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 ユジノサハリンスク空軍基地の駐機場エプロンでは、格納庫から出された4機のSu-27《フランカー》が発進準備をしていた。ライトブルーとグレイの迷彩塗装を施された大型戦闘機の脇で、リュビモフは背伸びをする。翼端や胴体下のレールに取り付けられた赤外線追尾式ミサイルを掴んだ。両手でぶら下がるようにして揺さぶり、しっかりと固定されていることを確認する。

 コマロフはリュビモフのすぐ後ろに立っている。緊張で強張った顔は血色が悪い。何日も満足に寝ていない様子が一目で分かった。飛行前点検を終えたリュビモフは振り返った。コマロフは力ない笑みを浮かべて声をかけた。

「ご満足いただけましたか、中佐?」

「ああ」

 リュビモフはうなづいた。

「完璧だ。アメリカ人の得意な言い回しを使えば、100%という奴だ」

「そうですか」

 コマロフは肩を落とした。

「どうした?何か気に障ることでも言ったか?」

「120%を目指したつもりだったんです。だから、20%はどこが足りなかったかなと」

 リュビモフは苦笑した。

「傲慢だな」

 コマロフはわざと生真面目な顔つきで言った。

「我らが隊長―貴官を見習ったつもりなんですが」

 2人は格納庫に隣接する整備小隊の詰所に入った。詰所と言っても工事現場によく設置されているコンテナハウスのような小部屋だった。防寒設備は無いに等しい。低い室温に2人の鼻や口から白い湯気が立ち昇る。窓はオホーツク海から吹き込む冷たい風でガラスも木枠もガタガタと鳴っていた。

 コマロフはポットから真っ黒な紅茶をマグカップに注いた。

「同志中佐、ジャムは入れますか?」

 リュビモフは首を横に振った。

「甘い物を食べると太りやすくなるからね。妻は私が太るのを嫌がるんだ」

「奥様はボリショイ劇場のプリマ・バレリーナでしたね」

 コマロフはマグカップを手渡した。リュビモフは窓際から外に眼を向ける。

 Su-27はいずれも排気口を格納庫に向けて並んでいる。翼端と翼端よりの主翼下に合計4発の赤外線追尾式ミサイルR-73M1、主翼下内側のパイロンにセミアクティヴレーダー誘導ミサイルR-27R1を2発それぞれ搭載していた。右舷ストレーキ上面に搭載した30ミリ機関砲に約300発の実弾を積んでいる。長く垂れ下がった機首にN001Vレーダーを収納している。

 ロシア空軍の戦闘機パイロットはSu-27を特徴的な機首から「小鶴ちゃんジュラーヴリク」と呼ぶ。双発・双尾翼で10トンに及ぶ兵装を搭載でき、航続距離は4000キロを超える巨大な戦闘機のニックネームにしては可愛らしすぎる。最近では、国内でもNATOコードネームである《フランカー》と呼ぶ戦闘機パイロットは少なくない。

 リュビモフは内心で高揚していた。日本政府がジェット・スカイライン社を通じて応答したのが約2時間前。《キキモラ》の要求を承諾する旨の回答だった。人質同然だった旅客機―ジェット・スカイライン954便は解放され、半時間前にユジノサハリンスク空港を離陸した。リュビモフはコマロフに尋ねる。

「旅客機に何も異常は無かったんだね?」

「はい、日本上空まで問題なく飛行できます。あとは貴官らの領分になります」

 第202戦術戦闘機飛行隊は警戒待機任務に就いている。日本の政府専用機がロシア領空内に進入してくれば、レーダーサイトから要撃指令が下される。もし日本空軍の戦闘機が護衛していたとしても問題は無い。飛行隊の戦闘機パイロットたちは誰もがウクライナやシリア上空などで戦闘経験を豊富に積んできている。リュビモフは自身の眼でそのようなパイロットを選抜して飛行隊に引き抜いてきた。

 リュビモフは紅茶をひと口含んでから言った。

「同志大尉、燃料の件は本当にご苦労だった」

「私も本作戦に参加できたことを誇りに思います」

「本当に・・・」

 リュビモフは言葉に詰まった。コマロフは首を傾げる。常に精密機械のように落ち着いている中佐には珍しいことだった。リュビモフは喉にこみ上げてくる熱いものを感じる。

 極東地域に配備された戦闘機部隊は1976年、防空軍所属のベレンコ中尉が当時の最新鋭機MiG-25で日本に亡命する事件が起きて以来、戦闘機に燃料を満載することは出来なくなっていた。国境付近まで飛行できるだけのギリギリの量しか積まない。

 コマロフは飛行隊に配給される燃料を少しずつ横領していた。基地の地下に秘匿した燃料を来る日に備えて貯め込んでいた。実質的に2年がかりの作業だった。リュビモフたちは基地を飛び立てば二度と帰ってこない。この後も基地に残るコマロフは過酷な追及を受けるだろう。

 コマロフは軍事裁判にもかけられずに抹殺されるだろう。リュビモフは不吉な憶測を脳裏から追い払わなかった。その事実を真正面から受け止めなければ、眼の前で微笑んでいる男に申し訳が立たない。リュビモフは窓から離れ、腰に右手を回した。9ミリ拳銃をコマロフに差し出した。薬室に実弾が1発入っている。コマロフは黙って拳銃を受け取った。

 刹那、基地全体にベルがけたたましく鳴り響いた。リュビモフはただちに小部屋から駆け出していた。飛行隊に所属する他の3人―マリノフスキー、ラスキン、ユーシチェンコもそれぞれに割り当てられた機体に駆けつけた。パイロットたちは梯子ラダーを蹴るようにして上がり、K-36D射出座席に収まる。機付長がハーネスの装着を手伝い、整備兵が発進前点検を行う。

 コマロフは小部屋の窓際に立った。部下の整備兵たちが4機のSu-27を問題なく送り出せるか心配だった。次々に1機につき2基搭載されているリューリカAL-31Fターボファンエンジンが始動して冷えた空気を震わせる。

 発進前点検を終えた戦闘機から梯子ラダーを外され、コクピットを覆う透明な涙滴型風防キャノピーを閉じる。リュビモフはコマロフに視線を送る。

《ありがとう》

「ご武運を、中佐」

 コマロフは背筋を伸ばして敬礼する。駐機場エプロンを出たSu-27からゆっくりと滑走路に向かった。2機ずつ並んだSu-27は順次、アフターバーナーを点火して発進する。コマロフは9ミリ拳銃をこめかみに押し当てる。離陸するSu-27の轟音が基地じゅうに響き渡る中、コマロフは躊躇わずにトリガーを引いた。

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