第二章 砂漠の街
1
「机山のちょっと向こうまで行けば、砂鮫や潜り鰐の危険はなくなるじゃろう。連れて行ってやるぞい」
ラモ翁はそう言った。燭台の谷のもう少し北、隠者の森の近くまで送ってくれるらしい。ゴラン・ゴゾールとカールは、有難くその話を受けることにした。
砂長竜――ラモ翁やレミ、ルパはレシテナルダと呼んでいる――は砂中だけでなく砂上をくねくねとうねりながら移動をすることもある。長距離移動をする時は、蛇のようなその動きに頼るのだそうだ。そういうわけで、太い胴に乗り、六本の骨が入った円形の日除けを手で持って、綿入りの座布団の上に座り、人間たちは運ばれていく。
メエ、メエ、と鳴く竜角羊の群れは、大人しくラモ翁の指笛の音色に従い、一頭も遅れることなく、団体行動をとっていた。名の通り鋭い一本の角を額に生やしている竜角羊は、砂長竜と人の力に頼って、したたかに生きている。元々乾燥地帯に生息する種類の羊であるが、昼の暑い砂漠でも、角の作用で己の内から体温を下げるということが可能な、不思議な生き物なのだ。毛は、夜の砂漠で体温を保つという重要な役割を担っている。どうにも暑そうなもこもことした毛玉の集団を砂長竜の背で眺めながら、これを他の者が見たら何とも奇妙な光景だと思うだろうな、と、ゴラン・ゴゾールは思う。
びちゃり、と音を立てて肌に貼られていた湿布のようなもののおかげで、ゴラン・ゴゾールの全身に刻まれていた刺し傷はあっという間に塞がった。近衛騎士であった男なのだから、その辺の人間よりは頑健な身体をしている。四肢を動かしたり背中を曲げたりすればまだまだ痛いが、歩けない、戦えない、不意打ちしてくる敵に後れを取る、などということはないだろう。
「もう大丈夫だ、ってあなたは仰いますけれど……でも、あまり無理をしないでくださいね。でないと、守って欲しい時に困りますし」
照れ隠しだろうか、カールは肩を竦めながらそんなことを言った。
レミとルパは、砂の上を元気に走ったり、駆ける羊の上に乗ってみたり、砂長竜の上に俯せになってだらりとしてみたり、楽しそうである。このような生活をしていると玩具など手に入れることができないのではないか、と思ったゴラン・ゴゾールであるが、砂漠で生きてきたふたりは、こちらが想像するよりも、沢山の遊び方を知っていた。
ふたりは特に、見目麗しいカールと、どこかの国の貴族ごっこなるものをして遊びたがった。
ゴラン・ゴゾールは、とても丈夫で力強く動く遊具のような扱いだった。腕にぶら下がった双子をぶんぶん振り回したり、肩の上に乗せたり、足の裏だけで胴を支えて鳥ごっこをするのは楽しかったし、子供の笑い声を聴いていると、楽しい気持ちになった。
野宿に選んだ場所で火を焚いた時に歌ったのは、母から聴いたという歌。
焚き火の灯りを使って、天幕に作る手の影で紡ぐ、突飛で破天荒な空想の物語。
砂の間に横たわる骨を削って作ったのは、骨になった生き物の姿を彫り込んだビーズ。
ラモ翁を通して砂長竜に頼み込んで、背中を滑って、飛び込む先は砂。
天幕に織り込まれた生き物の話も興味深かった……例えば、糞丸虫は、元々空に住んでいて、不思議な力を使って太陽を正しく導く仕事をしていたのだけれど、太陽は足蹴にされるものだからそのうち怒ってしまって、糞丸虫を地上に落としてしまったのだとか。しかし、糞丸虫の持っている不思議な力は地上に落ちても健在で、生き物を正しい流れに導く仕事を、命を懸けて仰せつかっているらしい。
双子は、ことあるごとに、ゴラン・ゴゾールに向かってこんなことを言った。
「伝説のチーズは王様のいるところにあるんだ!」
「持ってきてくれたら、約束が果たされるのよ!」
ゴラン・ゴゾールは、そんな約束などした覚えがない。そもそも、伝説のチーズなどというものがあったということすら初めて聞いた。
「伝説のチーズとは、どういったものだ?」
訊いてみれば、うだるような暑さの中、ふたりは紫水晶のような目を輝かせて、口々に説明してくれるのだ。
「とにかくすごい、とってもすごいんだ!」
「不思議な力が湧いてくるチーズ!」
「とっても美味しいらしいんだ!」
「いつも食べる羊のお乳から作ったチーズも美味しいけれど、もっともっと!」
「踊るのも完璧になるんだ!」
「水を一杯呼べるようになって、皆を助けられるようになるの!」
「何にでも変身できるんだ!」
「一口……いや、爪の先だけでいいから、食べてみたいね!」
ゴラン・ゴゾールも、チーズは何度も食べたことがある。己は貴族であったから、食生活は豊かで、様々な風味のチーズに出会ってきた。牛だけでなく山羊、馬、驢馬などの乳に、埃よりも小さな目に見えない生き物――何種類もいるらしい――を投入するのだが、その生き物たちの組み合わせを変えることによって、それは沢山の種類のチーズとなる。何種類ものチーズを食べ比べて腹を壊したこともあったが、どれも非常に美味で、パンや肉と一緒に食べるのが好きだった。平たくした生地の上に大量のチーズを乗せて焼き上げたものを飽きるまで食べるのは最高の贅沢だった。しかし、それを凌駕する美味しさとは一体どういうものだろう。
「それは凄いチーズですね。ですが、王様のいるところというのは、どこですか?」
手で首元を仰ぎながら、カールが言った。怠そうに見えるけれど、その目は真剣だ。
「王宮! 壁も絨毯もすごくきらきらしていて、豪華なの!」
「王宮! すごい服の人が一杯いて、みんな眩しいんだ!」
「剣がいっぱいあるの!」
「宝石もいっぱいだ!」
「美味しいものもいっぱい!」
「お金もいっぱい!」
レミとルパは顔を見合わせて、うふふ、うふふ、と笑った。近衛騎士であったゴラン・ゴゾールは、間違ってはいない、と思う……確かに王宮は絢爛豪華且つ調和のとれた美しい装飾で溢れていた。中で働く人々の着ている衣服は染みひとつない上等の品だ。ジョルマ・フォーツの人々が好む濃い色の生地は丈夫で、縫製もしっかりしており、刺繍の種類は非常に多く、洗練された意匠が沢山存在している――花や植物を象ったものが主流だ。巨大な厨房で沢山働いているのは選りすぐりの料理人で、一口食べれば誰もが満足するような食事をいつでも用意してくれるのだ。宝物庫は大陸中から集まった宝で埋まっている――宝石だけではない。滅びた文明のものらしき美しい模様の入った石板、大きな生物の骨、中で炎が揺らめいている不思議な石、はるか遠い西の国で作られた宝剣、決して燃えないと言われている衣、どこかの釦を押すか引くかどうにかしたら空を飛べるようになる靴など、そういったものでいっぱいだ。そんなに凄いチーズなら宝物庫にあってもおかしくはない、と思えた。
だが、レミとルパはゴラン・ゴゾールの想像に反したことを口にするのだ。
「でもね、伝説のチーズは、伝説だから、王様も知らないところにあるんだ」
「王宮にあるけれど、王様は知らないし、王子様たちも知らないの」
「王子様たちは僕たちとおんなじなんだけれど、知らないんだよね、レミ」
「私たちと王子様たちはおんなじだけれど違うよ、ってじじさまも言っていたもんね、ルパ」
言葉の意味がよく呑み込めなかったゴラン・ゴゾールは、ちらりとカールを見た。同じだけれど違う、ということについて、知識と頭脳に頼っているように見受けられる彼ならわかるかもしれないと思ったからだ。青年は難しい顔をして顎に手を当てていたが、寄せられていた眉は、すぐにふわりと元の位置に戻った。
「同じ……王子が双子という解釈で正解なら、ジョルマ・フォーツです」
「……だが、あの王宮にあったとして、王も王子もその存在を知らないのだろう?」
「ええ、不思議ですねえ。私も伝説のチーズの噂は聞いたことがありません」
「おれも知らん」
ゴラン・ゴゾールは両の掌を天へ向けて、言った。すると、まだ完全に癒えていない膝を、小さな手が四本、ぺちぺちと叩いてくるのだ。
「でも、僕たち、見たんだ! おじちゃんが伝説のチーズを持ってきてくれるって!」
「おじちゃんが約束の人なの! それは間違いないの!」
ゴラン・ゴゾールは、解せぬ、と思った。身体も大きくしっかり筋肉もついていて、いかつい顔立ちのせいで多少老けて見えているのかもしれないが、己はまだ二十二歳である。ちらりとカールの方を窺えば、俯いて肩を震わせているのが見えた。
「……十歳にとって、やはり、二十二歳はおじちゃんか?」
「……お兄さん?」
「お兄さん!」
思わず問えば、気を遣われて、ゴラン・ゴゾールは少し悔しかった。
移動速度がどんどんと緩んでいく。ラモ翁の指笛で羊たちがわらわらと止まった時、砂長竜の長い身体がぶるりと震えた。何かを尾の方から排出するのが、視界の端に映った……ドサドサと大きなものが落ちる音が聞こえてくるから、おそらく糞だろう。カールが笑いを何とか喉の奥に押し込みながら、また口を開く。
「見た、というのは、夢か何かで、ですか?」
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