[8]

 バーボンを口に含む。舌が痺れてきた。酔いは一向に訪れない。シミュレーション訓練で実機を操縦する時と同じ興奮が味わえるわけがない。だが、今は身体に熱が残っているような感じがしていた。アルコールのせいではなかった。訓練終了後に三雲、堀井がテーブルを囲んでブリーフィングが行われた。

 堀井は短躯だった。昔から名人と呼ばれるパイロットの多くは小柄だった。小柄でガッチリした体型の方が重力に耐えやすいと言われる。シミュレーション訓練中に三雲に指示を飛ばしていたのは堀井だった。

「とっさの機転で、《プガチョフ・コブラ》をやったのは評価しよう」

《プガチョフ・コブラ》とは三雲がシミュレーション訓練で相手をしたSu-27が出来る変則機動のことだった。

「だが、実戦だったら確実に死んでたぞ」

「何故ですか?」

 三雲は頬に血が昇るのを感じる。堀井は落ち着いた口調で答えた。

「デッド・シックスががら空きだったからな」

 デッド・シックスとは時計の6時方向、すなわち自機の真後ろを指す。真横にいる敵機も撃墜できるオフ・ボアサイトの攻撃能力があるとはいえ、F-15にしても背後にいる敵機を攻撃できない。そこに敵機を発見すれば、次の瞬間には撃墜される。

 敵を決して真後ろにつけさせるな。飛行機が初めて戦争に投入された頃から、戦闘機パイロットにとっては鉄則である。それは現在でも変わっていない。ヒヨコの頃から繰り返し叩き込まれる。特に、敵機を照準環に捉えた時が最も危険になる。

 デッド・シックス。グラスの中で、氷が涼しげな音を立てる。同じ言葉が何度も脳裏をリフレインする。

「もっと怖がれ」堀井は言った。

「どういうことです?」

「お前、何かスポーツは?」

「小学生の頃からサッカーを」

「そうか。俺は昔、ボクシングをやってたんだ。高校生の頃だ」堀井はタバコをくわえる。「あれは怖い。まず相手のパンチを食らうのが怖い」

 三雲は思わず眉を寄せる。堀井の言葉を理解しかねていた。堀井は構わず続ける。

「最初、相手のパンチをじっと見てろと教わるんだ。コーチにな。相手の拳が当たるか当たらないか、そのギリギリのところでかわす。それを見極めろと言うんだ。ところが、それが難しい。高校生のガキだろ、相手も俺も。どっちも眼えつぶってジャブでもストレートでも打つわけよ。それを見てろと言われる」

 堀井はタバコの灰を灰皿に落とす。それからタバコを深く吸い、紫煙を吐き出す。

「でもな、最も怖いのは相手を打ちに行く時だ。ボクシングにはカウンターがある。こっちが飛び込んでいく。そこに相手がこっちの動きに合わせて拳が飛んでくる。一度ひどいのを食らったことがあってな。相手は俺よりも痩せてて、眼も悪い。いつも眼鏡をかけてるような奴だった。だから、俺はナメてたんだな。相手は動きも鈍そうだったし、楽勝だと思っちまった。それで何も考えずに、右のストレートを繰り出した。頭の中にあったのは、高校の試合としては珍しいノックアウトよ。試合の後、学校に行けば一躍ヒーローだってな。もっともボクシングなんてマイナーだからさ、お前みたいにサッカーやってた奴ほどモテるわけなかったんだけどな。ただ、俺もそれまで相手をノックアウトで倒したことなんてなかったからさ。相手を見て、こいつはチャンスだと思ったわけだ」

 三雲は堀井の話を聞いていた。

「自分が右ストレートを出したところまで覚えている。その時、眼の前が真っ暗になった。相手のカウンターをまともに食らったんだ。相手はそれだけを待っていた。後でコーチに聞いた話だけどさ。食らった瞬間なんて、ガーンと来てさ、それっきり。眼が覚めたら病院で寝てたよ。初めてノックアウトするつもりが、完璧なノックアウトを食らったんだな」

 最悪だよな。堀井は苦笑いを浮かべてタバコを消した。

 三雲はじっと堀井を見つめていた。

「打つってのはよ、怖いんだぜ、三雲。その時の経験のおかげでさ、機関砲を撃つ時にも必ず自分が撃たれることを考えるようになった。攻撃は最大の防御というが、攻撃をしかける時は隙だらけだからな」

 堀井は右手を軽く握って見せた。伸ばした人差し指をきゅっと曲げて見せる。

 2時間ほどの間に客は1組、2組と店を出て行った。三雲は腕時計を見る。午後9時を少し回ったところだった。カウンターの出入口近くに若いカップルが1組残っているだけになった。馴染み客との会話に解放されたらしいママが話しかけてくる。

「日本酒になさる?」

 三雲は首を横に振る。グラスの融けた氷で、バーボンがセピア色になっている。

「もうこれで最後にする。明日も宮仕えだし」

 ママがタバコに火を付ける。

「三雲さんが独りで来るなんて珍しいわね。いつもは篠崎さんと一緒でしょ」

「そうだったかな」

「そうよぉ。2人でバーボン飲み始めると、いつも飛行機の話。よく飽きないわねえって思ってたわ。あの時は俺が勝った。いや、俺が勝ったって。子どもみたいにね」

 周囲から子どものように思われても仕方がないだろう。三雲は胸の内でひっそりとそう思った。戦闘機パイロットは基本的に負けず嫌いだ。時に訓練とはいえ、空中戦の勝敗が人生を変えることもある。今夜は堀井や篠崎が入れ替わり立ち替わり脳裏に現れてくる。

 2か月前の夜だった。三雲は隣のストールに座った篠崎を一瞥した。篠崎は店の奥にある小さなステージをぼんやりと眺めている。茉優と中年男性がステージのカラオケで下手くそなデュエットを歌っていた。疲れているんだろう。今日は昼間に突然、ホット・スクランブルが発令されて篠崎が対処した。三雲はそう思った。

 不意に、篠崎が三雲に眼を向ける。顔に不敵な笑みを浮かべている。

「明日の訓練、賭けようぜ」

「何を?」

「どっちが先に彼女にプロポーズするか」

「はあ?」

「分かってるよ、お前の気持ちは。だけど、俺も譲れない」

「バカなことを言うなよ。大体、相手の気持ちを確かめたわけじゃないし・・・」

 篠崎が顔を寄せてくる。鼻先がほとんど触れ合うぐらいの近さだった。

「いいか、彼女の気持ちは関係ない。俺たちがプロポーズする順番を決めるだけで、先に交戦マージした方が撃墜される可能性は十分にある。そうだろ、ミッツ?」

 先にマージした方が何だってんだ。氷で薄くなったバーボンを一気に流し込む。太い息を吐いた後、三雲はストールから腰を上げた。ママに料金を払って店を出る。マンションに帰ろうとして歩き出したが、脳裏は靄がかかったような感じだった。

 ようやく酔いが回って来たようだった。三雲はぼんやりとした頭で考え続ける。

《アイツなら、どうしただろう―》

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