

 目的は果たされたのに。

 飛び降りたくてたまらない、この衝動を何と呼べばいいのか。


 私は考えていた。

 何故飛び降りたいのか。

 死にたかったから飛び降りた。少なくとも最初はその筈だ。

 だが今は違う。身体を失ってもなお飛び降りたい。もう一度、身体に風を感じで落ちたい。

 私は、転落に魅了されてしまったようだ。


 身体を失ってしまった今、もう風を感じる事も叶わないだろう。だからこの衝動には意味がないのだ。私はそう言い聞かせていた。でも駄目だった。落ちたい衝動は強くなるばかり。私はとうとう、再びビルの端に足をかけた。

 透けて見える足の下には、変わらず首を曲げた自分の死体が見える。赤い川は仄暗い地面に溶けて、よく見えなくなっていた。


 ――落ちる事が、出来るだろうか。


 妙な高揚感が私の足を前進させる。さっきよりもすんなりと、私は落ちていた。


 音はしない。でも風は感じられる。

 少しだけ、さっきよりもスピードが遅いかもしれない。

 秒で地面が迫る。

 ぐしゃりという音はしなかった。


   〜〜〜


 私は再び、ビルの上に佇んでいた。

 幽霊になっても落ちる事が出来た。風を感じられた。それが何故か、嬉しくてたまらなかった。涙の味が、口の中に広がった。


 今度は何も躊躇わず、飛び降りた。


   〜〜〜


 後に、そのビルには「屋上から何度も飛び降りを繰り返すスーツ姿の男の幽霊がでる」という噂が立つのだが、それはまた別の話。

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落ちる男 KEN @KEN_pooh

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