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 竜とは言うが、それは、蚯蚓のような胴体がびっしりと硬い鱗で覆われているのみの生き物。砂中より突き出たその胴の太さは、大の男三人ぶんを優に超えている。空に向かってキシキシと嫌な音を立てているのは頭部。陽光に煌くのは、頭部に開いた口腔内にぐるりと存在する、無数の鋭い歯。

 カールの喉が、吸気で、情けない音を出した。それに気付いたのだろうか、凶悪な頭部が、歯を鳴らしながらそちらを向く。恐怖からか、まるで濁流のように、青年は口から言葉を吐き始めた。

「目……目……砂中で生活していて目が退化しているから音で反応する……物を遠くに投げてそれに反応している間に逃げたいけれど生き物が移動する時に立てる砂の音の方に寄ってくるから時間稼ぎにもならない――」

「おい、落ち着け、カール」

「鋭い嗅覚と聴覚を駄目にすれば良いのだけれど鼻自体は無数の穴として口の周りに並んでいるから潰しにくいし、耳はそもそも全身至るところに存在していて、しかもそれが鱗で覆われているから、まず鱗を破壊できるような金属の塊が必要で、今はそんなものなど砂長竜の歯以外にはない――歯はすぐ生え変わる為に抜けやすくなっているけれど取りに行くこと自体が自殺行為だしよく動くしどうすれば――」

「よく知っているなとは思うが落ち着け!」

 ゴラン・ゴゾールは、カチカチと喧嘩を売ってくる頭部から目を離さずに叫んだ。勝てるとは到底思えない。だが、己一人でも時間稼ぎのための駒になることはできるかもしれない、と思った。

 罪の味など知らない顔をした青年が、また、第二王子と重なって見える。ゴラン・ゴゾールは、ケチはついてしまったが、それでも騎士として教育を受け、騎士をつとめてきた人間だ。だから、その禍々しい頭部から青年を隠して守るように、己の身を盾にして、立った。

「カール、行け」

「――ゴランどの?」

「どの、はいらん、先に行け」

 息を呑む音がする。背中に何かが触れた……手のような感触。ゴラン・ゴゾールは、背嚢を全部背から滑らせて落とした。

「水と食べ物はあなたが持って行け」

 砂長竜は品定めをするようにこちらを向いたままだ。相変わらずその口からは不快で恐ろしい音が鳴り続けている。その合間に、何やら間延びした高い音が、メエ、メエ、といった。

「だけど、そうしたら、あなたは――」

「おれは後から行く」

「でも、待って――」

「ここはおれに任せろ、いいから早く、行け!」

 ゴラン・ゴゾールは、砂長竜をしかと見据えた。目の前に立ちはだかる小さきものに害意があることを察知したのだろうか、砂長竜は、まるでその矮小さを嘲笑うかのようにギシギシと耳障りな音を出す。歯を擦り合わせているのだろうか。彼らの狩りの方法は本で読んだが、目の前は未知であった。しかし、ゴラン・ゴゾールは、やらねばならない。まだ騎士であった時に己が守れなかった未来ある若い命を、今度こそ守らなければと思った……己の命と引きかえにしても。

 ならば、先に仕掛ける方が出鼻を挫ける。

「あなたは行け、生きろ!」

 ゴラン・ゴゾールは、叫んで、走った。足裏に込めた力を、砂があっという間に殺していく。それでも走った。

 そうして、砂長竜の身体に、飛び掛かった。

 夢中だった。つるつると滑る胴にかじりつき、頭の方へにじり寄る。手が外れて、身体が砂の上に落ちた。しなる尾に打ち据えられて、痛みと同時に浮遊感を覚え、次の瞬間には叩きつけられた。青年の叫び声の合間に、メエ、メエ、という音が、また聞こえる。それでも、ゴラン・ゴゾールは、立ち向かうのをやめなかった。目の前に歯がずらりと並んだ口腔が迫ってきても、怯まなかった。

 その歯を素手で掴んだ。皮膚が破れて、血が流れた。ゴラン・ゴゾールは痛みを拒否した。己は厳しい訓練でこれでもかというほどに肉体を鍛え上げられた近衛騎士であった。カールがさっき言っていたことを思い出す――砂長竜の鱗を破壊できるような金属は手元にはないが抜けやすいという砂長竜の歯なら目の前にあるではないか、それ即ちこの歯が鱗を断つ道具となる――

 砂長竜の歯が全身に刺さってきた。肩や背中から血が吹き出す。ゴラン・ゴゾールは呑み込まれかけていた。それでも、己の筋肉に、ありったけの力を込めて、引いた。

 鋭い歯が一本、嫌な肉の音を立てて、抜けた。

 全身に刺さっていた歯が、一気に引っ込んだ。砂長竜は歯を抜かれた衝撃に驚いたようだった。ゴラン・ゴゾールは、刺客とも渡り合えるように訓練を積んだ身である。返す手で、口の端に、鋭いそれを突き刺した。

 気が付いたら、青い空の中にいた。

 カールの声が聞こえる。己が知っている言葉ではなかった。メエ、メエ、という音も聞こえる。青年に向かって、早く逃げろと言ってやりたかった。視界が砂でいっぱいになった。

 知らない誰かが走ってくるのが見えた、と思った瞬間、全身を衝撃が貫いて、何もわからなくなった。


「私を守りなさい、ゴラン・ゴゾール」

 涼やかな美貌に柔らかい微笑みを湛え、剣を差し出しながらそう言うのは、カストーノ・ノーリ・ペコ=ジョルマ・フォーツその人だ。まるで夜空を溶かしたような藍色に染められた前あわせの長い胴着に、とろりとなめらかな乳の色をした羽織。襟や裾、袖口に施された咲き誇る薔薇の刺繍は豪奢な金糸。第二王子である、召し物は当然、全ての者の目を楽しませた。そして、本人も、それに等しく見栄えのする、開花を迎えたばかりの雄のかんばせ。

 その美しい生き物から、剣を受け取った。だが、重すぎて持つことができず、落としてしまった。

「ねえ、ゴラン・ゴゾール」

 すると、その美が、目の前で、どろりと赤黒く崩れた。さながら、熱に溶けるチーズのように。

「守ってくれると誓ったでしょう、それなのに、あなたは何をしていたのです?」

 若く溌溂とした鮮やかな声はたちまちしわがれて、醜く耳に残った。その場から逃げ出したくとも、足が動かない。立ち竦んだまま、接近を許した。ただゆっくり進んでくるだけのどろどろとした塊におくれを取るなど、騎士として、有り得なかった。有り得なかったのに。

「眠っていたですって? その間に、私をこんなにしてしまって」

 びちゃり。生々しい感触が、腕に触れた。

「私をひとりにするなんて。寂しかったのですよ、ゴラン・ゴゾール」

 びちゃり。びちゃり。びちゃり。肩に、背に、首に、腰に、まとわりついてくる赤黒いチーズ。

 ゴラン・ゴゾールは、叫んだ。


 ゴラン・ゴゾールは、己の叫び声で目が覚めた。

「あっ、ゴランどの! 気が付いたのですね……大丈夫ですか?」

 ……己を覗き込んでくる顔は、カストーノ・ノーリ・ペコ=ジョルマ・フォーツのものだろうか?

「――殿下?」

 ゴラン・ゴゾールは、思わず口に出していた。視界に飛び込んできた青年は、一瞬だけ緊張を見せたが、すぐににっこりと微笑む。

「混乱しているようですね……水、飲みますか?」

 目の前に皮袋の口が差し出される。混乱しているとはどういうことだろう。

 寝かされているようだった。喉が渇いていることに気付いて、皮袋の口に吸い付けば、優しい若者の手が、中の水を飲みやすいようにと袋を傾けてくれた。口腔内に温い液体が侵入してくる。ゴラン・ゴゾールは、喉を鳴らして、夢中になってそれを飲んだ。

「好きなだけ飲んでください」

 そんなことを言うなんて、水は大切にしなければいけなかったのではないか。ゴラン・ゴゾールは喉を絞って、掠れた声を出した。

「――殿下、おれは」

「私は殿下ではなくてカールですよ。カール・ポネマス。そんなに偉い人じゃないです」

 確かに、言われた通りだった。第二王子にしては物言いが丁寧で、命令するような調子ではない。ふと、砂漠にいるというのに、カールは穏やかで柔らかい声だ、と、ゴラン・ゴゾールは思った。

 そして気付いた。己は砂に叩きつけられたのではなかったのか?

 ゴラン・ゴゾールは、跳ね起きようとした。

「――うっ、どうなってやがる」

 刺すような痛みが全身に走った。跳ね起きることはかなわなかった。カールが背を撫でてくれたが、それでさえも痛い。

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