5

 複数の人間が息を呑む音が聞こえる。ゴラン・ゴゾールは抗議しようと口を開きかけたが、すんでのところで留まった。こういう時に口をきいたら全てが台無しになるとわかっている。カールをとっちめるのは小屋に帰ってからでいい。今は堪えてくれ、という碧の視線を真正面から受け止めて、ゴラン・ゴゾールは頷いた。

「今日は覚悟しておけ」

「……はい」

 これくらいは言っても構わないだろうと思って口にすれば、周囲の者は、泣き出しそうな声で返事をしたカールに対して、哀れみの視線を向けた。こいつは詐欺師だぞとゴラン・ゴゾールは言ってやりたくなったが、やめた。これは演技なのだ。

 ツコという男が口を開く。その隣の娘の、澄んだ緑の目が、カールを捉えていた。だが、そこには憐憫など微塵も光っていない。それどころか、何か面白いものを見つけたとでも言いたげに、口の端が僅かに上がった。

「たまには褒美をやってはいかがですかな」

「……何故、そのようにお考えで?」

「人は結局、希望の為に頑張りますからなあ。小さな楽しみを上手く使うのです」

 監督官と商人はそんなことを話していた。そこに立っている娘の意志の強そうな双眸がこちらを見たような気がしたが、ゴラン・ゴゾールは、カールに促されるまま、そこから立ち去った。何をどうやったのだろう、ルパが天幕の向こう側でにこにこしていたのだ。

 もうここに用はない。


 その夜である。

「おい、そこのでっかいの、起きろ。監督官どのが、模範囚に褒美を取らせると仰せだ。ついてこい」

中年の男やカール、ルパと共に寝入っていたゴラン・ゴゾールは、居丈高な声に起こされ、飛び起きた。闇夜の中で、警邏の者が一人、小屋の入り口に掛けられている布を掻き分け、こちらをじっとりと睨んでいる。

「どういう風の吹き回しだ?」

「忌々しい。罪人の癖に、褒美を所望するなど。金になりそうなものは何でも使う商人のあざとさもよろしくない。ただでさえ繊細な監督官どのの心痛を増やすなど……胃薬をあの商人から買うのも癪だが今は致し方ない、腹が立つ」

 警邏の男はまだ若いようだ。声に張りがある。監督官を崇拝しているのだろうか、と、ゴラン・ゴゾールは思った……そして、あの同期に苦労を掛けてしまっていたということに気付けた今、本当は大して欲しくもない褒美を受け取るのが一番の罪のように思えた。

「そこまで言うのなら別に必要ない、おれは帰って寝る」

「……お前は何なんだ。昼間は褒美が欲しいと言い、夜はいらないなどという。それよりも、監督官どののご厚意を無駄にする気か。黙って有難く受け取るのが礼儀だ。これだから犯罪者は」

 言動の不一致に突っ込んでくる上に、監督官第一らしい。面倒な輩である。ゴラン・ゴゾールが口を開くとろくなことが起こらない。黙ってついていくしかなかった。

 やがて辿り着いたのは、小さな天幕だった。

「入れ、この中で待っていろ、じきに褒美が来る」

 天幕の入り口の布を掻き分けて中へ入る。ランプの灯りは穏やかで、己が今住み着いている小屋のように、寝床は粗雑な毛布だけというわけではなく、毛織物の敷物の上にはそれなりに清潔な寝台が整えてあった。掃除用なのだろうか、入り口付近には水の入った桶と、雑な布が大量に重ねて置いてある。いつでも掃除ができるのはいいことだ。有難かった。

 案内をしてくれた警邏の者に礼を言おうとしたが、振り返っている間に踵を返して去って行ってしまったので、ゴラン・ゴゾールはちょっとがっかりした。だが、己の役どころを考えると、言った方がおかしいかもしれない。口を開くのはやめておくことにした。

 敷物を汚すのは宜しくない。ゴラン・ゴゾールは大量に積んであった雑布を一枚取り、それを桶の中の水に浸して足を拭う。土による汚れはあっさりと取れた。ついでに服を捲って、腕や腿、首筋、背や腹、下腹部も、手の届く範囲で拭った。そういえば、ノージャの街にいた時も身体を水浸しの布で拭った程度だ。近衛騎士をしていた頃は毎日湯浴みをしていたものである。

 掃除をした後、桶の縁に布を掛け、ふう、と息をついて、寝台の上に座り、大きな浴槽に浸かりたいと思いながら、その上に腕を広げて倒れた時だ。

「代わりなさい、あなた」

 俄かに外が騒がしくなった。足音が聞こえる。戸惑う女の声と、意志の強そうな女の声が何事かをこそこそ話し合っている。ゴラン・ゴゾールは跳ね起きた。争いならば仲裁せねばならないと思って立ち上がろうとした時だ。

「こんばんは、いい夜ね」

 天幕の合わせ目から、女が現れた。それと同時に、ひとりぶんの足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

「……あなたは」

 昼間は結っていたからわからなかったが、艶のある黒い髪は長く、ゆったりとうねりながら腰まで伸びている。肉付きの良い肢体、健康的に焼けた肌。猫のような目は澄んだ緑。ゴラン・ゴゾールは驚いた。昼間、監督官がいる天幕の中から出てきた者だったからだ。確か、ツコという商人の隣にいた……あの監督官は娘だと言っていなかっただろうか?

「褒美は私」

 彼女は演技すら知らぬらしい。いっそ清々しいくらいに、にこりともせず、言った。ゴラン・ゴゾールは思わず口を開いた。

「……いや、おかしいだろう」

「どうして? 活きがいいわよ?」

 そんなに賢くないという自覚があるゴラン・ゴゾールですらわかる。本当は誰か他の者が来る手筈だったのだろう。それに、いささか失礼な話ではあったが、ツコの娘はゴラン・ゴゾールの好みからは大きく逸脱していた……行儀見習いの一貫ということで王宮において使用人として働いていた貴族の子女は、騎士や官僚に対して積極的に己の魅力を振り撒くような者が殆どであったから、それに疲れていた身としては、華奢で控えめな者の方が好ましいと感じるのだ。目の前にいる彼女は、積極的な宮仕えの女性たちよりも、更に自我が強いように思えた。つまり、ゴラン・ゴゾールの好みからは遥か遠くに位置するような性格なのではないかと推察される。

 だが、現実はゴラン・ゴゾールにそれ以上考える暇を与えてくれないのが常である。

「さあ、好きにしなさい。それとも、好きにされるのがいいのかしら?」

 言うが早いか、ツコの娘は、寝台に腰掛けているゴラン・ゴゾールにつかつかと歩み寄り、脚の間に身を滑り込ませてきた。好みではないと思えど、罪状に反して、女性と接触することなど人生において殆どなかった身である。腕は自然と動いて、くびれた腰を抱いた。だが、己の顔を上向かせようとした繊細な指が頬におずおずと触れてきた時に、ゴラン・ゴゾールは、気付いてしまった。

「おい、待て」

 腰から手を離して、小刻みに振動するその手を捕まえる。彼女は息を呑んだ。

「ほら、我慢できないんじゃないの? ひと思いにやりなさいよ、早く」

 強がる声が硬い。ゴラン・ゴゾールは確信して、その身体を引き離しながら、言った。

「……震えている。望まぬことをする必要はない」

「何よ、姦通未遂とかで捕まったんでしょ? どうかしてるわ」

 目の前の女は明らかに混乱していた。

 ルパの助けのために下手な演技をしていたなどとは口が裂けても言えない。しかし、ゴラン・ゴゾールは上手い嘘を咄嗟に考えるのが壊滅的に下手である。カールにしか欲情しない、などという言い訳も浮かんだが、即座に潰した。己の興味はあくまでも女性である。

 そういうわけで、ゴラン・ゴゾールは首を振りながら、うっかり――そう、本当にこれはうっかりだ――こんなことを言うしかなかった。

「……おれにも好みというものがある」

 ぱん、と乾いた音、左頬に感じるのは衝撃。

「……何よ。何よ、何よ」

女の顔がみるみるうちに紅潮していく。ゴラン・ゴゾールの頬は痛みで紅潮していく。

「この私が、このリタ・ツコが、どれだけ勇気を出してここまで来たか、どれだけ――」

「落ち着け、悪かった――」

 リタという名なのか、などと冷静に情報を得つつ、ゴラン・ゴゾールは彼女の腕に触れた。涙目になっていたから、慰めようと思ったのだ。だが、思ったより強い力で払われて、更に肩や胸を殴られた。

「――痛い」

「何よ、好みじゃないっていうわけ? 私じゃたたないっていうわけ?」

「おい、年頃の娘さんがそんなはしたないことを言うんじゃない! おれは淑やかで静かな人が好みだがそこまでは言っていない――」

「何よ何よ、あんたがそれを言うの? 淑やかで静かって、違うじゃない! 私とは全然違うじゃない!」

 座ったままで、己を殴りつけてくる腕を両方とも捕まえた。彼女が息を呑んで、怯えたように体が竦み上がるのがわかる。ゴラン・ゴゾールは、騎士が守るべき存在に対して乱暴をはたらくなど、絶対にしてはいけないと言われてきたし、したいと思ったこともないし、そういうものは優しく扱いたいのだ。花だとか、虫だとか、領民の家に生まれた小さな赤ん坊だとか、陽だまりの中で昼寝をしている老夫婦だとか……目の前の、凛とした佇まいの純潔の乙女だとか。

 視線を合わせれば、澄んだ緑の双眸が、真っ直ぐに睨み返してくる。砂漠の太陽の光のように強いなあ、などと、思った。

「……何よ、やっぱやるの? それなら最初からそう言いなさいよ」

 それが強がりだというのは、ゴラン・ゴゾールにも、よくわかった。口元は震えているし、触れている腕の筋肉は後ろへ行こうとしているし、腰は引けている。

「おれが怖いか」

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