小さな首輪

中村ハル

小さな首輪

 どうして捨てられないのだろう。

 左手首の腕時計を見つめて、僕は細く溜息を吐く。


 去年の誕生日に、彼女からもらった腕時計。

 彼女とは、2か月前に、別れた。

 別に、時計に罪はない。それどころか、かなり気に入っているし、捨てるには少々惜しい。

 でも。

 彼女とは、別れ際に少々揉めた。

 うん、いや、かなり、揉めた。


 始めは上手くいっていた。

 かわいいし、笑顔も素敵で、優しくて、少し女の子の友達が少なかったみたいだけど、それでも僕にはもったいないくらいの女性だった。

 それが、腕時計をくれたあたりから、だんだん様子がおかしくなった。

 何がきっかけだったのかは、よくわからない。

 けれど、朗らかだった彼女は、疑り深くなり、嫉妬深くなり、執念深くなった。

 彼女が僕なしではいられなくなり、僕は重みに押しつぶされて、膝を折ったのだ。

 友人知人が騒ぎ立て、彼女を僕から引きずり降ろし、解放してくれた。


「そんなもの、犬の首輪のようだから、さっさと捨ててしまえ」


 友人たちは腕時計を指して、そう言った。

 手首につける、小さな首輪。

 でも、リードはついていないし、ドッグタグもついていない。

 時間を見るたびに、ちらりと彼女の面影が掠めないわけでもないが、目くじらを立てるほどでもない。

 どちらかといえば、友人たちが、この時計に顔をしかめるくらいだ。

 でも、まあ、確かに。事の顛末を考えれば、こんなものを腕に巻いているのは、少々悪趣味なのかもしれない。


 風の噂によれば、彼女はまるで、憑き物が落ちたように穏やかに過ごしているらしい。

 僕はと言えば、すっかり運が傾いて、仕事は激務になるわ、夜は隣人がバカ騒ぎをして眠れないわ、猫の餌やりがばれて町会のおばちゃんに怒られるわで、散々だ。


 そのストレスの所為か、体重が減るし、腕時計のバンドに、かぶれるようになった。

 ふと手首が痒いことに気づいたのは、彼女と別れてすぐだった。

 時計のバンドに沿って、皮膚がぐるりと赤くなる。つけていないときは、蕁麻疹らしきものも出ないから、時計のバンドが原因だろう。

 どれだけベストコンディションでも、時計をつけると3,4時間程度でかゆみが出る。


「潮時かもしれない」


 時計を手放せと、神様が言っているのだ、きっと。

 と呟いたら、友達が大げさなんだよ、と突っ込んだ。

 神様だか何だかは知らないが、あんな女がよこした腕時計を捨てることは賛成だ、と大方の友人が喜びを表明してくれたので、渋々、僕は手放す決心をした。


 でも。

 何故だか。

 捨てられないのだ。どうしてだろう。

 いざとなると、手が鈍る。

 まだもう少し、と自分に言い訳をして、バンドを外すことすらできない。

 何だか、腕時計が別れを惜しんでしがみついているんじゃないかと思うくらいだ。


 今日もゴミ捨て場の前で、左手の腕時計を見つめながら立ち止まっていた。

 こんなところを町会のおばちゃんに見つかったら、ゴミはちゃんとルールを守って捨てなさいと、また怒られる。

 でも、思い立ったときじゃないと、捨てられる気がしない。


 時計の文字盤を覆うガラスを、指先でそっと撫でる。

 手首がかゆい。

 むずむずとする。

 音もなく、足下に、何かがすり寄った気がして、ぎょっと踵を振り返る。

 近所の野良猫だ。


「駄目だよ、トラ。見つかったら怒られちゃうだろ」


 尻尾をぴんと立てたトラ猫は、僕の足に身体を擦りつけてくる。

 トラは僕を、エサをくれる人だと認識しているのだが、近所の奥様方も、僕が猫に餌をやる人だと認識している。見つかると、本当に、マズい。

 でも、かわいいものはかわいいのだ。エサは駄目だが、撫でるくらい、としゃがみ込んでやや太り気味の身体を撫でまわす。僕以外からも、エサくらい、どこかでたっぷりもらっているだろう。


「…かれてますね」


 背後から突然声を掛けられて、わあ、と思わず声が漏れた。

 恥ずかしさと怯えで、おずおずと振り返る。

 パーカーを着た、青年だ。ほっそりとした指先が、僕の手元にすっと伸びる。

 トラ猫が、僕の掌に、頭をぐりぐりと押し付けている。

 好かれてますね、と言ったのか。


「ああ、あの、エサを時々…」

「ふうん、だろうね、随分なついてる。大丈夫なの?」

「んー、多分。見つからなければ」


 随分馴れ馴れしく話しかけてくるが、身体つきや骨格からして、2、3歳は年下だろう。

 妙に綺麗な顔を、長めの髪が隠していてもったいないような、様になっているような。


「気を付けた方がいいよ、赤くなってるから」

「猫アレルギーじゃなくて、時計だと思う」

「分かってるならいいんだけど」


 目ざとく手首のかぶれを指摘した青年は、肩をすくめて踵を返した。

 なんだ、偉そうだな。どこの子だ。

 僕は少々憮然としながら、腹を見せて媚を売る猫を撫でまわした。



 結局、猫と美男子に阻まれて、腕時計を捨て損ねて1週間。

 もう、今さら捨てなくてもいいかと思っていたのだが、かぶれがひどくなったのか、シャワーのお湯が手首にしみる。

 やっぱり捨てよう。

 寝ている間に掻いているのか、少し傷にもなっている。

 でも、今日は大事なプレゼンだ。腕時計がないと、ペース配分がよくわからない。

 それに、見慣れている所為か、手首に時計があるとお守りのようで落ち着くのだ。

 赤くなった手首に時計を巻いた。


 結果は、散々だった。

 プレゼン中に、手首が痒いわ、痛いわで、全く集中できなかった。

 資料のリテイクをくらい、残業して仕上げたプランをまた突き返され、心身ともにぼろ雑巾の気分だ。


「ちっきしょ」


 ゴミ捨て場の前を通りかかったときに、苛立ちが頂点に達して、腕時計を捨ててやろうとバンドに手を掛ける。

 文字盤のガラスが、街灯の明かりを弾いて、きらりと煌めく。もぞりと手首が疼いた。

 途端に、僕は、情けなくなって溜息を吐いた。

 もっと、僕がちゃんとしていたら、彼女はあんな風に、情緒不安定になったりしなかったのかもしれない。もっと話を聞いてあげていたら、もっと誠実に向き合っていたら。

 そうすれば、今もまだ、彼女は隣で笑っていただろうか。

 僕はスマホを取り出して、躊躇った。

 アドレスは、消した。消したけれど、覚えている。彼女の電話番号は、覚えやすかったから。


「つかれてますね」

「う、うわっ」

「こんばんは」


 街灯の光が途切れた薄闇の中で、この間の美青年が笑っている。

 手にはコンビニの袋をぶら下げているから、近所に住んでいるのだろう。


「えと」

「つかれてる、でしょ」

「ああ、今日は、いろいろあって。散々だったんだ。そりゃ疲れるよ」

「心身ともに弱ってるとね、危ないから」


 はい、とビニール袋から栄養補助食品を取り出して手渡された。


「エナジードリンクとかじゃないの、こういう時」

「死神を遠ざけるには腹を満たせ、って言うでしょ。飲み物じゃあ腹の足しにならない」

「大げさだな、でも、ありがとな」


 確かに、居ても立っても居られないほど、腹が空いていたことに今気づく。

 口中によだれが沸いて出て、意地汚いと思いつつも箱を開けてぼそぼそとした塊に齧りつく。


「空腹すぎて、まともな判断できないとこだった」

「ん?」

「別れた彼女に勢いで電話するとか、カッコ悪いよな」

「駄目でしょ、それしちゃ」

「だよなあ」


 一つ目を平らげて、口の中をもごもごさせていると、すっと封を切ってミネラルウォーターが差し出された。なんだ、執事か、準備がいいな。

 つい、嬉しくなって警戒心も霧散する。


「なんか、捨てられないのは、腕時計じゃなくて彼女への思いかもしれないなあ…なんて…うわ、ちょっと、僕、今…」


 恥ずかしくて死ねそうな気がする。

 青年は、思いっきり眉をしかめて、厭そうな顔で僕を見ている。


「彼女からもらったの、それ?」

「そう、別れちゃったけど、散々揉めて」

「なんでそんなのまだ着けてんの」

「や、なんか、捨てられなくて」


 耳までかっと熱くなっていて、誤魔化すためについ、口が軽くなる。


「犬の首輪みたいだから、捨てろって散々言われたんだけど」

「リードが、ついてる」

「は?」

「みたいじゃなくて、首輪だよ、それ。遠くに行けないように。縛っておけるように」

「君も意外とポエミーだね」


 ははっ、と笑う。向こうも恥ずかしいことを言ってくれれば、僕の気も楽になる。


「笑い事じゃ、ない」


 綺麗な顔から、表情が抜け落ちる。

 黒く影を纏って、凶悪な眼差しにも見える。

 闇夜に啼く、鴉のようだ。


 手首が、ひどく、痛痒い。

 図らずも、手首を押さえた姿が、腕時計を守り隠しているようだと、ぼんやり思う。

 捨てられない。だって、彼女は、今はもう前みたいに笑って日々を過ごしている。

 このまま着けていたら、また、彼女に、会えるかもしれない。


「僕にとっては、お守りみたいなものだから」


 そっと指でなぞって、手首に沿った形を確かめる。


「ドッグタグでしょ、そうでなきゃ、ラゲージタグだ。私の持ち物です、って名前を書いて」

「それじゃあ、まるで、首輪じゃないか」

「そうだよ、首輪だ。リードの先は、別れた彼女とやらが握ってる」


 青年は、闇から一歩、光の中に歩み出る。

 闇に染まった真っ黒な目が、きらりと煌めいた。


「でも、その首輪は、アンタの喉を締め上げる。だって、随分、小さいからね」


 にたりと笑った唇に怯えて、僕はじりっと後退った。

 踵が、ゴミ捨て場の網を踏む。


「その時計をつけてから、やけに疲れはしなかった?些細でも、少しずつ堪える小さな不幸が、重ならなかったか?隣人が騒いで眠れない日が増えて、やつれてきたりは、しないか?」

「大げさだな、そんなこと、生きていたらいくらだって、あるじゃないか」


 しどろもどろに、僕は答える。

 手首が、痒くて、ぼりぼりと、掻きむしる。


「そいつはやけに、アンタに懐いてる。よっぽどいい餌をあげてるんだろ」

「え?」


 見回しても、猫はいない。

 長い髪の隙間から僕を見る目は、真っ暗で、光さえも飲み下す。


「腕時計だよ。アンタから、やけに甘ったるい未練の匂いがする。それを喰らってるんだろ」


 少し鼻をひくつかせて、青年は時計を凝視する。


「放っておけば、少しずつ腕の静脈から入り込んで、アンタを乗っ取る。甘い毒を注ぐみたいに、綺麗な思い出で、悪意を隠して。そうしていつか、リードを引かれて、アンタと彼女は元通り。いや、元通りじゃないか、犬と主人だ」

「え?」

「ひどく、痒いだろ。どうしてだか、考えたことはあるか?」


 かぶれてるんじゃ、ないのか。

 僕は熱を持って赤く疼く手首を、ぎゅっと握りしめる。


「ほら、憑かれてるよ」


 ぎょっとして、僕は左手首を見た。

 腕時計のバンドの下が、むず痒い。


 街灯のぼんやりとした白い明かりに照らされて、左手首にびっしりと、腕時計から伸びた小さな小さな無数の手がしがみついていた。


「うわあ」


 小さな白い指はかりかりと、爪を立てて、手首の膚を掻いている。

 膚に次々と、赤く細い傷がつく。その隙間に、指先が、もぞりと。


「…ひ」


 声も出せずに腕時計をむしり取ろうとしたが、肌に食い込み、剥がれない。

 僕の指が手首を滑り、腕にいくつも爪痕が走る。


「た、助けて…」


 声が震えて、音になったか分からない。

 それでも、黒い目が間近に詰め寄り、僕は息が止まる。

 怖いほどに整った瞼が、僕の目の奥を覗き込む。


「捨てられる、ちゃんと?」


 ただただ、無言で激しく首を縦に振る。


「またこいつらが寄ってくるとしたら、アンタがばら撒く、甘い毒の所為だ。背負えないなら、ちゃんと逃げ出せ」

「わかった、わかったから」

「そもそも無防備すぎなんだ。だから付け込まれる。アンタは諾々と、差し出された濁流さえも吞み下す。何の疑いもなく」


 はっとして、ミネラルウォーターのボトルを見下ろす。


「何が隠れているかも、知らないくせに」


 にたりと、美しく、笑う。


「な、何を入れたんだ」

「大丈夫だよ、ただの呼び水」

「助かるのか?お願いだから、早くこれを取ってくれ」

「今まで平気で着けてたくせに、まったく」


 ぶつぶつとぼやいて、青年は、僕の手首を掴んだ。


「あんまり得意じゃないんだよね、失敗したら、ごめんね?」

「や、ちょ、頼むよ」

「でもさ、さっきの水に、ちゃんと入れたから大丈夫だと思うんだよね…」


 やっぱり何か入ってるじゃないかと目を白黒させる僕を尻目に、たぶん、できるんだよな、と眉をしかめて青年が手に力を籠める。

 腕時計の下で、無数の指が、僕の膚に爪を立ててしがみつく。決して離れるかといわんばかりに。

 肩から左腕の先に、何かがずるりと皮膚の下を這った。痺れるような熱の流れが、青年が掴んだ手首に向かって走る。

 手首が痛むのは、痺れる程の熱のせいか、指が皮膚を破るせいか、もう分からない。


 ばちん。


 手首に電流が走ったような衝撃で、僕の腕は跳ねあがり、感覚がなくなった。

 何かが焦げた匂いが鼻先を漂い、僕の意識が遠く近く、揺らめく。


「ちょっと待って、俺、アンタを抱きとめるのヤなんだけど」


 ずるり、と何かが手首から抜ける感覚が背筋を震わせ、僕は地面に膝を突いた。

 左腕が痙攣する。

 ばらばらと、白い何かが崩れ落ちて、地面で砂のように散り散りに砕けて消える。

 掌に、焼け焦げて千切れた時計が、ぼとりと転がった。


「もらっていこうか、それ?」

「…いい。ちゃんと、自分で捨てられる」


 しびれたままの左腕ごと、右手で時計を掻き抱いて、僕は少し、泣いた。

 青年の足が困ったように僕の前で立ち止まり、近づき、頭を撫でられたような気がして、僕はさらに背中を丸めて声を殺す。

 胸の底に沈んでいた毒を吐き出すみたいに涙が溢れ、顔を上げた時にはもう、誰もいなかった。


 焼け焦げた時計は飴のように溶けて原形を留めず、僕は彼女の思い出ごと、翌日の出勤時に、それを捨てた。

 青く晴れ渡った、光の底のような朝だった。

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