第8話 ラベンダー
M.
『なるほど。そして家に一人きり、ですか。辛い思いをしましたね』
すぐ隣を歩きながら加納が穏やかに語りかけてきます。
いつしか辺りは搭乗案内のアナウンスが響く広々とした空港ロビーでした。行き交うトランクと旅行客。濃紺の制服にスカーフ姿の女性グランドスタッフたちが働く姿も見えます。
『ご家族の振る舞いはあんまりだ。一手に家事を引き受けて、佳澄さんはしっかりと家庭を支えている。なのに、そんな敬うべき貴女の大切な記念日を忘れたまま、みんなして家を出て行ってしまうなんて』
「家族のことを悪く言うつもりはないんです。ただちょっと……、いえ、とても寂しく感じて」
『貴女のような優しい人が報われないなんて、僕は嫌だな。不公平だ。家庭というのは誰か一人の犠牲の上に成り立って良いようなものじゃない。家族に囲まれていながら孤独を感じるなんて、そんなの悲しすぎる』
加納がベンチに腰掛けました。
長い足を優雅に組んで、隣に座るよう佳澄さんを促します。
『佳澄さん、貴女が受けた仕打ちは、旅立つための充分な理由になると思います』
「旅立つ? どこへ?」
『どこへでも。逃避も一つの選択です。心ない家族に束縛されることはない』
「こ、心ないだなんて、私は別に」
『我慢も義理立ても必要ありません』
耳元に顔を寄せてきた加納が諭すような口調で囁きます。
『目指すは新天地。今がその時です。僕は貴女に教えてあげたい。知らない場所を訪ねる喜びを。ここではないどこかへ自由に飛んで行けることの素晴らしさを』
佳澄さんは窓の外へと顔を向けました。自分の弱い心を底の底まで見透かされてしまいそうで、加納と視線を交わすことはとてもできませんでした。
『さあ行きましょう。貴女はもっと自由であっていい方だ』
立ち上がる彼につられて佳澄さんも腰を上げました。
コンコースへと踏み出した加納の背中を追いかけます。
逃避も一つの選択。そうかもしれません。辛い現実や退屈な日常から目を背けていたい――。旅行好きな心の片隅にはいつもそんな思いがあったことを、佳澄さんは否定できませんでした。
北海道を旅したあの頃は特にそうでした。終わりかけのモラトリアムから、初めて命を宿して大きく変わっていく自分の身体から、先の見えない将来から、逃げ出してしまいたかった。
だけど、と佳澄さんは立ち止まりました。
妊娠を告げたあのときの、琢磨さんの様子を思い出したからです。
強張った表情。瞳にはっきりと見て取れた不安の色。それらを、真面目で嘘をつけないこの人らしいとかえって微笑ましく思ったこと。一度ゆっくりと瞬きをした後の、打って変わった真剣な顔つき。『分かった』の一言に感じた固い決心と覚悟。
この人となら大丈夫、彼と一緒に現実と向き合おう。あのとき自分はそう誓ったはずだった。CAになることを諦めても構わない。幸せになる道は一つじゃない。そう信じたはずだった。
『どうしました?』
振り向いた加納が利用客で溢れる搭乗ゲートの方へと片手を差し伸べます。
佳澄さんは首を振りました。
「私、やっぱり行けません」
加納がこちらに向き直ります。
『なぜです。また辛い思いをしたいんですか?』
強い口調で詰め寄ってきます。
『置き去りにされたり、擦れ違ったり忘れられたり、今回と同じかそれ以上に辛いことが、これからもきっと何度となく繰り返されるんですよ』
「家族だって、それぞれ別の人間です。考えていることは違うし、擦れ違いもあります」
『それがお分かりなら尚更でしょう。どうしてそんなものに固執するのです。貴女の期待は空振りに終わる。信じれば裏切られる』
「裏切られるなんて、そんなこと」
『ありえないとでも?』
「……ありえるかも、しれません。でもそれにはきっと、そうするだけの理由があるからで」
『お人好しが過ぎるようですね』
嘲るように笑った加納が、その時、形の良い眉をきつく顰めました。片手で口元を覆って一歩退きます。
遅れて気が付いた佳澄さん、辺りを見回しました。
どこからか漂って来るのです。あの懐かしい香りが。
弾かれたように振り向きました。
ずっと遠くに、懐かしい富良野の大地と抜けるような青空が広がっているのが見えました。
帰らないと――。
加納に向かって一礼した佳澄さん、後も見ずに駆け出しました。
もう一度、あの始まりの景色に向かって。込み上げる気持ちに任せて。
目覚めたとき、縁の向こうはもうすっかり夏の夕暮れでした。
佳澄さん、まだ頭がぼんやり。ふて寝も同然の昼寝をして、拗ねた子供のような夢を見たことが恥ずかしいような情けないような。
身体を起こすと、滑り落ちたのは見慣れたタオルケット。誰がかけてくれたのでしょう。枕元には自分のスマホ。そしていつもの蚊取り線香『渦巻香☆ラベンダーの香り』。
そこでようやく我に返りました。
夕飯の支度をしていない!
細く光が漏れる
パパパン! と立て続けに鳴り響く乾いた破裂音。
佳澄さん我が目を疑いました。
華やかに、これでもかと飾り付けられたリビング。テーブルにはお菓子やジュース、オードブル。そして大きなホールケーキ。呆然とする彼女の方を向いて、クラッカーを手にした琢磨さんが、遥さんが、奏太くんが声を揃えます。
「「「ママ、誕生日おめでとう!」」」
込み上げる嬉しさと溢れる涙で、ありがとう、がなかなか言葉にならない佳澄さんでした。 了
ママと真昼のナイトメア 夕辺歩 @ayumu_yube
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