6

 男の子の方が、ゴラン・ゴゾールのすぐ傍まで寄ってきて、顔を覗き込みながらそんなことを言った。

「伝説のチーズを持ってきてくれる人だ!」

 女の子の方は、耳慣れない言葉を口にした。ゴラン・ゴゾールは戸惑った。伝説のチーズという名がつくものなど、見たことがない。

 仕方ない、とでも言いたげな溜め息をひとつ落として、ラモ翁は口を開いた。

「紹介しようかの。この子らは、レミ・ノージャとルパ・ノージャ。女の方がレミ、男の方がルパ、ふたりとも十歳じゃ」

「……レッツァ氏族ではなく、ノージャ氏族、ということですか? 別氏族の子を育てることもあるのですか? それに……私たちと同じ言葉を話しているのですね」

 カールが不思議そうに呟いた。青年と視線を合わせながら、ラモ翁は眉を上げる。

「ちと面倒な事情があっての」

「……そうですか」

 青年は追究しなかった。が、ラモ翁はそんなカールに、宵の口の果て知れぬ空によく似た色の視線をやって、少し考える素振りを見せた後、口を開いた。

「この子たちは巫じゃ」

「巫?」

 ゴラン・ゴゾールは問い返していた。同時に、ジョルマ・フォーツの歴史のことを思い出す……精霊の力を借りて炎や水を操る者が存在していて、年月をかけてその力を鍛え上げた彼らのことを、術士と呼んだ時代があったらしい――これについては本で読んだだけだ――が、巫とは、ジョルマ・フォーツでは、精霊の「声」を聞き、他の者にそれを伝える能力を有した者のことを指している。それに似たような存在なのだろうか。まだ年端も行かない子供が?

「羊に草を食わせる為に、岩の上で、裸足になって踊るのじゃ。この子らはレシテの砂の大地の声を聞いて、水を導き、新芽を生む……この子らの母親もそうじゃ。巫は、わしらアルタンにとって、なくてはならない存在じゃ。この子らの踊りは見事じゃぞ、それはもう、羊が目の色を変える程に、美味しい草が生えてくるのじゃ。母親……わしの娘じゃがな、稀代の踊り手でな、それを見て育ったのじゃ」

 ラモ翁がちらりと視線をやった先で、誇らしげに双子が胸を張っている。

「じゃがのう、父親が子を放って、どこかへ行ってしもうての……じゃから、レシテに入ってくる言葉を全て知り、レシテの見張りをしておるわしが、面倒をみておる」

「……母親や、周囲の者は、子を育てないのか?」

 何故彼らが王国の言葉を話すのかはわかった。だが、ゴラン・ゴゾールは不思議に思った。婚姻関係を結んでいた近衛騎士の同僚の中には既に子持ちの者もいて、妻や使用人が子の世話をしているという話を聞いていたりもした。必ずしも産みの母や父が子育てをしなければならないという決まりはないし、貴族としては使用人の顔の方が両親より馴染みがあるなどという者もいるくらいだ。しかし、己と比較すれば、子供たちの周囲に人が見えない気がしたのだ。

「巫は、子育てはせん。大抵の巫はのう、水を導いて砂の中に生み出した緑地に留まっておる。この子らの母親がいるところは、もう街じゃ」

「砂の中の街だって?」

「レシテの北端じゃがな。机山のあたりじゃ」

 レシテの北端といえば、隠遁の森の更に南、ジョルマ・フォーツ王国と砂漠との境目。燭台岩郡が存在している、燭台の谷と呼ばれるところだ。ゴラン・ゴゾールは一度だけ、遥か遠くに、円柱形に削れた岩の塊が幾つも立ち並ぶ不思議な光景を望んだことがあった。アルタン族は机山と呼んでいるようだ。自分たちは燭台に見立てて燭台の谷と呼んでいたが、成程確かに、机のように見えないこともない。

「あの子は街の維持に必死でのう……巫は、性別に関係なく、出来るだけ多くの子を為し、街の緑を守ることが使命なのじゃ。じゃから、子育ては、巫に宛がわれて子の親となった、もう片方の者とその親類縁者に託される筈なのじゃが。あやつ……命よりも大切なものがある、必ず返さねばならぬ、とか言って、消えよった。それ以来何もなしじゃ」

 ゴラン・ゴゾールは、己の内で心臓がどくりと大きな音を立てるのを、しっかりと聴いた。

 母も、父も、兄も、使用人たちも、愚鈍なりに勤勉であろうとした己を励まし、叱咤し、褒め、大いに愛してくれた。木剣を持った父の大きな手が己の頭を不器用に撫でてくれたその感触を覚えている。何か嫌なことがあった時だったような気がする、差し出された腕に縋って、飛び込んだ母親の胸の柔らかさも覚えている。あれは近衛騎士に抜擢された時だった、微笑みを向こうに、合わせた兄の拳が驚くほど硬かったことも覚えている。怪我をした時に差し出された、使用人の手の上にある手拭。料理人の腕に抱えられた、いい匂いのするパン。土で汚れた庭師の指先が示すのは、美しく植えられた、庭園に咲き誇る色とりどりの花や様々な種類の木々――赤い扶桑、艶めく薔薇、一角に固められている香草、慎ましやかな紫の菫、海沿いから取り寄せたという椰子、旅人の木。

 帰るべき場所。

 ゴラン・ゴゾールが生きていた世界は豊かであった。そこから誰か一人が欠けるだけでも、温もりの総量は大きく変化しただろう。己は全て失った。だが、この子たちは? あった筈のものを最初から持っていない者だって存在している、理屈ではわかっていた。だが、実際に目の前にそのような境遇の者が存在している状況になると、訳が違ってくる。ゴラン・ゴゾールの胸は締め付けられた。

「ラモ翁がいてくれてよかった」

「……そうか」

 思わず呟いたゴラン・ゴゾールに向かって、ラモ翁が、静かに微笑んだ。そこに、神妙な顔をしたカールがするりと言葉を捻じ込んでいく。

「……返すものが何かは、聞いていないのですか?」

 揺れる天幕の合わせ目から、黄金を溶かして甘く煮詰めたような夕方の陽の光が差し込んでくる。ラモ翁の顔に濃い陰影が生まれた。

「問い詰める前に、行ってしもうたからのう……」

「……どこへ行くか、などは、仰っていましたか?」

「……あの時はもう夜も迫っておったからのう、あやつは急いでおった。だが、覚えておる……いっとう明るい星の方へ、あやつは走っていったのじゃ」

 ラモ翁は疲れた顔をしていた。ゴランは何とかして目の前の老人を慰めたいと思ったが、己は今ほぼ全裸で、尚且つ身体が満足に動かすことのできない状態であることは、愚鈍なりにわかっているつもりだった。かといって、気の利いた言葉をすぐに出せる程、頭の回転が速いわけでもない。ただ、明るい星がひとつ、北の空低くにいつも光っていることだけは知っていた。

「……北か?」

「……レシテ砂漠の北は隠遁の森、その向こうは、ジョルマ・フォーツですね」

 ゴラン・ゴゾールの呟きに、カールが追従した。もしかしたら王国にいるかもしれない。ふたりは目を合わせて、頷いた。

「ラモ翁、そいつの名前は?」

「すまんのう、タオモ氏族の者ということしか覚えておらぬのじゃ……あの子から名は聞いておったが、どうにも印象の薄い名じゃったし……わしはレシテの見張りの任で、ずっと緑地から緑地へ渡っておったからのう。あの子が身籠った時に会いはしたが、名乗りもせずに謝るだけ謝って、すぐに走っていったあやつを見送って、それっきりじゃ」

「……タオモ氏族も、ラモ翁と同じような肌の色に髪の色なのか?」

 ラモ翁は頷いた。タオモ氏族がどういう人々なのかは知らないが、手掛かりは得たのだ。ゴラン・ゴゾールも頷いた。

「北へ行って、そいつを助けて、返さなきゃいけないものを返せばいいんだな」

「でしたら、ゴランどの。カストーノ殿下に助力することはできませんか?」

「なんだって?」

 カールの言葉に、ゴラン・ゴゾールは痛みも忘れて飛び起きた。

「あの方は……あの方は、おれが捕らえられた時には、もう亡くなられていた筈だ。おれが犯人として捕らえられたから――おれはやっていないが――」

「いいえ、生きておられます。私は、捕らえられた時に、見たのです……薄くて蒼い目をしたカストーノ殿下が、政務の為に第一王子マローノ殿下の衣装を着るのを」

 政務。ゴラン・ゴゾールは、頭がくらくらしてきた。生きているのか。しかし、助けて欲しいということは、非常によくない状況に陥っているのではないか。それに、第二王子は本物なのか?  替え玉として存在していた青年がそこにいるということは、他にも替え玉が用意されていて、それが第二王子として生きているのではないのか。それが第一王子として暮らしているのではないか。だんだん頭が混乱してきたゴラン・ゴゾールはそう思った。

「……それは、第一王子のマローノ殿下か、他の替え玉ではなかったのか?」

「カストーノ殿下の瞳の色は薄い蒼です、違いますか?」

「……そうだな」

 双子である。顔も声も似てはいるが、同じ顔がふたつ並んでいるというようには見えなかった。第二王子のカストーノ殿下は晴れた日の空のような、薄い色の目をしている。双眸の色が確認できるところまで接近したことがないので、第一王子のマローノ殿下の目の色は知らなかった。だが、双子だからきっと同じような色の目なのだろう、と、ゴラン・ゴゾールは思った。

 双子の王子のどちらにも似た顔のカールは、とても真剣な目をしていた。その双眸は青と緑の絵具に水をたっぷり含ませて混ぜたような、不思議な色である。

「カストーノ殿下は、まだ生きておられます。どこにいらっしゃるかはわかりませんが、それだけは確かなのです……ごめんなさい、怪我をして動けない状態のあなたにこんなことをお願いするのは心が痛いのですが」

「いいや、カール」

 俯いたカールに向かって、ゴラン・ゴゾールは首を振った。墓参りだけでもできれば、後はどうなってもよいと思っていた身だ。僅かでも可能性が生まれた今、この命を賭けることに、何の躊躇いがあろうか?

 ゴラン・ゴゾールは騎士であった。剣は奪われたが、心までは奪われていない。

「やりたい……いや、是非やらせてくれ。できることなら、何でも」

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