最終話 「好き」の距離

 白いワイシャツに、えんじ色のネクタイ。緑色のチェック柄のズボン。そんな見慣れた制服を着て、コンビニの袋片手に立っていたのは、春人くんだった。

 なんで? その言葉が、一番最初に脳裏をかすめた。

「突然、来てごめんね」と気遣うように浮かべる微笑に、息ができないほどに胸が締め付けられる。

 やっぱり、好き。大好きだ。

 ずっと溜め込んでいたものが、ぐっとお腹の底からこみあげてくるようだった。


「なんで……」と、ぽつりと声が漏れた。

「お見舞い。大したものじゃないけど、あとで食べて」後ろ手に静かに扉を閉めて、春人くんはコンビニの袋をひょいっと掲げた。「今朝は朝練見に来てなかったから。部活んとき、小野田に聞いたら、今日はつかさちゃん休みだって言われて」


 小野田は、あたしと同じクラスの弓道部員。なんでいっつも朝練見に来てんの、て鬱陶しそうに聞かれたことあったっけ。そっか、小野田から聞いて……って、そういうことじゃない。


「違くて……なんで……」


 なんで来ちゃうの? ――喉まで来ているその言葉が、出てこない。

 春人くんがお見舞いに来てくれた。あたしの部屋に春人くんがいる。それが、まるで夢みたいで。ぶちこわすようなことを自分から言いたくはなかった。

 あたしが口ごもっていると、春人くんはゆっくりと部屋の中に入ってきて、真ん中にあるローテーブルにコンビニの袋を置いた。


「電話しようとして、俺、つかさちゃんのケータイの番号とか知らないの気づいてさ。恭平に連絡したんだ。さっきまであいつの部屋にいたんだけど、相変わらず汚くてびっくりした」


 困惑と苛立ちが胸の奥で渦巻いていた。

 もう春人くんが理解できないよ。なんで、そんなに呑気に話してるの? まるで、ずっと会えなかった時間なんてなかったみたいに。その間に起きた変化なんて、無視するみたいに。

 あたしたち、もうあの頃とは違うんだよ。ふらってやって来て、昔みたいに和気藹々なんてできないんだよ。


「ダメじゃん!」て、春人くんに聞かせたことないような、裏返った声が飛び出してた。「なんで来たの? 春人くん、彼女いるんでしょ!? 他の女の子のとこ、来ちゃダメじゃん!」


 あたしがずっと大切にしてきたもの、全て粉々に砕いてしまうと分かっていたのに止められなかった。春人くんとの甘い想い出。もう戻ってこない、その日々にすがりつくようにして、この三年間、一人で孤独に片想いしてたのに。それを、こんな風に台無しにしてしまうなんて。

 両思いになれなくても、春人くんとの想い出だけ大事に取っておくこともできたのに。『妹』ぶって、遠くから春人くんを見つめていることもできたのに。それもできなくなっちゃうじゃん。

 ぎゅっとブランケットを握りしめる自分の手を、あたしは睨みつけていた。そうして必死にこらえようとしたのに、ぽろりぽろりと溜まり溜まっていた想いが涙となって目からこぼれ落ちてくる。

 そうなったら、もうだめだ。ダムが決壊したみたいに、なすすべもなく感情が溢れ出てきてしまう。


「あたし……春人くんのこと、ずっと好きだった。本気で好きだったのに」

「うん、ありがとう」凝りもせず、春人くんはそう言うんだ。「俺もだよ」て、残酷なことを優しい声で付け足して。

「違うんだって! そういうんじゃなくて。春人くんの『好き』は、あたしのとは違うんだよ。あたしは……ずっと手を握っててほしいし、何時間でも見つめ合っていたい。そういうやつ!」


 あー、もうわけ分かんない。熱のせいか、興奮しているせいか、頭がぼうってして、自分でも何を言ってるんだか分からなくなってきた。


「そっか」しばらく間を置き、春人くんの落ち着いた声がした。「そうだね。俺のとはちょっと違うかな」


 心臓をつねられたようだった。胸の奥がきりきり痛む。

 分かってた。分かってたはずなのに。やっぱり、本人の口から聞くと――。


「俺は……つかさちゃんの手を握ったらもっといろんなとこ触りたくなるし、ずっと見つめてたらキスしたくなる。そういうやつ」

「……は?」


 なに? なんて言った? キス……?

 ハッと我に返って顔を上げると、いつのまにそこに座っていたのか、ベッド脇に腰を下ろし、春人くんは申し訳なさそうにぎこちなく微笑んで、あたしを見上げていた。


「ごめんね。昨日、部活中に宇部ちゃんからメールきて呼び出されてさ。すげぇ怒られた。それで、やっと誤解に気づけたんだから情けないわ」

「宇部先輩?」


 あたしの失恋がほぼ確定し、さっさとケータイをいじりだした宇部先輩の姿が脳裏をよぎった。もしかして、あのとき……?


「誤解って……」

「俺さ、つかさちゃんと付き合ってると思ってたんだ。この一ヶ月」

「……」


 え。ちょっと待って。

 紺野先輩、言ってたよね。春人くんには彼女がいるって。付き合いたての……。


「え!?」と、ようやく出てきたのは、素っ頓狂な声だった。「あ、あたし!? だって、超可愛いって惚気てたって……」

「そう。つかさちゃんのこと」


 春人くんは、相変わらず爽やかにさらりとそう言った。

 顔が赤くなるのが自分でも分かった。頭まで茹で上がっちゃったみたいに言葉がうまく出てこなくて、「なんで……なんで……!?」てあたしは繰り返していた。


「一ヶ月前、つかさちゃんが告ってくれたとき、オッケーしたつもりだったんだけど……宇部ちゃん曰く、言葉が足りない、て」


 一ヶ月前って、入学式の日のあれだよね。


「『ありがとう、俺もだよ』?」

「それそれ」と、春人くんは子供みたいに恥ずかしそうに笑った。「昔から、つかさちゃんのことは特別に思ってたけど、妹みたいなものなんだと思ってたんだ。でも、あのとき……久しぶりにつかさちゃんの笑顔が見れて、なんかホッとして、つい抱きしめたくなって……。それで、『好きだ』て言われて、ああ俺もなんだ、て気づいた。だから、そう言ったつもりだったんだけど……」

「分かんないよー!」て、思わず、叫んでいた。「付き合ってる感じもなかったし! 朝練も見に行ってたのに、話しかけてもくれなかったし!」

「それは……つかさちゃんは恭平の妹だから。二人きりで会うのは、恭平に直接話してからにしようと思ったんだ。で、あのあとすぐ、恭平に連絡したんだけど、なかなか予定が合わなくて」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ。筋を通そうとしてくれたのは分かるんだけど、それで一ヶ月も放置する? あたし、熱まで出して寝込んだんだけど。

 ああ、でも――。

 そうだった。真面目でしっかりしているようで、でも、ちょっと抜けたところがある。春人くんらしい、て思ってしまった。そういうところも、あたし、好きだったんだ。


「待たせてごめん。でも、ちゃんと恭平には話してきたから」


 春人くんはじっとあたしを見つめて、そう言った。ためらいなくまっすぐにあたしに向けられるその眼差しは、ぞくりとするほど真剣で。冷たくさえ感じるその目には、見覚えがあった。的を射抜くときと同じ――。

 釘付けにされる。見つめられるだけで、金縛りにでもあったみたいに動けなくなる。

 そうして見つめ合って……ふいに、春人くんの言葉が脳裏をよぎった。

 ――見つめてたらキスしたくなる。

 その瞬間、みぞおちの奥がかあっと焼けるように熱くなって、思わず、目をそらしていた。

 急に身体はこわばり、視線が泳ぐ。

 どうしたらいいか分からず、パニクっていると、ひんやりとした肌の感触を手の甲に感じた。懐かしいようで、初めてのような――かたく大きな手が、私の手を包み混んでいた。

 小さい頃、仲良くつないでいた手とは、そのやらわかさもぬくもりも違う。でも、ぎゅっと優しく握りしめてくれるその感じは、昔と変わってない。


「大丈夫。ちゃんと待つから。つかさちゃんの『好き』が、俺のと同じになるまで」


 まるであたしの心を読んだかのようにそう優しく囁いて、春人くんは骨ばった長い指を、あたしの指の隙間にするりと滑り込ませてきた。指を絡めるようにしてしっかりと繋がった手は慣れなくて、恥ずかしくて――でも、たまらなく嬉しくて、「うん」とあたしは俯いたまま、にやけてしまった。

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彼とあたしの「好き」の距離 立川マナ @Tachikawa

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