5
ゴラン・ゴゾールは、それを追った。カールは自分が飛んで行ってしまうのではないかということを懸念していたが、ちゃんと歩いていったらしい。起きた時に何かの気配を感じたのだから、そんなに遠くに行っているわけではないだろう。
「カール! 返事をしろ、カール!」
声を張り上げるのが危ないということはわかっていた。だが、長い身体で天幕をぐるりと包囲している砂長竜がいるのだから、砂鮫も潜り鰐も寄ってこない筈だ。問題は、カールの歩みが速くて、砂長竜の輪をあっという間に越えてしまっていた場合である。
何か大きなものが蠢く音がした。ラモ翁の連れている砂長竜だろう、と、無理矢理思った。他の生き物である可能性など考えたくもない。ゴラン・ゴゾールは足跡を追った。行く先から、何かがぶつかり合って、砂の上に重たいものが倒れる音がした。キシキシと耳障りな音は、知っている、砂長竜が歯を擦り合わせて発するものだ。
「誰かいるか!」
キシキシといっていたのが、シシシシ、シシシシシ、と、焦ったような音になった。速い。照らした砂が乱れている。
「――行こう、行こう」
微かに、声が聞こえた。カールのものだ。
「カール!」
ゴラン・ゴゾールは、呼んだ。返事の代わりに、すぐ前で、違う言葉が聞こえた。
「行こう、行こう、約束の地へ――」
「おい、カール!」
灯りで照らした中に、腕が見えた。ゴラン・ゴゾールは、咄嗟に灯りを砂の上に置いて、それを掴んだ。つるりとすべらかで、しかし筋肉を纏った若い男の腕。カールのものだ。ゴラン・ゴゾールはそれを力任せに引き寄せ、腰があるであろうところに見当をつけて、瞬時に、さっと腕を回す。当たりだった。だが、青年が前に進もうとする力は存外強かった。
「――行こう、約束の地へ」
「どうしたんだ、カール! 約束の地って、どこだ!」
大声で叫びながら、ゴラン・ゴゾールは今しがた捕まえた人間を揺すり、その顔を覗き込んだ。ちゃんとカールだった。それはよかった。だが、その目は何も映していないように見えた。
「行こう、行こう」
「おい、カール、どうかしてるぞ、あなた」
ゴラン・ゴゾールは、その頬を軽く叩いてみた。全く意味をなさなかった。
「行こう、約束の地へ」
と、大きな灯りが視界の端に出現した。見れば、ラモ翁と双子が、それぞれの手にランプを持って、砂の上をこちらに向かって駆けてくる。助かった、と、ゴラン・ゴゾールは思った。人手が増えればカールを引き留めておける。
「何事じゃ!」
「ラモ翁、カールが変だ!」
ゴラン・ゴゾールは、行こう、行こうと呟き続けているカールを、唸りながら無理矢理引きずった。正気を失っていて加減という概念が吹っ飛び、箍が外れてしまったのだろうか、青年の力は非常に強く、方向転換させるだけでも相当に苦労した。
レミとルパが右腕と左腕をそれぞれ捕まえ、ゴラン・ゴゾールは胴と脚を拘束する。それでも、カールは歩を進めようとした。ラモ翁は、ううむ、と呻き声をあげた。
「……もうこれはレシテナルダに括りつけるしかあるまいて」
「縄があるのか?」
「あるとも、すぐ持ってくるから待っておれ」
カールが三歩ぶん足を動かそうとしている間に、ラモ翁は凄まじい速度で天幕から縄を持ってきた。ゴラン・ゴゾールは、青年の胴越しにそれを受け取り、軍学校へ行っていた時に教えられた解けない縄の結び方を何とか思い出して、手足を身体の後ろで拘束し、できるだけ痛くないように縛り上げた。王国の収穫祭で振舞われる豚の丸焼きの格好とは逆向きである。だが、焼くようなことはしない。砂漠を共に歩いた仲間である。とうに情は湧いていた。
「……飛んでいくチーズを食ったからか?」
ゴラン・ゴゾールは、カールがチーズの欠片を無理矢理飲み下したのを思い出していた。腹の中で消化されて栄養分になってしまっているのであれば、それを完全に取り除くのは難しいのではないか、と考えられる。つまり、食ったチーズの栄養分を抜かないと、いつまでたっても、この青年は虚ろな目をしてどこかへ去ろうとするだろう。
「どうしよう、どうすればいい、ラモ翁」
「……次の街で交換するつもりじゃった薬があるのじゃが」
「何でもいい、あるか? おれに出来ることなら、何でもやる!」
ラモ翁は少しだけ難しい顔をした。
「……死にはせんじゃろうが、おぬしの時よりも手厚い世話がいるじゃろうな」
「それでもいい、慣れている!」
ゴラン・ゴゾールは必死で言い募った。
軍学校を卒業したゴラン・ゴゾールは、傷病人の手当ても学んでいたし、近衛騎士になる前は国境線を巡る戦いに動員され、新兵として救護班に在籍していたこともあった身だ。
ジョルマ・フォーツの騎士は殆ど皆が救護班から始まり、前線での実戦部隊を経て、極めて優秀な者は近衛として配属される。どこにいても、怪我人の世話はついて回った。ゴラン・ゴゾールは、救護にいた時も前線にいた時も、血を止めたり膿んだ傷を診たり、横たわる仲間の下の世話をすることは日常茶飯事であって、慣れていた。胴体と四肢が永遠に再会することのない者だっていたから、そういった傷痍軍人の介助をするのも日常であり、当たり前だった。足がちぎれかけた同僚を癒し、戦線復帰させたこともあった。ともすれば己がそうなっていたかもしれないのだ。己が倒れていた時、おそらくこういうことに慣れていないであろうカールがそれをしてくれていたのだから、やって当然であるという思いも存在していた。。
何より、ゴラン・ゴゾールは、弱っている者を見捨てることを是としない騎士であった。
「そうか」
ラモ翁はひとつ頷いて、カールが三度呼吸をする間に、また天幕に戻って、何かを引っ掴んできた。水の入った持ち手つきの壺と、手のひらにすっぽり収まるどころか、小指の先ほどしかない小瓶である。
「一回につき、大量の水と一緒に、二、三滴だけを飲ませるのじゃ」
「何の薬だ?」
「……身体を内側から綺麗にする効果があるものじゃ」
「つまり下剤か」
「そうともいう」
ゴラン・ゴゾールは、己にしては理解が速かったと思った。もぞもぞと動いているカールの頭を膝でがっちり固定し、顎を掴み、強制的にその上品な口を大きく開かせる。凄まじい絵面だ。ラモ翁は小瓶の蓋を開けてくれていた。それを受け取って、仰向けにさせられた青年の口の真上で、小瓶をひっくり返した。
とろりとした液体が三滴、カールの口の中に落ちていく。ゴラン・ゴゾールはそこでひっくり返すのをやめた。小瓶の中にはまだ数滴が残った。
「半分くらいか。これくらい残ったところで変わりはないじゃろう、おぬしにやる」
ラモ翁の言葉に安心して頷き、急いで栓をした小瓶を背嚢の中に投げ込む。ゴラン・ゴゾールは差し出された水入りの壺を受け取り、薬を投入したのと同じ場所に少しずつ流し込んでいった。行こう、と言いかけたカールは、呼吸をする方の管に液体の侵入を許したらしく、盛大に噎せて、水を飛ばしてきた。薬が吐き戻されてはいけない、ゴラン・ゴゾールは、慌ててその口を塞いだ。
「飲め、カール」
ごくり、手の下から伝わってくるのは、引っ掛かりのある嚥下の音。苦しいだろうに、と思うと心が痛んだが、ゴラン・ゴゾールは、己の心を岩にして頑張った。口を解放して、水を飲ませて、口を塞ぐ、それを繰り返した。
「カール、鼻で息をしろ……このままどこかへ歩いていったら砂鮫か潜り鰐の餌食だぞ」
「――行こう、行かなければ」
「カストーノ殿下を助けるんだろう」
「約束の地へ――」
「おれに守られて、王都へ行くんだろう、カール」
カールの身体が、戒めを解こうとして震えているのを、ただ押さえつけることしかできなかった。けれど、ゴラン・ゴゾールの口は、どれだけ下手でも、自由だった。青年の身体を縄で自分に括りつけ、意識が朦朧としてきていても、ゴラン・ゴゾールは声を掛け続けた。東の空が白み始めても、ずっとそうしていた。
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