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 だが、痛みの知覚は、状況の把握に一役買った。鼓動の度に肩や背に覚えるそれを忘れたいと視界に注意を向け、何かがあると思った場所に焦点を合わせれば、それは模様だった。織物だ。鱗のような菱形が、橙色に染められて、横方向に連続している。それを縁取る赤は夕暮れの太陽に似ているだろうか。その上には、糞丸虫が丸いものを連れて散歩している模様。前後には、立派な角を持つ草食動物のような模様。

「私たちは今、天幕の中にいます」

 カールは言った。成程とは思ったが、ではどうして天幕の中にいるのか?

「天幕……?」

 誰かに保護されたのだろうか。ゴラン・ゴゾールは思った。そっと頭を動かし、見れば、分厚い毛織物の絨毯の上にいるらしいことがわかる。びちゃり、と、何かが肌に貼りつく音がした。何か薬のようなにおいのする液体が、傷口にしみて、思わず悲鳴を上げる。そうして、己がほぼ全裸であることに気が付いた。

「ねえ、聞いて……驚いてください。砂長竜は人と共に暮らす生物でした」

 びちゃり。今度は右手の上で音がした。カールが何かを貼ったのだ。恐る恐る見れば、湿った布が、砂長竜の歯を握った時についた傷口に貼りつけられている。夢の中で己にまとわりついてきた赤黒い物体の正体はこれだったのか、などと、ゴラン・ゴゾールは思った。

「……どういうことだ?」

「端的に説明すると、遊牧民族が飼っている羊を、砂鮫や潜り鰐から守っているのが、砂長竜なんです」

 カールは、ゴラン・ゴゾールの身体を僅かに浮かせて、背中から器用に布を巻きながら、そう言った。貴人の従者であったというから、傷病人の手当てにも慣れているのだろう。しかし、たった今教えてくれたような知識はどうやって仕入れたのだろうか、と、ゴラン・ゴゾールは疑問に思った。

「……誰かに訊いたのか」

「……私は、お偉いさんの、所謂……替えがきく従者でしたから、時と場合にあわせて、色んな言葉や色んな知識を学ぶ必要があったのです」

「お偉いさん……もしかして、王子の替え玉か?」

 カールは無言で頷いた。それなら、自分がこの従者の存在を把握していなくても仕方はなかったのかもしれない、と、ゴラン・ゴゾールは考えた。彼はとても第二王子に似ていた。それなら、双子の兄である第一王子のマローノにも似ているのだろう……己は第二王子つきであったから、第一王子の姿は遠目にしか見たことがなかったけれど。しかし、気付かぬうちにカールと言葉を交わしていたのかもしれない、と思うと、不思議な気持ちだった。だが、それ以上に、替えがきく、という言葉に、喉に引っかかる何かを感じた。

「あなたが傍に控えているような、重要な政務の代理は、いつも緊張していましたが……誰も読めないような本を読めるのは、とても楽しかったものです。私は幸せでしたよ」

 ゴラン・ゴゾールの気持ちを汲み取ったのだろうか。青年は、柔らかく微笑んだ。

「でも、砂長竜と人が共に暮らしているなんて、この目で初めて見ました。この世界には、まだまだ知らないことが沢山あります……きっとあの方もご存じなかったでしょう」

 と、天幕が揺れた。あの方とは誰なのか、ゴラン・ゴゾールは聞きそびれた。

 布の隙間から、しわしわの老人が姿を見せた。こんがりと焼けたパンのような褐色の肌。長い布のついた帽子の下は、真っ白な髪を編み込んで、後頭部で纏めているように見受けられた。身に纏っているのは、前合わせの釦がついた丈の長い生成りの胴着で、それを腰帯で縛っていた。砂が入るのを防ぐためだろうか、詰襟で、袖は絞られている。裾に連続して入れられているのは、砂長竜の歯を思わせる三角形の刺繍。下衣は、足首で布が絞られているズボンだ。濃い色が隠遁の森の土を思わせた。

「気がついたかのう?」

 ゴラン・ゴゾールは、この老人が、己と同じ言葉を話したという事実に驚いた。別の国の者や別の民族の者は違う言葉を話していたりする、似ていても発音や言葉の並びが違ったりする、と、軍学校で教えられた記憶があるし、況してや、このような肌の色に髪の色をした民族の存在は、今までに聞いたことも見たこともなかった。だから、考えるより先に、口が動いていた。

「……あなたは?」

「わしか。勇敢なおまえさんが立ち向かっていったレシテナルダの、相棒のじじいじゃよ」

「……レシテナルダ?」

 耳慣れない単語を聞いて目をぱちくりさせたゴラン・ゴゾールの疑問には、カールが答えてくれた。

「砂長竜のことです」

「……相棒、と言ったが」

「言葉の通りですよ。砂長竜は人と共に暮らす生物だ、と、さっき私は言いましたけれど……砂長竜はその個体が個人と契約を交わすそうです」

「契約を?」

「はい、不思議な絆で意思疎通が可能になるらしいです。で、彼は、このレシテ砂漠を砂長竜と共に移動しながら暮らしている、ええと……砂の大地レシテの民、アルタン族、レッツァ氏族のラモ翁。あなたが気を失った後、私たちを助けてくれたんです。王国の言葉だったら、ラモ・レッツァどの、と呼べば、一番しっくりくると思います」

 合間に挟まってくるのは、ふぉっふぉっ、と愉快そうな笑い声。ゴラン・ゴゾールは、そこではっと気が付いた。己が攻撃しようとしたのは、この老人の相棒ということになる。

「ラモ翁、あなたの相棒とは知らず、おれはあなたの砂長竜を傷付けようとした……知らなかったとはいえ許されぬことだ。本当は起き上がって謝罪をしたかったところだが、助けて頂いた上に、このように寝ているままで、申し訳ない」

「いいのじゃよ、おぬしよりも若いそこのひよっこを守ろうとしたんじゃろう。まあ、もっとも、わしらに敵意がないことを、ひよっこは気付いておったようじゃが」

 どっかりと絨毯の上に座ってどこからか金属製の椀を取り出したラモ翁の顔の皺には、穏やかな笑みが刻まれている。すぐ傍には分厚い木の丈夫そうな棚があった……小さな菱形が横に並んだ浮彫の装飾は摩耗していて、相当古いものであるように見受けられる。その上に置いてある取っ手のついた大きめの金属製の壺を手に取り、老人は椀の中に何かを注ぎ入れた。

「ずっと眠っておったから、喉が渇いたじゃろう。ほれ、飲みなさい」

 カールが、ゴラン・ゴゾールの背を抱いて、傷が痛まぬように、ゆっくり起こしてくれた。受け取った椀の中を覗き込む。液体は水だった。

「ありがたく、いただこう」

「砂漠を行く者は互いに助け合うのが決まりじゃからな……わしらは水場があったら必ず汲んでいくことにしておる。それは汲んで一日経っとらんから、清々しいぞ」

 成程確かに、一口啜ってみれば、綺麗な水である。全身についてしまった傷も癒える気がした。

 と、ゴラン・ゴゾールは、視線を感じて顔を上げた。

 小さな鼻と口、爛々と輝く菫色の目。ラモ翁と似た肌の色と髪の色。天幕の合わせ目から、ぷにっとした手を差し入れて、同じ顔がふたつ、こちらをじっと覗いている。

「……誰だ?」

 ゴラン・ゴゾールは思わず呟いた。驚きに息を呑む音がふたつ。

「見付かっちゃった!」

「見付かっちゃった!」

「これ、レミ、ルパ。このお方は怪我をしとるんじゃぞ、不用意に覗いて、驚かせるでない」

 ラモ翁が窘めるような声で言う。ゴラン・ゴゾールの中で、騎士であることに努めた己の心が、柔らかく主張した。

「構わない、ラモ翁。おれは大丈夫だ……元はと言えばおれの勘違いが発端だし、この怪我もおれのせいだ。子供はよい宝だ……隠れずとも、おれは何もしないぞ」

 そう言って微笑んでやれば、天幕の合わせ目の布を派手に揺らして、ふたりの子供が笑い声を上げながら中へ転がり込んでくる。髪を短く切り揃えた男の子と、長い髪を一本の三つ編みにして背に垂らした女の子だ。ふたりとも非常に可愛らしい。ふたりが身につけている生成りの胴着は膝丈で、首元はラモ翁と同じ詰襟、手首はきゅっと絞られていた。下は簡素なズボンで、これまた足首で布が絞られていた。祖父と同じ、砂から肌を守る格好だ。

 しかし、どこか、違和感がある。そう思った時だ。

「約束の人だ! ぼく、夢で見た!」

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