スミマセン……放してクダサイ……

 


 何処か違う世界に行きたいと願っていた。


 あの話を聞いたときから――。




 何故、墓場まで持っていってくれなかったのか、その秘密を。





 昼休み、未悠は社食でバッタリ、堂端どうばしと出くわした。


 どうも、ああ、とかいう挨拶を交わしたが、気まずいこと、この上ない。


 未悠は、急いで食べ終わると、みんなの会話に、さりげなく、

「トイレ」

と折り混ぜ、トレーを手に、すうっと抜けた。


 急いで社食を出、ふう、と息をつこうとしたが、後ろから、やけにせわしない足音が聞こえてくる。


 振り向くと、廊下を歩いてくる堂端が見えた。


 刑事のような隙のない目でこちらを見据え、やってくる。


 ひーっ、私、なにかしましたかっ?


 いや、したか、と思いながらも、早足になる。


 何度も振り返るが、自分より歩幅の大きな堂端はじりじりと近づいてくる。


 そのまま廊下の端のエレベーターのところまで行ってしまった。


 ははははは、早くっ。


 早く来てーっ、と閉まっている扉を前に、未悠は、カチカチとボタンを連打する。


 だが、ドン、とそのボタンの横に誰かが手をついた。


 ひっ、と身を竦める。


 後ろから壁ドンッ!


 いや、相手にそんなつもりはないのだろうが。


 追いつめられたネズミのように、勢いよく振り向くと、真後ろに居た堂端の影が自分にかかった。


 堂端が間近に見下ろし、言ってくる。


「……海野」


 はははは、はいっ、と怯えながらも返事をすると、

「奢ってやろう」

と堂端は言った。


 は?


「奢ってやろう、珈琲。

 朝の詫びに」

と言う。


 詫びって、なんのっ? と思いながら、未悠は固まっていた。





「奢ってやろう、珈琲。

 朝の詫びに」

と堂端は言った。


 社長の愛人……


 とつい、さっきまで思っていた未悠が怯えたように自分を見上げている。


 悪いことをしてしまったようだ、と思っていた。


『……未悠は俺の愛人じゃないぞ』


 自分の言葉に、社長はそう言ってきた。


 そして――


『そいつは俺の妹だ』

と。


 どうやら、社長にはしたくない話をさせ、未悠には聞きたくない話を聞かせてしまったらしい。


 あのとき、社長を見上げた未悠の顔が忘れられない。


 喫茶室では、こみ入った話はできないだろうと思い、珈琲を買って、小会議室に連れていった。


 だが、後悔している。


 ……話を聞いてやろうと言ったことを。


「それで、貴方そっくりの怪しい男に連れられ、城に行ったら、何故か、王子妃に選ばれてしまったんですよー」


 本当に後悔している。


 話を聞いてやろうと言ったことを……。


 なんの話を始めたんだ、この女、と思いながら、延々と異世界の話を続ける未悠を眺める。


 見た目が、如何にも一流企業の秘書風なので、違和感が余計にアリアリだ。


 社長と兄妹だったことが衝撃的過ぎて、夢の世界に入ってしまったのだろうか?


 だが、聞くと言った手前、聞かねばなるまい。


 自分も未悠の話から逃避しようと、眼鏡を外すと、視界をぼんやりさせて、珈琲の香りだけを嗅いでいた。


 すると、すぐに察した未悠が、

「聞いてますかっ、堂端さんっ」

と言ってくる。


 無駄に勘のいい女だな……。


「もう~、堂端さん、責任とってくださいっ」

と言われ、聞き流そうと思っていたのに、


「……なんのだ?」

と思わず、訊き返してしまう。


「だって、貴方とそっくりなシリオが私を城まで連れてっいって。

 なんだかんだで、此処へ帰ってきて、今、聞かなくてもいい話を聞いちゃったんじゃないですかーっ」

と未悠は主張する。


「……聞かなくてもいい話を聞いちゃったのところは誠に申し訳ないとは思っているが、その前段階に、私は関係なくないか?」


 というか、そのシリオとやらも関係なくないか?

と言うと、


「そうですよね、すみません」

と謝ったあとで、未悠はチラと上目遣いにこちらを見、


「でも、あまりにもそっくりなんで、つい」

と言う。


 会ったこともない、この女の妄想の中の人物だろうが、シリオとやらを、ちょっと殴りたい、と思ってしまった。


 ……しかし、妄想の中の登場人物として俺が登場するということは、少しは俺に気があったり……はしないか。


「すみません。

 堂端さん、全然関係ないのに。


 きっと、誰かに八つ当たりしたかったんですよ、すみません」


 ちょっと混乱してるので、と未悠は言ってくるが、いや、俺はそんなお前を前にして、もっと混乱しているが、と思っていた。


「どうもありがとうございます、堂端さん。

 わけのわからない話を聞いていただきまして」

と未悠は自分の両手をつかんでくる。


 申し訳ございません、申し訳ございません、と頭を下げた。


「……手を放せ」


 そう言うと、え? と未悠は顔を上げる。


 ああ、すみません、と苦笑いして、手を放した。


「なにかこう、人肌に触れていたくて。

 人の体温を感じると、ああ、現実なんだな、と思えるんです」


「それはともかく、不用意に男の手をつかむな、密室で」

と言うと、すみません、と繰り返したあとで、未悠は、


「でも、堂端さんは、私のことなど、なんとも思ってらっしゃらないんでしょう?

 じゃあ、いいじゃないですか」

と言ってきた。


 思わず、沈黙してしまう。


 そのまま未悠が黙っているので、間を持て余し、つい本心をもらしてしまった。


「……いや、お前は結構、俺の好みだ」


 未悠は不思議そうに小首をかしげたあとで、

「でも、いつも邪険にしてくるではないですか」

と言う。


「それは、お前が社長の愛人だと思っていたからだ」


 そう言うと、未悠は今朝の社長の話を思い出してしまったらしく、深く溜息をついた。


「だから、私の手をつかむなっ」


 未悠は勝手に堂端の手をつかむと、仔猫が肉球で、母猫の胸を押すがごとく、両の親指で、交互に手を押してくる。


 無意識のようだった。





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