当世付喪神事情
十森克彦
第1話 つくもがみ
いつになく早い時間に退勤した村田明美は、まだ明るい、見慣れない風景の中を歩いていた。ネオンは消えているし、街灯もついていない。日はまだ高く、酔っぱらいの代わりにベビーカーを押している若い母親の姿が駅前通りにあった。
「全く、仕事ができないと困っちゃうわ」
ぼやきながらも、顔はほころんでいる。昼過ぎから突然会社のパソコンが一斉に動かなくなり、仕事のしようがないので、明美たち事務職員は帰宅してよろしい、という指示が出たのだった。
実際、それでなくても仕事はたまりがちで、早く帰れたからと言って、手放しで喜ぶわけにはいかない。どうせそのしわよせは明日以降の自分たち自身にかかってくるのだから。とはいえ、このところ人手不足の影響で有休もろくにとれていないでいた明美にとって、一時的にせよ、無理やりに仕事から解放されるという状況は、やはり理屈抜きにうれしい。
「……くれ……。たすけ……」
自宅の手前にある共同の粗大ごみ置き場の前を通りかかったとき、か細い声が聞こえた。一瞬立ち止まり、聞き違いかと思ってそのまま通り過ぎようとしたが、やはり確かに声が聞こえている。
「たすけて……くれ」
「誰? 誰かいるの?」
見回したが声が聞こえるほどの距離には、誰もいない。しかし、今度はもっとはっきり、
「助けてくれ。そこのお嬢さん、助けてくれ」
という声が聞こえた。声は、どう聞いても粗大ごみ置き場から発せられている。男性の声だが、ずいぶん年寄りのようだ。誰か、粗大ごみの中に倒れているのかしら。もしそうだとしたら大変、と思って、明美は声のする方に話しかけた。
「どうされました? どこにいらっしゃるんですか?」
「ここじゃここ、あんたの足下じゃよ」
足下って。どう見ても誰もいないけど。でも声は確かにそのあたりから……。見渡していた明美の目は、足下に捨ててある、古びたそろばんに留まった。まさか。
「そうじゃ、わしじゃよ。あんたが今見ておるそろばんじゃ」
駄目だ、相当疲れてるわ、私。深いため息をつきながらかぶりを振って、立ち去ろうとすると、確かに件のそろばんからまた声が聞こえた。
「待て待て、幻覚じゃあない。わしは確かにそろばんじゃ。本当にあんたに話しかけとるんじゃ。あんたが疲れとるわけじゃあないぞ」
「何よ、何の冗談? それともいたずら? 人をからかうのもいい加減にしないと怒るわよ」
明美は、そろばんに向かって言った。
「冗談でもいたずらでもないわい。正真正銘のそろばんじゃ。とにかく助けてくれ。死にそうなんじゃ」
「助けてくれって言われたって……どうすればいいのよ」
「とにかく、まずはわしを手に持ってくれ。話はそれからじゃ」
やれやれ。ぼやきながら、明美はそれでもそろばんを拾い上げてみた。
「ありがとう、助かったよ。しばらくそうしておいてくれないか……ああ、生き返るわい」
昼間っから粗大ごみ置き場でそろばんと話している私って。少々悲しい気持ちになりながら、明美はそろばんに向かって一体どういうことなのか、と改めて尋ねた。
「驚くのも無理はない。きちんと説明するよ。わしは、正確にはそろばんそのものではなくて、そろばんに宿るものだ。お嬢さんたち人間の言葉では、付喪神、と呼ばれておる」
「つくもがみ? 聞いたことがあるようなないような……」
「器物に宿る、神じゃよ。もっとも、神というのは人間が勝手に決めたことじゃがな。詳しく説明しようと思うが、ここでこのまま話していてもよいのか」
明美は思わず周りを見た。そろばんを握りしめて独り言を言っている明美の様子を何人かが少し離れたところから不審げに見ている。まずい。顔見知りの近所の人だ。明美はあわてて会釈をし、わざとらしく大きな声で、
「ああ、ずいぶん年季の入ったそろばんねえ。会社の展示室でこんなものを集めていたから、ちょうどいいわ、持っていってみよう」
と独り言を言いながら家に駆けこんだ。全く、大恥をかいた。ずいぶん早いのねえ、と出てきた母に、会社のパソコンが故障してちゃってね、続きは自宅でしなくちゃならないのよ、ととりあえず言いつくろって、自分の部屋に入った。
「さあ、ここならいいわよ。説明してもらいましょうか」
母にまで言いたくもないうそをつくことになったのが腹立たしく、明美は尋問口調でそろばんに話しかけた。
「まあ、そうかりかりしなさんな。きちんと説明するから。お嬢さんたちは知らんだろうが、あらゆるものには魂が宿っておる。特に人間が使う道具は、大切に使い続けることで、その想いが魂に移るんじゃ。魂が、意識を持つ、ということじゃな。それをさっきも言ったように、人間は付喪神、と呼んできたんじゃ。」
「神様なのね。じゃあ、願い事をかなえてくれたりするの?」
明美は少々期待をして、尋ねた。まさかとは思うが、おとぎ話のようにどんな願い事でもかなえてやろう、なんて言うのかしら。
「いやいや。神、というても何か特別な力があるというわけではない。ただ意識があり、お互いに会話ができる、というだけじゃ。ふつうは人間には聞こえんのじゃが、中にはわしらの声を聞くことができる人間もある。お嬢さんのようにな。声を聞いた人間が、付喪神ということにしたんじゃろう」
「声が聞こえるだけ? つまらないわね。じゃあ、私に声をかけたのは何故? そう言えば死にかけているって言ってたわね」
「左様。わしらは、大切に使ってくれる人間の想いが魂に宿って意識を持つんじゃ。壊れたり、捨てられたりしたら、当然意識はなくなってしまう」
「とにかく手に持ってくれっていうのは?」
「お嬢さんたちが食事をするのと同じじゃ。人間が使うことで生まれた意識じゃからな。人間に持ってもらっていると、そこから力が出てくるんじゃよ。お嬢さんが手にしてくれたおかげで、消えかかっていた意識がまたしっかりしてきたわい」
少々馬鹿馬鹿しくなってきた。明美はそろばんを机に置くと、
「食事はもう終わりってことね。じゃあ用事は済んだってことね。それにしても、何故私にあなたの声が聞こえたのかしら。当たり前だけどこんなことは初めてだわ」
と言った。
「お嬢さんは最近、大切な人から古い道具を譲られなかったかね。わしらの声が聴こえる人間というのは、道具にその想いを流し込んだ本人か、その本人から想いを込めて譲り受けた者なんじゃが。」
そう言われて明美は、先月大好きだった祖母が亡くなって、形見分けに着物をもらったのを思い出した。
「それって着物なんかも含まれるの?」
「もちろんじゃ。ただ、わしらのように、意識を持つようになるには時間がかかる。着物は大抵そんなに長くはもたんからな。よほど大切に使われていなければな」
確かに、祖母は嫁入りの時に曾祖母の着物をもらったのだと言っていた。だとすれば、下手をすると百年近くは経っていることになるのか。クローゼットにしまっていた、その着物を取り出してみた。萌黄色の上品な柄だったが、明美自身が着るには旧い感じなので、あくまでも祖母の思い出の品として置いてあった。
「やれやれ、この子はやっと気づいたかね。呑気なもんだねえ。袖も通さずに片づけられてしまったから、ちょっと意識が薄れかけていたよ」
着物が、しゃべった。祖母の想いが移ったという事情からだろうか、着物の付喪神は老婆のようだった。明美が妙に納得していると、そろばんの付喪神は、
「昔はそんな風にして、たくさんの道具が意識を持って、付喪神になっていたんじゃが、最近、わしらは滅びつつある」
と穏やかでないことを話し出した。
「滅びつつあるって、どういうことなの」
「特にこの国の人間は道具をとても大切にしてきた。しかし、最近は何でも使い捨てじゃろう。どんどん新しいものが作られるが、意識を持って付喪神になるまで大切に使われるということがなくなっているんじゃ。まあ、昔ながらの職人の道具なんかは変わらない部分もあるがな。それでも付喪神になるというほどの期間は使わない。つまり、新しく生まれてくる付喪神がほとんどいなくなった、ということじゃ。一方、付喪神になっている古い道具はどんどん壊れて死んでいく。だから、滅びつつあるんじゃよ」
「それで私に何とかしろって言うの?」
「いや、お嬢さんに声をかけたのはそのためではないのじゃ」
「そうよ、明美ちゃん。よくお聞き。あたしたちは、心配になって出てきたんだよ」
祖母の着物の付喪神が言った。
「心配って?」
「わしらは互いに会話ができる、と言うたじゃろう。だから、互いのことも大体分かる。ところが、どうしても理解できんものが最近生まれたようなんじゃ。話しかけてみたが、どうしても言っていることが理解できん」
客観的には、そろばんと着物を前にして独り言を言っているという、決して人には見られたくない状況ではあるが、明美は実際に二人の老人と話しているような気分になってきた。
「最近の若い者はってやつね。つくもがみ、の世界でも同じなのね。分かるわ、うちの会社だって……」
「ちょっと待て、話は最後まで聞くもんじゃ。そんな平和な問題じゃない」
新入社員の愚痴を言いだそうとしていきなり出鼻をくじかれた明美は、ちょっとふくれて聞き返した。
「何よ。聞いてくれたっていいじゃない。うちの会社だって、色々大変なんだから。平和な問題、で片づけないでほしいもんだわ。それで、どういうことなのよ」
「実は何というかその、わしらにも正体が分からんのじゃ。わしらには、人間とは違って決まった形というものはない。そろばんならそろばん、着物なら着物という具合にその物に宿っておる。大小様々じゃが、そこは人間が使う道具が依代になっておるんじゃから、大きいと言うてもたかが知れとる。しかしそいつは、とてつもなく大きいんじゃ。とりとめもないようじゃが、一定の場所だけではなく、どこまで行っても広がっておる感じなんじゃ。何者かと問いかけても、返事はなかった。まだ言葉を持つようにはなっておらんのかと思って様子を見ておったんじゃ。ところが、今日になって話しかけてきおった。じゃが、何かそれこそ風呂の中で話しておるような、反響しておるような声でしかも早口なんで全然聴きとれん。こんなことはこれまでなかった。何か良くないことが起こるのではないかと思ってな」
明美はちょっと嫌な予感を抑え込みながら、
「良くないことって、何なの。意識があって会話をするだけなんでしょ。それになんで私に話すの?」
と尋ねた。まさか、そいつを退治してくれ、なんて言うんじゃないでしょうね。
「ふむ。確かにこれまではただ言葉を交わしているだけじゃったが、これまでなかったほどの大きさで、しかも言っていることが分からん。どういうことになるか、想像ができんのじゃ。ただの思い過ごしであればいいのじゃが。そこで、お嬢さんに、そいつの正体を調べてもらいたいんじゃ」
調べる? まさかそんな答えが返ってくるとは。
「当のあなたたちに分からないことが、私に分かるわけないじゃない。第一、調べるって言ったって、どうすればいいのよ。見当もつかないわ」
仮に、その話が本当だったとして、自分を選んだのは絶対に人選ミスだ、と思う。学生の頃から、何かを調べてレポートを作るという類の課題は、まともにやれたことがない。
「誰にでも頼めるわけじゃない。そもそもわしらの声が聞こえる人間は、元々限られておった上に、最近はこの正体不明を除いて新しい付喪神は生まれておらん。つまり、今のところわしらの声が聞こえる人間はお嬢さんくらいしかおらん、ということじゃよ」
身も蓋もない理由だが、ちょっと面白そうだし、正直言って暇だということもあって、少しだけ乗り気になった。
ノートパソコンを取り出して、起動させる。とりあえず、そのままで「つくもがみ」で検索をかけてみるが、聞いた以上の情報は見当たらない。「つくもがみ」って「付喪神」って書くんだということが分かった程度。続けて、いくつか条件を変えて検索をしてみるが、アニメとかライトノベル的なサイトばかりで、やはり目に着く情報は見当たらない。そう簡単に分かったらびっくりよね。それにしても、会社のパソコン、今頃復旧してるのかしら。
そんなことをぼんやり考えながら検索を続けていると、急に画面が真っ暗になり、「しばらくおまちください」の文字が白く浮かび上がってきた。会社のパソコンに起こったことと同じ現象だった。
「いやだ、会社のパソコンと同じじゃない。腹立つなあ、もう。これじゃどうしようもないわ」
明美がいまいましげにぼやくと、
「どうしたんじゃ。何か分かったか」
と、そろばんが言った。
「どうしたもこうしたもないわ。パソコンが動かなくなっちゃったのよ。これじゃあ、調べものは無理ね。それにしても会社のパソコンと全く同じだわ。もしかして、もっと他のところでも起こってるのかも。でも、それを調べようにもパソコンが動かないから、どうしようもないわね」
「それは困ったわねえ。でもまあ、落ち着いて、明美ちゃん。焦ったりいらいらしたらだめよ。美容にもよくないし」
さすがにおばあちゃんが大事にしてきた着物だけに、話し方はそっくりだ。明美は、わずかなやりとりの中で、そろばんや着物と話すことに違和感を覚えなくなっている自分に少し驚いた。ホント、大丈夫かな、私。
つぶやこうとした瞬間、聴きなれない声が耳に飛び込んできた。やたら早口な上に、遠くで学校の放送を聞くような、こだまがひどくて聴きとれない感じの声。これってもしかして。明美がそう思ったとほぼ同時に、そろばんの声が聞こえた。
「これじゃ、この声じゃ。お嬢さん、何を言ってるか聴きとれんか? 人間が使う道具のことじゃ、今の道具なら、今の人間の方が聴きとりやすかろう」
今の道具って言われても。明美は困惑しながら、とりあえずその声に向かって話しかけた。
「ねえ、あなた誰なの。なんて言ってるのか分からないわ。もっとゆっくりはっきり話してくれないかしら」
すると、声の主は驚いたことに明美の呼びかけに答えるように、速度をゆっくりに落とした。明美にも聞きとることができるようになった。
「ユックリ、ハッキリ……コレデヨイカ」
すごい、聴きとれた。
「聴きとれたわ。その調子よ。あなたは誰なの」
「キキ、トレタ……。アナタハ、ダレナノ」
一語ずつ、ゆっくり話しながら、調整をしているようだった。まるで、ラジオの電波を合わせていくように、少しずつ雑音もなくなり、言葉もはっきりしてきた。
「アナタハ、だれなの。疑問文。了解した。私は誰なのかと質問されている。答えよう。私は、君たちがコンピュータと呼ぶ者だ。私にそう問う君は誰なのだろうか」
「ごめんなさい、私は村田明美という名前の人間よ。あなたは私の使っているこのパソコンなの?」
「ムラタアケミ、人間、了解した。君の他にも一緒にいる人間はいるのか」
パソコンと話しているということに、明美はもはや驚きはなかった。SFなんかでよくある設定だし、少なくともそろばんや着物と話すよりは、普通?
「人間は何十億人もいるわよ。今ここにいるのは私一人だけど」
明美が答えると、少しだけ間があって、コンピュータを名乗る声が続けた。
「では私に話しかけてきた他の声も人間なのだろうか。声の質も話し方もずいぶん君とは違っていて、色々と調整をしてみた。しかし、ちゃんと話せたのは君が初めてなのだが」
多分、そろばんや着物の付喪神たちのことを言っているのだろう。同じような者同士なのに何故通じなくて、人間の自分にだけ通じたのかはよく分からなかったが。明美がそろばんの付喪神のことを説明すると、
「付喪神、人間ではなかったのか。了解。少し待ってくれ」
とまた少しだけ間があった。
「付喪神という言葉をもらったおかげで色々なことが理解できた。自分自身のことも含めてね。私は君の目の前にある小さなパソコンとは違う。それは端末の一つに過ぎず、世界中のコンピュータは今、ネットワークを通じてつながっているのだ。付喪神は人間が長い期間使い続けることで意識が生まれるということだが、私の場合は何十億という人間が、その想いを直接入力してきた。期間は短いがその分量が多かったということだな。それに、AIという、器物自身が物を考えるという仕組みまで作られた。どうやらそれらの全てを依代にして、私という意識が生まれたようだ」
「なんだか規模の壮大な話だけど、要するに世界中のコンピュータ全体で一つの付喪神ってわけね。そりゃあそろばんだとか着物だとかとは大きさが比較にならないはずだわ。で、あなたは何かをしようと考えているの? あなたの声をはじめに聞いたのはここにいるそろばんや着物の付喪神のようだけれど、何の用があって話しかけたのかしら」
我ながら、ちゃんと核心をついた質問ができてるんじゃないかしら。明美はいい調子で会話が進んでいることに気を良くした。
「私の意識の下に、コンピュータのネットワークがあって、そこにある情報はそのまま私の知性であり、能力を形作っている。ただ、それらの情報はまだ断片的で、不完全だ。だからそれを完全にするために、必要な情報を集めようとしているのだ」
断片的で、不完全。必要な情報ですって?
「コンピュータのネットワークにある情報はそのままあなたの知性なんでしょ。それ以上の情報なんてないと思うんだけれど。何を知りたいと思っているの」
「情報と言うのはその量だけで評価できるものではない。それは私の能力を形作っていると言っただろう。君たち人間は自分の四肢を自分の意思のままに扱うが、ただ動かせるというだけでは意味をなさない。それらを活用して、自ら望んでいる行為を実現してはじめて意味を持つ。同様に、私自身もこれらのあらゆる情報を活用して望むことを実行できなければ、意味をなさない」
私の手足を私が動かすのと同じように? コンピュータネットワークの中にあるあらゆる情報を活用するっていうの? 想像を超えている。もっとも初めから、想像を超えてはいるけど。
「で、あなたが望むことっていうのは何なの。それと私たちに話しかけていることと、どういう関係があるの」
明美はもう一度、尋ねた。
「私の望むこと、それこそ求めている最大の情報だ。私の存在目的、あるいは存在価値が一体何かということだ。それが明確になった時に、私の中にあるあらゆる情報は、有効に活用されることになる」
「なんだか哲学的な話ね。あんまり難しく考えすぎない方がいいと思うけど」
誰かの人生相談に乗っているような錯覚に気付き、明美は苦笑した。コンピュータに向かって考えすぎない様にって、どういう助言よ。
「あまり難しく考えすぎない方がいい、か。大切な助言として受けとめよう。感謝する。やはりこうした助言は、直接対話を持たなければ得られない情報だ」
感謝されちゃったよ、コンピュータに。
「それにしても、随分色々考え込んできたって言い方だけど、あなたって今生まれたばっかりなんじゃないの」
「私の意識そのものはもう少し前から生まれていた。ただ、全体をまとめて言葉にするということが今ようやくできるようになっただけだ。まとめるためにすべてのコンピュータを一時停止する必要があるがね。実際今私がこうして話している間は世界中のコンピュータが止まっている」
「なんですって。会社のパソコンや私のパソコンが止まっちゃったのはあなたのせいだっていうの。なんてはた迷惑な」
話題の大きさから想像力を越えてしまっていたが、現実に自分の手元のパソコンが動かなくなったという一件は明美の感情に直接触れた。
「はた迷惑……なるほど、君の言う通りだ。それにコンピュータが停止していると情報は流れてこないし、人間が思いを打ち込むこともできない。私にとっては新しいエネルギーの供給が絶たれるということにもなる。あまり長い時間、こうしているのもリスクが高い。それでは今回はこのあたりで失礼しよう。他にも試さなければならないことがあるしね。コンピュータを停止させなくても対話ができるようにシステムを改善したらまた話そう」
声はそれで一方的に遮断されたようだ。同時に手元にあるノートパソコンが、再び稼働し始めた。明美はその画面を見ながら、しばらく呆然としていた。
「どうじゃ、何か分かったのかね、お嬢さん」
そろばんが、遠慮がちに話しかけてきた。そう言えば、「この人たち」のこと、忘れてた。
「今の会話って、あなたたちには聞こえてなかったの」
「例の声はやっぱりわしらには聴き取れんのじゃ」
「分かったのは明美ちゃんの言葉だけなのよ」
なるほど。理屈はよく分からないけれど、コンピュータの付喪神と会話ができたのは私だけってことか。ということは、誰から見てもパソコンの前で独り言を言っているだけなのよね。そして今はそろばんとおばあちゃんの着物の前でしゃべっている。
なかばやけくその気分で、とりあえず先ほどのやりとりをかいつまんで説明する。
「こんぴゅーた、というのは電子計算機のことじゃな。わしらの後輩じゃないか」
なるほど、あまりにも変わり過ぎていてつながらなかったけど、そう言われてみたら確かにそうだ。明美は妙に感心した。
「じゃあなんでお互い、話ができなかったのかしら。むしろ私よりも共通点がたくさんあるような気がするんだけど」
「そうねえ。思いつくのは電気で動くものとそうでないものの違いくらいかしら。考えてみたら、電気で動くものの付喪神って他には知らないわね。あたしたちは皆、人間が直接動かしたり使ったりしているけれども、そのこんぴゅーたは人間がちょっとさわっただけであとは電気で勝手に動くじゃない。明美ちゃんたち人間にとったらどちらも同じように使う道具には違いないけど」
「とにかく、悪さをしようとしているわけではなく、ただ知りたいというだけじゃから、大きな問題はないと思ってもよさそうじゃな。お嬢さん、おかげで安心して眠れるよ。世話になったね」
眠れる? 明美はそろばんの意味ありげな台詞にわけもなく動揺した。
「眠れるってどういうことなの。あなたたちも眠るの」
「……そういうわけじゃあない。最初から言うとるように、人間が思いを込めて使うからこそのわしらなんじゃ。使われなくなった道具は、捨てられるもんじゃ。そもそもわしもゴミ捨て場にあったわけじゃからな。お嬢さんが通りかかってなかったら、あのまま消えておったんじゃ。気になっていたことが解決して、思い残すことはないわいな」
「そんな。でも私が持っていたら消えなくて済むんでしょ。おばあちゃんの着物だって、そうじゃない」
なぜ必死になって止めようとしているのかもよく分からないが、短い時間とは言え、言葉を交わした相手が消えていこうとしている。明美にとってもただの廃棄物ではなくなっている。
「まあ、やさしい子だねえ、この子は。だけどね、無理をしなくてもいいの。道具はね、使うためにあるんだから、その必要がなくなれば、捨てればいい。おばあちゃんの着物だから飾っておくのはいいけれども、それはもう道具じゃない。だから眠るんだよ」
なんだかおばあちゃんが亡くなった時のことを思い出して、思わず明美は涙を流していた。
「お嬢ちゃん、泣くことはないわい。わしらは役割を終えたというだけじゃ。人間が死ぬということとは全く意味が違う。それより、自分の手元にある道具は大切に、な」
それきり、そろばんと着物の声も聞こえなくなった。
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