[7]
不意にイヤレシーバーから声が弾けた。
「
その日、編隊長機を駆っていたのは飛行班長の堀井だった。下方にいる敵役の《イーグル》は篠崎が操縦している。千歳基地を離陸した直後に2番機が機体の故障を発見して引き返したため、篠崎の1機に対して堀井と三雲の2機編隊がかかるという
「必殺技を見せてやるよ、ミッツ」
苫小牧沖の演習空域に到達した時点で篠崎機と、堀井機と三雲機の2機編隊に分かれた。当初の予定通りに堀井と三雲のペアが高度25000フィートまで駆け昇り、高度15000フィートで侵入してくる篠崎機を要撃するという想定で進められる。
高い位置から逆落としに攻撃を仕掛けられる。堀井機と三雲機のペアが状況としても有利である。2機の《イーグル》は位置エネルギーを運動エネルギーに変えて加速する。三雲は操縦桿をわずかに左に倒す。編隊長機との距離を広げて、ルーズな隊形にする。堀井の怒鳴り声が耳元に弾ける。
「
身体にマイナスGを受ける。胃の底が持ち上げられるような感覚。三雲はその不快感を奥歯でかみ殺しながら、ヘッド・アップ・ディスプレイの右側に視線を向ける。
高度3000フィートほどに広がっている薄い層雲。その雲を透かして青黒い色をした太平洋が見える。海を背景に、ふた筋の白い線が弧を描いている。急上昇を仕掛ける篠崎機が翼端から水蒸気の帯を曳いているのだ。
三雲は帯の先端に眼を凝らす。黒点がかすかに揺れている。無我夢中で無線機の送信スイッチを入れる。酸素マスクの内側に声を吹き込む。
「
レーダーのスイッチを入れる。だが、中射程ミサイルのミニマムレンジをあっという間に割り込んでしまう。上空から逆落としにかかる2機と、下方から突き上げてくる1機の相対速度が音速をはるかに超えているのだ。
瞬時の垂直戦だった。
三雲は兵装セレクターを短射程ミサイルに切り替える。ヘッド・アップ・ディスプレイにポンとコンテナが浮かび上がる。シュートキューがするすると篠崎機に寄っていくが、間に合わない。篠崎は機首を真っ直ぐに向け、2機の間を割り込む。ロックオンする頃には擦れ違い、ロックを外されてしまう。あとわずかでロックオンする。その間際に、右前方から篠崎機が突き抜ける。
三雲は《イーグル》を横転させる。操縦桿を股間に引き付け、機体を引き起こす。急降下していた機体の速度はマッハ1・3。機体を引き起こすにつれて、ヘッド・アップ・ディスプレイに映し出されるGメーターの数値が跳ね上がる。
4、4・5、5、5・5、6―。
重力に抗しきれなくなった脳内の血液が下降する。酸素不足にあえいだ脳はまず視野の色を消す。モノトーンの世界で、クロスターンする編隊長機を視認していた。三雲は顎を持ち上げようとする。敵機を探さなければならない。だが、6倍の重さになっている頭はびくともしない。皮膚の表面が圧迫され、毛細血管が破裂する。全身がビリビリする。
視野が狭窄し始める。ブラックアウトだ。Gメーターを見る余裕などない。ジェット戦闘機同士の空中戦はせいぜい1分か2分と言われている。激しい機動がパイロットを痛めつけるからだ。神経は鋼鉄製のヤスリで削り取られるようだ。
前方に堀井機、その先に篠崎機。太陽。
視野の半分以上はまだ闇に閉ざされている。ヘルメットの内側に仕込まれたイヤレシーバーからオーラルトーンが聞こえる。AAM-5赤外線追尾式ミサイルの弾頭に内蔵された
ミサイルが敵機を捉えたことを知らせてくる。編隊長機に反応しているのか。篠崎機を捕らえているのか。三雲はとっさに判断がつかない。
イヤレシーバーから堀井の悲鳴が聞こえた。
「ロストした!どこだ?」
Gが抜ける。不意に視野が明るくなる。編隊長機は上空、右斜め前を飛行している。だが篠崎機はいない。その先を一瞬前まで飛行していたはずだ。
「
刹那、笑いを含んだ篠崎のコールが聞こえた。慌てて周囲を見回した三雲は下方から上昇してくる《イーグル》を発見して呆然とする。篠崎はいつの間に機体を後方に遷移させていたのである。
《ちくしょう。これがアイツの必殺技ってヤツか―》
三雲は今でも唇を噛む思いが募る。篠崎の機動には1つ1つに意味があり、たとえ単に右旋回を切るだけでも二手先、三手先を読んで《イーグル》を動かしている。たまに首を傾げたくなるような動きを見せても大抵が相手を陥れるための罠になっている。うかつに飛び込めば、搦めとられ、背後に衝かれてしまう。
いま三雲が飲んでいるワイルド・ターキーは篠崎がこの店でボトルキープしていた酒だった。ボトルの首に掛けられたプレートを一瞥する。プレートにはボールペンで篠崎のタックネームである《シン》が書き込まれている。名前の音読みと好きな漫画の主人公から取ったという話を以前に聞かされていた。三雲のタックネーム―《ミッツ》は苗字の三から飛行班長が名付けた。テレビによく見かける女装家のタレントを連想させる名前なのであまり好きではなかったが、上司の決定に逆らうことは出来なかった。
いつまでも篠崎の技量に追いつけないような気がする。今日のシミュレーション訓練でもそうだ。三雲はターゲットに向かって突っ込みながら、ちらりと後ろを振り返っている篠崎の姿が眼の前に浮かぶように思えた。
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