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 正気を失いかけているらしく、男は必死に逃げようとして、後退った。このままではまずい、何せ、金具のついている革の靴はこの男……青年しか身につけていないのだ。ゴラン・ゴゾールは、努めて冷静に振舞うべく、落ち着いた声色で語り掛けることにした。

「戒めを解きたい、その靴を履いているのは、あなただけのようだから」

「いやだ――く、靴がどうしました?」

「その、紐の留め金だ……あなたは後ろ手に縛られているから、難しいだろう。おれの戒めを解かせてくれたら、あなたのも解こう。約束する」

 青年は恐る恐る頷いた。よく見れば、まだ二十歳にもなっていないような若さである。第二王子と同じくらいかもしれない。己は装備も服も剥かれて下着で放り出されたが、靴を身につけているあたり、相当急いで引っ張ってこられたのだろうか。いずれにせよ、この若さで事実上の死刑となり、何も知らないとでも言いたげな表情で戸惑う青年を、ゴラン・ゴゾールは哀れに思った。同時に、まだ十八歳であった第二王子のことも思った。何とはなしに、似ている気がしたのだ。

 周囲に転がって恐慌状態に陥っていた罪人たちも、ゴラン・ゴゾールの落ち着いた声に気付いたらしい。ゴラン・ゴゾールが青年の履いている靴紐の留め金で縄を擦って切断し始めた時、彼らは口々に言い募った。

「終わったら、次はおれを頼む」

「おれのも解いてくれ」

「水、そこの水が欲しい」

 ゴラン・ゴゾールは近衛騎士であった。必死な表情で己に向かって訴えかけてくる彼らを哀れだと思った。その本分は主人を守護することであったが、己にとって騎士の心得とは、いついかなる時も弱きを助け、決して見捨てないことである。

 だから、青年が僅かに首を振って口を開いた時、ゴラン・ゴゾールは、耳を疑った。

「駄目だ――ご、騎士どの」

 何かを言い掛けて、やめたように聞こえた。

「何故?」

 真っ先に思ったのは、何故、困っている人々を助けてはいけないのか、ということだった。次いで、どうして自分が騎士であるということに気付いたのだろう、という疑問がわいた。

 青年は力強く首を振った。

「ここに放逐されるのは軽犯罪者ではありません、危険だ」

「……だが、困っている」

 砂を浚う風の音と共に、罵声が駆け抜けていく。凶悪な顔つきをした者たちが喚いていた。

「野郎、ぶっ殺してやる!」

「ここは砂鮫やら潜り鰐やら砂長竜やらの縄張りだ、人数が多い方がいいだろう!」

「ひとりふたりで、どうにかなると思えねえぞ!」

「そうだ、おれたちは困っている!」

「騎士は国民を守るのが仕事だろう!」

「騎士ひとりはちょっとまずいがな、おれたちに加えて騎士がいれば、砂漠の獣も怖くねえ」

「そこのデカい兄ちゃん、おまえの思う通りが一番いい」

 ゴラン・ゴゾールは戸惑った。砂鮫やら潜り鰐、砂長竜の名は知っていた。その姿をこの目で見たことはないが、人体との大きさの比較が描かれた絵図を見たことはあるし、砂から突如躍り出て哀れな獲物に喰らい付くというのも、読んだことがある。砂鮫も潜り鰐も、羊を一飲みにしてしまうくらい巨大だ。砂長竜に至っては、砂鮫や潜り鰐を捕食するというのだから、ひとたびあいまみえることがあったら、人であるこの身など、ひとたまりもないだろう。動ける人数は多ければ多い程良いのではないかと思えた。

 それに、騎士の称号は剥奪されたから今は違うと訂正したかったけれど、この場を律する為に使えるかもしれない。まだ黙っておこう。ゴラン・ゴゾールはそう思った。

「お察しの通り、おれはかつて騎士だった。十人程度なら不意打ちでも問題ない。武器はないが、砂鮫なら拳でも渡り合えるかもしれない……だが、気を付けろ」

 ゴラン・ゴゾールは急ぐことにした。身体のすぐ傍で、砂がさらさらとひっくり返した円錐形を作るように動いているのだ。自分の腕に巻きつけられた縄を革靴の留め具に擦りつける速度を上げる。

「残念ながら、おれは知識を本で得ただけだ。砂鮫が潜んでいる場所は、砂の流れが変わって、小さく陥没する。そこから砂が吹き上がったら、それが合図だ」

 ふしゅん、と、円錐の中央から、砂が吹き上がった。罪人たちが鋭く息を呑む。

「今こうやっておれが忠告するのも愉快な話だが、少しでも音を立てるのが一番危ない」

 ぶつん。

 腕をきつく縛っていた縄が、音を立ててちぎれ、落ちた。

「絶対に喋るなよ」

 ゴラン・ゴゾールは、すぐそこにあった背嚢を咄嗟に掴んだ。

 突如現れるのは砂の壁。見えたのは無数の牙と澄んだ空に似た鮮やかな蒼の口腔。傷だらけの胸鰭は、何度も同胞と縄張り争いを繰り広げた証。

 砂鮫。

 ゴラン・ゴゾールは、大きく振りかぶって、背嚢を投げた。

 砂鮫の、大きく開けられた口の中へ。

「水が!」

 誰かが叫んだ。口腔内に何かが入ったことを感じたらしい。眼前で、ばくん、と凄まじい音を立てて、砂鮫の口が閉じられた。ゴラン・ゴゾールは、すかさず横に飛んだ。砂鮫の巨体は、己がいたところに突っ込み、砂を掻き分けて潜っていった。

「おい、どうするんだ、ただでさえ貴重な水が――」

 一人の男が喚いた。まずい、と、ゴラン・ゴゾールは思った。

「何故投げた! 人よりも飯と水を残す方がいいだろう!」

 ゴラン・ゴゾールは、喚いている男に身体を向けて、見つめながら、じりじりと後ろに下がる。視界の隅で、青年が己の尻を使って、必死に後退っているのが見えた。口腔内に何かが入れば反射で口を閉じる、と、本には書いてあった。誰か他の者を投げ込むわけにはいかなかったのだ。ゴラン・ゴゾールは、元騎士である。

「そこの小僧をあの口に突っ込んでやればよかったものを!」

 だが、ゴラン・ゴゾールとて、己の命が惜しかった。この身は砂鮫ではなく第二王子の為にあった。でも、ちょっとだけ、真面目ではない時があってもいいのではないか、と思った。青年の言った通り、目の前にいるのは犯罪者だ。

「人が減れば水も増えただろう!」

 喚いている男の傍に、円錐形の窪み。ふしゅん、と吹き上がる、砂。

 ゴラン・ゴゾールは、くるりと身体の向きを変えて、逃げた。

「おまえ、どこへ行く――」

 その言葉は最後まで聞こえなかった。

 どん、という音。流れてきた砂に脚を取られかけて、ゴラン・ゴゾールは跳んで、転んだ。それでも、自由になった腕を使って、這って逃げた。ぱさ、ぱさ、と、何か軽いものが落ちる音が、幾つも聞こえた。巨大な何かが、ばくん、と閉じる音も、聞こえた。

 くぐもった叫び声が幾つも、ざらりざらりという砂のざわめきの間に消えていった。

 あたりは静寂に包まれた。

 ゴラン・ゴゾールは振り返った。誰もいない。奇妙に崩れた砂の上に、背嚢が五つほど落ちているだけだった。

「喋るなと言ったのに」

 皆やられてしまったのか。あの青年には悪いことをした。ゴラン・ゴゾールは、そう思った。

 と、向こうの方の砂が乱れて、ぷは、と呼吸の音が聞こえた。急いで行ってみると、必死に後退りをしていた青年が、砂の中から顔を出していた。

「……手を貸してください、騎士どの」

「お安い御用だ」

 生きていたのだ、よかった、と思った。ゴラン・ゴゾールは、青年に手を貸して、砂の中から身体を引き上げて靴を脱がし、留め具で力任せに縄を切ってやった。げほげほと激しく咳き込む彼に、打ち捨てられていた背嚢を拾い、皮の水袋を取り出して渡す。青年は、ありがとうございます、と言って、一口だけそれを飲んだ。唇の端から漏れた水が一筋、髭のないつるりとした顎を伝って、玉のような首元を滑り、薄い胸の方へ落ちていった。

「助かりました」

 ふう、と一息、水袋を差し出して、青年は目礼をする。麻色の髪、青に近い不思議な色の双眸、手入れの行き届いた肌に、綺麗に整った所作。中性的で、端正な顔立ちだ。ふと、その若さに、第二王子がいつも浮かべていた柔らかい笑顔の面影が重なって、ゴラン・ゴゾールは、首を振った。

「……助けられなかった」

 ゴラン・ゴゾールは、軍事学を身につけた騎士であった。砂の世界の獰猛な巨大生物相手ではあるが、立ち向かえるかもしれない人材を喪ったのは痛手である。

 と、青年が眉を上げて、微かに首を振った。ゴラン・ゴゾールの腕に触れてくる。

「……まあでも、水と、食料と、投げられるものは、増えましたから」

 彼はそんなことを言って、落ちている背嚢を集め始めた。

 慰めてくれているのだろうか。それにしては言葉がいささか物騒だ。いい性格をしている、と、ゴラン・ゴゾールは思った。


 青年は、カール・ポネマス、と名乗った。

「私は、お城でお偉いさんに仕えていたのですけれど、昨日の朝、何が何だかわからないうちに捕まえられて、気が付いたらここにいたのです」

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