3

「……私ですか? いいえ、ないです」

「……高級品なら毎日飽きるほど見ていただろう」

「見るのと食べるのは別ですから」

 ふたりは促されるままにその場へ座り、ラモ翁がナイフでチーズを切るのを眺めた。レミとルパも、小声で何かを話しながら、紫水晶のような視線をそちらへ向けている。誰かの腹が鳴る音が聞こえてきて、思わず吐息に笑いが混じった。ちらりと隣を見れば、カールが恥ずかしそうに俯いている。

「チーズと一緒に肉も食えればいいんだがな。そういえば、おれが持っていた背嚢の中に何かあった筈だが、あなたは見たか、カール?」

「……凄く硬い干し肉でしたね」

「……ということは、食ったのか」

「……あなたが意識を失っている間に、ちょっと、空腹を感じたもので」

 青年は太陽の気配が薄い紺碧の東、明後日の方向を見ながら言った。

「いや、元からそのつもりで背嚢を全部あなたに託したから、いい」

「あっ、でも、残っていますよ! さっき、天幕の中に入れたんです――」

「だからいいって!」

 ゴラン・ゴゾールは、慌てて背嚢を取りに行こうとするその脚を掴む。そのはずみで、青年は頭から砂の中に突っ込んだ。しまった、と思って助け起こしてやれば、見事に砂まみれである。

「すまん……いいんだ。今は手を付けない方がいい」

「どうしてですか」

 ゴラン・ゴゾールは、恨めしそうな顔で起き上がったカールの髪や顔についた砂を払ってやった。大人しく顔を払われながらもむすっとしている表情を見ていると分かる。彼はまだ若い。が、替え玉として生活していたからだろうか、世話をされることにも慣れていて、妙に聡明で、自分が納得できないと前に進みたがらない、そんな印象を受けた。取り敢えず、ゴラン・ゴゾールは頭の中からありったけの言い訳をかき集めて、急いで組み立てた。

「あれは非常食で、非常時に食べるものだ。おれたちは今、そこまで切羽詰まった状況に置かれているわけではないから、とっておくのが正解だ」

「……確かにそうですが」

「贅沢はしなくていいんだ」

 カールが、むう、と頬を膨らませた時だ。

「まあ食え、腹が減ったのじゃろう」

 言葉と共に、にゅっと手が伸びてきた。その上には切り取られたチーズと、平べったいパンのようなもの。

「今日のとっておき、羊の乳から作ったチーズじゃ。ほんで、こいつはヌーンだ」

「ヌーン」

「街で焼いておるのじゃ。ちぎって、食ってみるのじゃ。うまいぞ」

 ゴラン・ゴゾールは、言われるがまま、チーズとヌーンを受け取った。そうすると、ラモ翁は満足した表情で頷くのだ。

「小麦をのう、巫のいる街の近くで栽培しておるのじゃ。本当はこんな場所では育たんのじゃが、全ては巫のおかげじゃ」

「……そんなにも凄い力を持っているんだな、巫とやらは」

 手の上にあるヌーンは思ったよりも大きい。焼き色がついてところどころ膨れているそれを見つめながら、ゴラン・ゴゾールは思うのだ……死刑の建前にされている状態だが、ジョルマ・フォーツが探している砂漠の秘宝というのは、巫のことではないだろうか?

「わしらはのう、巫の力を守るために、アルタンを隠しておるのじゃ」

 ラモ翁は、かいた胡坐の上に肘をついて、こちらを見ていた。

「もう、むかーし、むかしの話じゃがな。巫は、踊ると大地を豊かにするから、と、砂漠の外から来た者に目を付けられて、攫われることが多くてのう。そこで、一番大きな街を維持する巫は考えた。レシテナルダと共に生きる異民に婚姻を持ち掛け、彼らを取り込めば、攫われる巫の数は減るのではないか、と……そうして、巫の一族は、レシテナルダと言葉を交わす一族と血を分かつことにしたのじゃ。その血は砂漠じゅうのアルタンに受け継がれておる……わしらアルタンの守護者は、街から街へ物資を行き来させる為にレシテナルダと共に砂漠を回りながら、時々運ばれてくるおぬしらを見張っておるのじゃよ。わしは、異民の血がレシテナルダと通ずる力として出た者のうちのひとりじゃ」

 それを聞いているうちに、カールの目がすっと細められる。青年はやがて、自分だって油断などしていないぞ、という表情になった。

「……見張っているって、今も、ですか?」

「そうじゃ。まあ、大抵は、わしらが拾う前に、大きな声を出して砂鮫やら潜り鰐の餌食になってしまうようじゃがのう。おぬしらは運が良かったのう!」

 ほっほっほ、と声を出して笑い、ラモ翁はカールに向かってヌーンとチーズを差し出した。青年はそれを恐る恐る受け取って、じっと見るばかりだ。ゴラン・ゴゾールも、己の手の上を見た。チーズが美味そうな香りを放っているが、果たして安全なのだろうか?

「心配せんでも、毒など入っとらんよ。砂の上では、何でもかんでも貴重品じゃ。無駄なことはせん。かといって、拾った人間をばらして食料にするなどということもせん。困っているものは互いに助け合うべきじゃ。そこのでっかいのは天幕を建てるのに、とても役に立つじゃろう?」

「……私たちにそのようなことを話した上に、口封じをしないのは、不思議ですね」

 ラモ翁の言葉に、カールは微苦笑を漏らした。薪の弾けるぱちん、という音は、まるで火の愉快そうな笑い声のように聞こえた。

「今すぐにレシテナルダの晩餐にすることも可能じゃからのう……お望みであればの話じゃが」

「……そうきましたか」

「少しでも妙なことをしおったら、わしが伝えんでも、ぱくり、じゃ。今まで助けた中には、朝になったら消えとった奴もおった。哀しかったのう」

「……そしていつか糞丸虫に転がされる、と。冷静に考えたら、まあ、そうですよね」

 カールはにやっと笑って、ヌーンを上品にちぎった。それだけで、辺りに焼いた小麦のいい香りが漂った。それを見ながら、ゴラン・ゴゾールも真似をしてヌーンをちぎった。膨らんでパリパリとしている欠片には、香ばしい焦げがあって、口腔内に唾がわく。

 レミとルパはどうしているのかと見たら、ちょうど反対側で、何かおまじないのような文言を唱えながら、ヌーンにチーズを挟み、直火で炙ろうとしている。その食べ方は頭がいいなあと思ったが、まずは異国の食べ物を一口味わってからだ。食べ方にうるさい貴族の子であったゴラン・ゴゾールは、そんなことを生真面目に考えながら、ちぎったヌーンを口の中に放り込んだ。

 ひと噛みで伝わってくるのは、焦げがパリッと弾ける感触。香ばしさが弾けて口腔内を満たし、鼻腔にまで到達した。次いで、もちっ、としたヌーン生地の柔らかな感触が、舌と歯にそっと寄り添ってくる。

 至福だった。

「うまい」

「ええ」

 ちらりと隣を見れば、カールの目がキラキラと輝いている。青年はすぐさまヌーンを更にちぎって、口の中に詰め込んだ。一生懸命にもぐもぐと頬や顎を動かし、ごくんと飲み込んで、またひとかけらをちぎりながら、大きく口を開く。咀嚼している最中に喋らないのは上流階級で教育されてきたゆえだろう……ただ単に食べることに集中しているだけかもしれない。そんな青年は、ゴラン・ゴゾールの視線に気が付くと、恥ずかしそうな笑みを口の端に浮かべた。

「……食感が好きです。いつも食べていたパンとは違う、この……もっちりとした、端っこが」

「カール、レミとルパを見てみろ」

 ゴラン・ゴゾールは双子の方を見ながら言った。チーズを炙ってヌーンにはさんで食べた時の味を想像したのだろう、目が丸くなったカールは、感極まったように首を振った。

「……天才ですね。私たちもやりましょう」

「よしきた。だが、まずはヌーンと同じように、チーズもそのまま食べるべきだと、おれは思う……食べ物は素の味から味わえ、と言われてきたし、その通りだと思うからな」

「確かに」

 カールが深く頷いて同意してくれたのが嬉しかった。ゴラン・ゴゾールは、ヌーンの上でごろんごろんと転がる拳大のチーズの欠片を見つめた。柔らかくて濃い色をした断面が、今まさに己の舌で舐められ、歯を立てられるのを待っている。

 自慢の力を指に集めて、チーズをちぎった。一陣の風が吹き抜けていく。ラモ翁が双子と同じように何かを唱えるのも聞こえてくる。そのチーズを口の中に入れようと息を吸った時、ゴラン・ゴゾールの鼻腔を、辺りを舞う砂埃が刺激した。

 思わずくしゃみをした。その瞬間だった。

 チーズの欠片がぶるぶると震えて、手の中から、ぴゅん、と飛んでいった。

「……は?」

 ゴラン・ゴゾールは我が目を疑った。暗闇の向こうには、何も見えない。今は、強い風など、微塵も吹いていない。

 カールがこちらの声に気付いて話しかけてきた。

「チーズ、いかがですか、ゴランどの?」

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