6

 遠回りになった。

 翌朝、ラモ翁は、水源を有する岩場に取って返し、そこに逗留すると宣言してくれた。レミとルパは踊らなかった。その代わりに、双子はびくともしない丈夫な岩の上に角材を置いて、そこに天幕の布を掛け、強烈な砂漠の日光を遮った。カールの身体は、その岩に縛り付けられた。

 ゴラン・ゴゾールは、カールの世話を、甲斐甲斐しく焼いた。

 出会ってたった数日しか経っていない相手に対してどうしてここまでするのか己でも不思議であったが、きっとこの青年が第二王子に似ているから、つい重ねてしまうのだろう。あの第二王子は己などよりもしっかりした人物であったが、それでも、だ。それに、カールという青年に対しては、縄を解いてやったし、砂鮫の脅威から逃そうとしたし、砂長竜からも守ろうとしたのだから、これから彼が目的を達成するまで守り通さねばならない、と、強く思うのだ。

 ゴラン・ゴゾールは、やがて嗄らした声で呻きながら腹痛に苦しみだしたカールの身体を清め、酷い下痢のせいで抜けていく水分を摂らせることに専念した。汚れた水は別の場所へ持っていって、砂の上に流した。そこに寄ってきた糞丸虫は、糞尿の臭いはするのに転がせる物体が殆どないことに戸惑っているようで、それが少し滑稽だった。

「こっちのは、砂長竜のでかいやつじゃないぞ。あっちへ行くといい」

 話しかけたところで分かりはしないだろうが、ゴラン・ゴゾールは、小さな虫の動きに妙な親しみと安らぎを覚えるのだ。彼らもこの過酷な環境で一生懸命生きている、同じ生き物であることに変わりはない。

 チーズを食べない方がいいということがわかったので、ゴラン・ゴゾールは、その日はヌーンだけを貰って、カールの傍で、背嚢の中に残っていた干し肉を一つだけ食べた。干し肉は非常に硬く、強烈な味がした。これで、何かしらの物資が入っている背嚢はあと二つになった。

 カールの譫言は、彼が大量に汗をかき、下から垂れ流すもののせいで大きなぼろ布四枚分の犠牲が払われた頃に、変化の兆しを見せた。

「……約束の地へ行かないといけないんです」

 ゴラン・ゴゾールが確かめてみると、何も見ていなかった碧色の目に、理性の光が宿っている。

「何故か、わかるか?」

「わかりません……だけど、行かないといけないんです、必ず、約束のあの場所へ」

「そこにあなたが行ったら、何が起こる予定だ?」

「……全てが正しく元に戻ります。お願い、縄を解いてください、行かせて」

 可能な限り穏やかに訊けば、カールはそんなことを言った。ゴラン・ゴゾールは、まだ縄を解かなかった。その直後に身を捩った彼がまた腹痛に呻いて、下の世話を必要としたからだった。その状態で行かせてしまえば、衛生的にまずいし、変な生き物を呼び寄せてしまうかもしれない――糞丸虫はいいが、砂漠には砂鮫や潜り鰐が存在している。

「お願い、何でもいいです、行かせて」

「綺麗にしておかないと、あなたを食べようとする生き物が集まってくるだろう」

「手首が痛いです、解いて、行かせて」

「駄目だ」

 ゴラン・ゴゾールは、拒否した。正気を取り戻そうとしている時の方が罪悪感を覚えた。

 日が暮れかけた頃、カールはさめざめと涙を流し始め、こんなことを言った。

「縛られて、下だけ脱がされて、こんな風にお世話をされるなんて……今まで生きてきた中で、一番酷い。砂の上に捨てられた時よりも、酷いです。恥ずかしい。でも、そうなるようなことをした私が一番惨めです」

 それを聞いたゴラン・ゴゾールは、少し考えてから、青年の戒めを解き、擦れて血の滲んだ手首と足首に、ラモ翁から貰った軟膏を塗り込んでやった。カールは尻だけを晒し、大人しく座ったままで、どこかへ行こうとはしなかった。

 どうやら、彼を支配しようとしていた変なものは、殆ど抜けたらしい。もう大丈夫だろう。ゴラン・ゴゾールは、項垂れたその頭を撫でてやった。

「大丈夫だ、おれしか見ていない。安心して欲しい」

「……ごめんなさい」

「おれはあなたを守ると言った。それに、謝罪するなら、おれの方だ……痛かっただろう、恥ずかしい思いもさせた。あなたの尊厳を傷つけた。申し訳なかった」

 俯いた時に目に入ってくるのは、縄が擦れて赤く腫れてしまった手首。それを撫でると、カールは顔を上げて、目を合わせてくる。それから、首を振った。

「……ああでもしないと、私は砂漠へ飛び出していたでしょう。あなたは正しかった」

 長い睫毛に乗って、夕暮れの赤い陽光を受けて輝いていた水滴が、ゴラン・ゴゾールの胸元に飛んできて、淡く生えている毛を濡らした。庇護欲だけでなく、己の内側に眠っている何か得体の知れないものを甘く刺激してくる目の前の顔面から意識を逸らしたくて、何とはなしに顎を撫でれば、たわみながら指を刺してくる髭の感触に違和感を覚える。このまま伸ばせば、己の厳しい顔立ちもあいまって、いよいよ犯罪者らしい顔つきになってしまうだろう……それは、さながら、盗賊の如く。カールの鼻の下や顎はまだつるりとして見えるのに、一体自分はこの青年と何が違うのだろう、と、ゴラン・ゴゾールは思った。

「取り敢えず、羊のチーズを食べるのはよそう」

 ゴラン・ゴゾールは提案した。カールも神妙な表情をして頷いた。

「……そうですね。もう二度と、あんな無茶はしません」

「……ラモ翁も、レミとルパも、あれを食べて何ともないのは不思議だが」

「ゴランどの、ラモ翁のお話、覚えていませんか? 巫と番った砂長竜と共に生きる民の血が、アルタンの民には受け継がれている、と……つまり、巫の血も受け継がれている。私たちとは違います」

 カールの言葉によって、ゴラン・ゴゾールの記憶の中で、ラモ翁の声が話を始めた――巫は、踊ると大地を豊かにするから、と、砂漠の外から来た者に目を付けられて、攫われることが多くてのう。そこで、一番大きな街を維持する巫は考えた。レシテナルダと共に生きる異民に婚姻を持ち掛け、彼らを取り込むことにしたのじゃ。その血は砂漠じゅうのアルタンに受け継がれておる――

 気付いたら、ゴラン・ゴゾールは、呟いていた。

「……色は違っても、同じ形なのにな」


 燭台の谷は不思議な場所だ、と、ゴラン・ゴゾールは思う。

 砂の大地の上に突き立っているのは、円柱の上に円形の板が乗っている岩。或いは漏斗のような形の岩。燭台のような、茶を飲む時の丸い机のような、不思議な形だ。その岩肌が赤いのは、錆びた鉄が混じっているからだという。

 そして、それを全て視界に入れて臨むことのできる場所に、日干し煉瓦で作られた四角い建造物たちは、蜃気楼のように存在していた。がさがさとした幹が長く伸び、沢山の針を通した糸のような葉を幾つもくっつけている変わった形の木が、谷から吹き付けてくる風にそよいでいる……何本も、何本も。

「ノージャの街じゃ」

 今いる場所は、燭台の谷の手前である。ぽかんと口を開けたまま建造物が立ち並ぶさまを見ていたゴラン・ゴゾールに向かって、ラモ翁は言った。

「ノージャ……レミとルパの氏族の名ですね」

「この子らの母親の氏族名でもあるのう」

 カールはラモ翁と話を始めた。

 街は巫の氏族の名を冠していること、巫に輿入れした者の氏族たち――つまり街で暮らしている全員である――皆が集会に参加してその街の掟を作り、巫が最終決定権を持っていること、最も力のある子が街を継ぐこと、力を持つ別の子らは他の街へ手助けをしに行ったり、適当な岩盤を見つけてそこに緑地を生み出したりすること。巫は輿入れした者たちとは別に、好きな者との間に子をもうけることも可能であるということ。

 ゴラン・ゴゾールは、それを聞き流しながら、レミとルパが街へ向かって砂の上を一目散に駆けていくのをぼんやりと見つめながら、違和感を覚えていた。

 燭台の谷のこんなに近くに、街があったなんて。

 ゴラン・ゴゾールは、思い出していた。己は盗賊の討伐の為にこの谷へ派遣されたこともあって、当然砂漠を拝んだこともあったのに、ノージャの街の影も形も見たことがなかった。同僚も、城の者も、誰一人として何も言っていなかった。調査の為に砂漠に足を踏み入れたことのある者は皆、恐怖に身を震わせながら、口を揃えて言っていた……砂漠には、長い身体の巨大な怪物ばかりが存在しているから近付いてはいけない、と。恐らくそれは砂長竜のことだ、と、今ならわかるのだが。

「どうして、知らなかったんだ……?」

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