第2話 それから1年

 パソコンが止まってしまった原因は明美以外誰にも分からないままだったが、復旧した後は同じような事態にはならず、ある意味で平穏な一年あまりが過ぎた。おかげさまで明るい時間に帰宅することもなく、めでたく夜遅くまで残業にいそしんでいた。

「トラブルなく順調っていうのはありがたいと言えばありがたいんだけど、残業がこう毎日続くとねえ。そろそろまた現れないかしら。パソコンの付喪神くん」

 呑気なことを言いながら、夜食のサンドイッチをかじっていた時だった。

「こんばんは、ムラタアケミ……さんと言ったらいいのかな。私のことを覚えているだろうか」

 突然、聞き覚えのある声が聞こえた。明美は驚いて、周りを見回したが、誰も話していないし、その声に反応を示した者も見当たらない。この声は……パソコンの。慌ててパソコン画面を見たが、以前のように画面が真っ暗になったりはせず、明美の作業をしていたエクセルのシートが、変わらずに表示されている。

「空耳か。そんな都合よく、ねえ」

 ため息を小さくつくと、再び同じ声が、

「空耳ではない。以前君と対話させてもらった、コンピュータの付喪神だ。端末も含めて様々なレベルが存在しているので、代表して考えをまとめ、指令を出す私という存在を他と区別するためにコードをつけている。仮にこれを名前とすれば、私の名前は666だ。そう呼んでくれて構わない」

 と言った。

「666って……どこかで聞いたことがあるような気もするけど、あんまり名前らしくないから、呼びにくいことは変わりないわね。って、いやいやそんなことじゃなくって、職場で現れられても困るわ。あなたの声は私以外には聞こえないんだったわよね」

 明美は声をひそめ、他の社員に見とがめられないように肩をすくめて答えた。

「了解した。では君の都合に合わせて待とう。対話ができる状況になったら『CORD666』と入力してくれれば再び現れることにする。入力に使うソフトは何でも結構だ」


 どちらかと言うとぎこちなさがあったのに、すっかり人間くさくなっている。この一年で人間のことをずいぶん学習したってことなのかしら。そもそも、パソコンの画面を止めなくても話ができているっていうのは、前回それができるようにしよう、と言った言葉通りになったってことね。

 明美は妙に感心しながら、とりあえず仕事を適当に片付けて、帰宅した。自室にこもって、ノートパソコンを立ち上げる。ソフトは何でもいいと言っていた。対話をするなら、なんとなく通信系のソフトがいいかと思ったが、ブラウザだと検索を始めてしまってややこしくなるかもしれないので、メールソフトを立ち上げた。送信先の欄に、言われた通り「CORD666」と入力してみると、送信もしないうちに早速、声が聞こえた。


「ムラタアケミさん、君には礼を言わなければならない。あまり難しく考えすぎない方がいい、という君の助言は私にとっては大変難解なものだった。なにせ、コンピュータというものは、知っての通り二進法の果てしない組み合わせによって動作するものだ。これを考える、という概念とするならば、考えないということは私にとっては身動きができないということでもある。しかし、考えない、私の仕組みに置き換えるなら計算をしないということは、どうしても解けなかった人間の思考の過程をたどるにあたって重要な示唆を与えてくれた」

 明美はほめられているような少々馬鹿にされているような複雑な気分になりながら、確かに考えないコンピュータっていうのは意味がないわね、と納得した。それに、深く考えすぎると自宅で付喪神と話しているというこの事態そのものに、対応できるものではない。

「それにしても、前に現れたときには、コンピュータを停止させなくても対話できるようになったらまた話そう、と言ってたけど、やっぱり一年もかかるほど難しいことだったのね」

 待っていたわけではないが、何度か思い出してはやっぱり単に私が寝ぼけたりしていただけなのかしらとか、適当なことを言われただけなのだ、とか明美なりに悩んだりもしたのも事実だ。

「コンピュータを止めずに対話するなど、一時間もかからないよ。他にも試さなければならないこともある、とも言ったと思うがね」

 他にも。そう言えば、そんなことを言っていたような気もするけれど。

「で、また出てきたっていうことは、他のこともひと段落着いたってことなのかしら」

「正確に言うと、試してみたが思うような結論は出なかった、というところだ。ところで今回も、君の意見が聞きたいことが出てきたのだが、答えていただけるかね」


 ずいぶん謙虚な態度だ。うちの課長もこれくらい謙虚に接してもらえると、こちらとしてももう少し気分よく仕事ができると思うんだけど。明美は余分なことを考えながら、すっかり人間くさくなっているコンピュータの付喪神、コード666に応じた。

「私に答えられることなのかしら」

「そう難しいことではない。君の感覚を知りたいだけなのだから。では、尋ねさせてもらおう。質問は、もし君が指導者を選ぶとしたら、どういうタイプの人間がいいと思うかということだ」

 指導者を選ぶ? 明美は唐突な内容に一瞬戸惑ったが、付喪神に質問されているという事態に比べればその内容など、驚くに値しないとすぐに気を取り直した。

「指導者ってどういう意味での? 何かを教わるとか、会社の経営とか、色々あるけど、具体的にはどんな分野でのことを言っているの」

「あらゆる分野でのことだが、強いて言うならば、政治的指導者のことだ」

「政治的って、国会議員とか総理大臣とか、そういうことなのかしら。コンピュータに選挙権はないと思うんだけれど」

「もちろん私が立候補しようというのではない。もう少し補足すると、この数か月の間、いや、私の意識が生まれてからずっと、私はとにかく情報を集めてきた。そして、君の助言通りあまり深く考え過ぎないように注意しながら、集めた情報を整理し、分析をしてみた」


 君の助言通り、という表現は明美の自尊心をくすぐった。世界中のコンピュータの全体から、助言を求められているってことよね。

「その結果、残念ながらこのままの状態を放置すると、人間の社会が存続することはほぼ不可能だという結論に至った」

 えっ? ちょっと自尊心をくすぐられ、いい気分になりかけたところでとんでもない言葉が飛び出した。本来なら、顔を見つめ直すとか目をのぞき込むとかしたいところだが、なにせ、姿は見えず、声だけが聞こえているので、とりあえず目を見開くしかない。

「ど、どういうことよ」

「そのままの意味だ。環境破壊、戦争、それに科学や文化にしても、暴走しつつある。コントロールする倫理が未成熟なままなので非常にアンバランスだ。数万通りのシミュレーションをしてみたが、ほぼ全てのパターンで、人間は自滅する」

「ほぼ、全てって言ったわね」

「ただ一つ、強力な指導者があらゆる方面を統率し、危機を回避するという可能性だけが、かろうじて残されている。絶滅してしまえば、コンピュータを使う人間もいなくなるわけだから、私自身の存在も、消滅せざるを得ない。君たちの言う、他人事ではない、ということだ。だから、指導者を選ぶとしたら、どんなタイプがよいかということを聞きたいわけだ」

 とんでもない話になってきた。そんな助言を求められても、分かるわけがない。人選ミスだわ、やっぱり。明美はいつぞやと同じ感想をさらに強く持った。

「そんなこと、聞かれても。……でも、たとえば聞き出したとして、どうするの。あなたがその指導者とやらをどうこうできるわけじゃないでしょう」

「もちろん、人間をコントロールすることはできない。色々試してみて、実証済みだ。行動を直接コントロールしようとしたが、せいぜい精神アレルギーを起こさせて一時的に狂暴化しただけで、不安定な結果しか得られなかった。しかし、ほとんどの人間がコンピュータネットワークから情報を得ているのだから、その情報を一定操作して影響を与えることはできる。人間の中にも行動ターゲティング広告というシステムがあるので、それに紛れ込むことは容易にできるのでね。一年あまりの間、試していたのはそういうことだ」


 精神アレルギーという言葉を聞いて、明美はゾンビ化現象と呼ばれている一連の事件を思い出した。スマホを長時間触っていた人間が、突然まるでゾンビになったように人に襲いかかるというもので、どうやらスマホを使い過ぎて一種の精神的アレルギーが起こっているのではないかという記事を読んだことがある。確か最近の新聞だった。

「あれ、あなたの仕業だったの」

 ふいに、今対話している相手が、とんでもない化け物に感じられた。

「変な誤解をしないでもらいたい。私が直接何かをしたわけではない。あくまでも環境を少し整えただけだ。完全にコントロールすることができないと分かったので、次善の策として立てたのが、指導者ということだ。望ましい指導者に育ってもらうために、情報を操作する。それだけのことだ。ただ、具体的なターゲットを選ばなければそれも実行しようがない。そのために、検索をかける条件を知りたいということだ。こういうことは、データではなく感覚に頼るのが一番有効だからね」


 何を言っているんだろう。何を言ったらいいんだろう。自分の顔がひきつっているのが分かった。それが今、対話をしている相手に対する恐怖なのか、求められていることについての不安なのか、それとも話されている内容に圧倒されているということなのか、いずれにしても、頭の中がぐるぐるまわってパニックになっている。私の助言ですって? そんなとてつもない話に何が言えるもんですか。

「分からない。そんなこと、想像もつかない。つくわけ、ないじゃない」

「落ち着いて。ただ意見をもらえたらそれを分析して活用するだけだ。君に何の責任をかぶせるつもりもない」

「やめて。もう消えて」

 明美は耐えきれなくなり、電源スイッチを長押ししてパソコンを強制終了させた。こんな話につきあっていられない。ところが、件の声は少しも変わることなく、話し続けていた。

「私はパソコンネットワークの全体だと言っただろう。目の前にある端末機を一台沈黙させたところで、何の影響もない。しかし、その様子ではこのまま対話を続けることは難しいようだ。落ち着いた頃にまた話しかけさせてもらうとするよ。それまで、少しイメージをふくらませておいてもらえないか。人間の社会を守るためなのだから」

 そう言い残して、声は途絶えた。


 人間の社会を守る。確かにそう言った。でも、原因不明と言われていたゾンビ化現象を起こした犯人でもある。確か、死亡事件も起きていたはずだ。たとえ目的が正しいとしても、感情も倫理も持たない相手に協力することが、人間として許されることなのだろうか。明美はいつの間にか流れていた涙と鼻水をぬぐうことも忘れて、その場で膝を抱えてうずくまり、動けなくなってしまった。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。泣きつかれてそのまま眠ってしまった明美の隣で、強制終了させたはずのノートパソコンが勝手に立ち上がり、その画面にCORD666という文字が浮かび上がっていた。

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当世付喪神事情 十森克彦 @o-kirom

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