4
「……いや、その」
「言葉も出てこないくらい、なのですか?」
「違うんだ」
見れば、青年はチーズを口元へ捧げたまま、期待に満ちた目でこちらをじっと凝視している。ゴラン・ゴゾールは、何かの間違いだろうと思って、もうひと欠片、チーズをちぎった。
「手が滑って落としてしまった、多分……」
「多分、って……怪我がまだお辛いのですか? 落としたのは、どこにです?」
「いや、傷は問題ない。探すにしても暗闇だ、歩かない方がいいだろう」
「そんなに遠くに? 投げたのではなく?」
「投げてはいないぞ」
ゴラン・ゴゾールは、今度こそと思ってチーズを口に入れた。入れる瞬間に、舌がほんの僅かに、チーズに触れた。途端に、チーズの欠片はぶるっと震えて、暗闇に向かって消えていった。
カールは、いかんともし難い奇妙な表情になった。
「嘘でしょう、あなた……やっぱり怪我のせいで」
「いや、違う。手は動く。ヌーンは食えた。ほら見ろ」
ゴラン・ゴゾールはヌーンを引きちぎって食べた。こっちは飛んでいかなかった。カールは真顔になった。
「……何で?」
「おれが訊きたい」
ゴラン・ゴゾールは呆然としていた。ラモ翁が、いぶかしげにこちらを見ている。その前で、青年は、自分でちぎったチーズを口に入れた。ゴラン・ゴゾールは、それを眺めながら、どうして自分だけが美味そうなチーズを食べられないのかと悔しく思った。
その時だ。
カールが、目を見開いて、激しく咳き込んだ。
そのはずみで、口からチーズの欠片が飛び出した。砂の上に落ちたかと思われた白い塊は、どういうわけか勢いよく弾んで、そのまま夜の腹へ真っ直ぐ吸い込まれていった。
ゴラン・ゴゾールは青年に水の入った皮袋を差し出し、咳の止まらぬその背を、彼が落ち着くまで何度もさすってやった。
「――あなたが言うわけがわかりました。このチーズ、口に入れた途端、暴れます」
「……何か不都合があったかのう?」
心配そうな顔をして、ラモ翁がこちらに身を寄せてきた。ゴラン・ゴゾールは、カールが水を煽るのを見ながら、それに答えた。
「チーズが飛んでいった」
「どういう意味じゃ?」
「こういうことだ」
ゴラン・ゴゾールは、当惑したラモ翁の前でチーズをちぎり、口に入れた。
鼻腔まで愉しませてくれる香りはとても豊潤でどうのこうの――などと思う前に、暴れ出すチーズの欠片が、歯を立てる暇もなく口腔内を攻撃してきて、ゴラン・ゴゾールは噎せた。咳き込んだところで、チーズは口から吐き出されて、また宵闇の彼方へ自由を求めて一目散に旅立っていった。チーズに目がないのはゴラン・ゴゾールだ。だが、チーズに目はない。それなのに、まるで全てが見えているかのように、チーズは、決まった方角へ行ってしまった。
息も絶え絶えになりながら、カールから皮袋を受け取り、水を一口飲んでから大きく息を吐いて、ゴラン・ゴゾールは言った。
「どういうわけか、口に入れた瞬間に、食べられるのを拒むらしい」
「……わしらは何ともないがのう」
ラモ翁は、ちぎったチーズをひと欠片、口の中に放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら、双子の方をちらりと窺った。レミとルパは、どうしたのだろう、という視線をこちらに向けながら、いい具合にとろりと溶けたチーズの乗っているヌーンを齧っている。美味そうな香りが胃袋を刺激してくるのを感じながら、ゴラン・ゴゾールは納得がいかず、ううむ、と唸った……何故こんなに美味しそうなものを己とカールは食べられないのか、ということに対して。
「……私は、諦めませんよ」
と、カールがそんなことを言って、おもむろに、チーズを勢い良くちぎった。
青年は、それを口の中に放り込んで、歯を食い縛る。ゴラン・ゴゾールの手の中にあった水の皮袋がひったくられた。顎の骨を決して動かさぬまま、彼は唇に作った僅かな隙間から音を立てて水を吸い込んだ。
隠遁の森に棲んでいる栗鼠のように、若々しい頬が膨らむ。
ごっくん、と、喉が鳴った。
「食べてやりました」
強敵との戦いにやっとのことで打ち勝った凄まじい雄の顔をして、カールはゴラン・ゴゾールに向かって、にやりと笑ってみせた。まるで歴戦の戦士である。
「……味は?」
「わかりませんでした!」
「いや、まあ、そうじゃろうて」
咄嗟にそのような突っ込みを入れながらも、ラモ翁は当惑した表情だ。まさか手渡したチーズがこのような挙動をするなどということは一切知らなかったらしい。ゴラン・ゴゾールは、老人に向かって訊いた。
「ラモ翁、何か心当たりはあるか? おれたちが何かに拒まれているのか?」
「……おぬしらは、水は飲めるし、ヌーンも食えるのにのう」
と、涙目のカールが顔を上げた。ぱちん、焚き火の中で、また薪が弾ける音がする。
「……水、どこかで汲んできた、って仰っていませんでしたか、ラモどの?」
「そうじゃ。カールどのはゴランどのの世話をしておったゆえ、見てはおらぬだろうが、昨日の朝に立ち寄った小さな岩があったじゃろう? あの隙間に水場があるのじゃ。到着してすぐに汲んだのじゃ」
「……レミどのとルパどのが踊る前に、ですか?」
「確か、そうじゃったな。水を汲んだ後に、あの子らが踊って、巫の力で草を生やして、羊に草を食わせておった」
どうやら、巫は踊ることで力を行使できるらしい。
「……そうですか。ヌーンはどこで?」
「おぬしらを見つける前に逗留しておった街で、チーズと交換したものじゃ」
「……私たちが手にしているチーズは、ラモ翁の羊の乳から作ったものですか?」
「その通りじゃ。だいぶん前に作って、置いておいたものじゃがの。暫く置いておくのがよいのじゃ、そうすると熟成されるでのう……レミとルパが生やした草を食っておる」
「……成程、そうですか」
カールは、喉をごくりと鳴らして、言った。ラモ翁も、何かに気付いたような表情だ。ゴラン・ゴゾールには、ラモ翁の羊が原因かもしれないということぐらいしかわからなかった。だから、ふたりに向かって訊いた。
「チーズがいけないのか?」
「……わかりません。他の方の羊のチーズを食する機会があればよいのですが。レミどのとルパどのが踊って、生えてきた草を食べた羊の乳から作ったチーズが、原因なのかも」
カールは眉間に皺を寄せ、難しい顔をして言った。己を上目遣いでじっと見てくる青年は、年相応どころか、それよりも幼く見える。眉がぴくぴく動き、口を開こうとして閉じて、を繰り返している。何か得体のしれないものに恐怖を覚えているようだった。ややあって、勇気が出たのだろうか、彼は声を舌に乗せた。
「ねえ……ゴランどの、私がどこかへ飛んでいこうとしたら止めて下さい。こんなこと、一番力と筋肉のあるあなたにしか頼めないんです……砂長竜はちょっと加減を知らなさそうですから、せめて人間であるあなたに。お願いです、ね?」
ゴラン・ゴゾールは、まさか、と思った。だから、思わず笑って、首を振った。
「いや、ないだろう」
だが、そのまさかであった。
何かの気配を感じて、ゴラン・ゴゾールの意識は覚醒した。己は近衛騎士であった。貴人の危機、己の危機には敏感であるように訓練されている。眠りが浅いわけではなかったが、心も身体も緊張せざるをえない状況に放り込まれると、必然的にすぐ起きてしまうのだ。
小さな灯りだけを残している天幕の中、寝返りを打つと、乱れた掛け布が見えた。敷き布の隅っこに、革靴が、ちゃんと揃えて置いてある。眠る前に、ゴラン・ゴゾールの隣で、カールは念を押したのだ――私が飛んでいく前に止めて下さいね。
そこに人らしき塊は存在していなかった。
「カール?」
呼んだ。返事がない。当然だと思った。そこに返事をして欲しい人はいない。
「カール?」
ゴラン・ゴゾールは飛び起きた。天幕の合わせ目が僅かに開いていることに気が付いた。
「カール!」
外へ出た。手を伸ばした先が全く何も見えぬ、漆黒の闇である。ゴラン・ゴゾールは己を叱咤して、天幕の中に取って返し、灯りを拝借して再び外へ出て、掲げた。遠くは夜の帳で黒く塗り潰されている。地面を照らした。
砂の上に点々と足跡がついている。裸足。人間のものだ。
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