第 拾弐 輪【据え膳は残すべからず?それとも食わぬは恥?】

「すみませんです。すみませんです。すみませんです。ですですですっ!!」


 慌てふためきながら猛烈に抱き付き、謝り続ける楓美のそんな声がした。


 謝罪の弁は頭上を通り過ぎて消え、後頭部に柔らかな感触が触れた。

 

 思い詰めたように呆然と外の景色を眺める桜色の瞳。


 その表情とは相反して、豊潤な果汁したたる甘い口元。


 腫れ上がるたんこぶを押さえ、もぐもぐと咀嚼そしゃくしながら答える。


大丈夫だよはいひょうぶはよ窒息して本当に死にそうだけどねひっしょくひてひょんほうにひにほうはへどへ


 真ん丸の桃に小さな歯形が付き大粒の雫が喉を通過した。


 身体全体が至福の喜びを感じながら嬉し涙を流す。


 祖父が酒を飲んだ際に良く言っていた言葉。

五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡る〟の意味が分かったのか、意に介さず笑顔を弾けさせる。


「ん、この瑞々みずみずしさ……百点満点だ! お風呂は汗かくんだから糖分補給は大事だよね~」


「もうっ! それは食べる物じゃないですよ~。周りの人達からも白い眼で見られてますし……んぐっ」


 何処までも能天気な桜香に困惑を隠せない楓美。


 その潤んだ唇に食べ掛けの桃が僅かに触れる。


「そんな言うなら、一つ食べてみる? ほれほれ! この匂い、この見た目、きっと驚くこと間違いなしだよ!」


 眼前で桜香の手の平を舞い踊る桃色の果実。

 視覚に、嗅覚に、触覚に、聴覚に、執拗に訴えてくる。


 しかし、そこは理性の働く楓美……手が届いても突っぱねた。


「う・ち・は・い・ら・な・い・です!! 断固として誘惑には負けませんです!」


「まぁまぁ、そう遠慮しないでさぁ~ほれ~っ」


「無駄です桜香様。確固たる意思を持つうちは屈しまっ――!?」


 大口を開けた一瞬の隙を突かれ投入された桃を一口だけかじってしまう。


 瞬間的に全身を巡る稲妻は雷鳴を轟かせる。


 頬が落ちてしまいそうな衝撃は、頭から爪先まで経験したことの無い高揚感を与えた。


美味んま~いぃぃ!?!? 天然の温められているせいか熟した実は甘くとろける幸福を運び、鼻腔を抜ける豊潤な香りは内側から溢れる元気の源……。更に噛めば噛むほどに果汁が源泉の如く溢れ出てきて、無限に広がる様は正に〝天下無敵の果物王〟!! 文句無しの満点です~とっても美味です~」


「分かる分かるよ!! 何だろう。もう、長年離れていたけどやっと出会えた身体の一部って例えがしっくりくり感じ! 驚きで手が震えちゃう!」


「ふふふふっ」


「あはははっ」


 人は本当に旨い物を食べた時は無防備となる。


 それは無限に広がる宇宙のような喜びで、不気味なほど笑みが止まらなくなるからだ。


 これ迄の疲れが嘘の如く吹き飛び、体感で五歳ほど若返った様だと後に語るのはまた別の話。


 魔性の果物に翻弄されること十数分後――しばらくして正気を取り戻した二人。


「何だかどうかしてたみたい。〝旬の桃〟恐るべし……」


「はい。大変勉強になりましたです。我ながら楽しんでしまいましたです」


 恥ずかしそうに肩まで湯へと浸かりながら、何事もなかったかのように束の間の休息を楽しむ。


 美容に効く湯を優しく肌に馴染ませている楓美。


 外へ一番近いふちに組んだ腕を置き、その上に顎を乗せた桜香。


 少しだけ不安とあどけなさが残る表情をしている。


 ふと、ため息混じりに呟く。


「思い返してみればさ。私って欠点だらけの〝駄目駄目人間〟だと思う。身体中穴だらけと言っても過言ではないのかもしれない」


「いっ、いきなりどうしたんですか? 


「だってさ、世界で一番自分が不幸だと思ってたんだ。お母さんもお父さんも、お婆ちゃんやお爺ちゃんだっていないから――花は栄養がないと枯れちゃうように、私は今ね。愛情の水が足りない感じ」


「桜香様……そんな事は……」


 かける言葉が思い付かない楓美が聞くのは、反対側にいるもう一人の桜香による本心の言葉。


猪突猛進ちょとつもうしんで行き当たりばったり。これから先のこと何て考えたことなかったし、今どうあるべきかでさえ自分だけじゃ分からない。結局、決めるのは私なのにさ」


 何時か訪れる大きな壁の一つに直面していた。


 普段は明るく笑顔で元気一杯に振る舞うのは周りのためだった。


 人は誰だって生きていれば、命有る限り辛く苦しい現実にぶつかる時もある。


 限界を乗り越えるのも、確立した規定を壊すのも、事実を無視するのも、全ては己自身。


 だが、


 楓美がおもむろに浮いている桃を思いっきり頬張ほおばった。


「ねぇ、桜香様。この桃を見て下さい」


「ふぇっ?……」


 左人差し指と親指で上下を持って地球儀のように回して見せる。


「一見して欠点がなさそうでも、これを少しだけ回すだけで反対側には歯形がありますよね? 物事は一つだけを考えているだけじゃ答えには辿り着けないんです」


「でも、隠れただけで付いた穴は埋まらないよ? 結局は解決してないじゃん」


「で・す・が……。うちから見れば。〝視線〟が違えば変わることだってありますし、〝視点〟を変えて分かることもあるんですよ。要は柔軟な〝見方〟次第なんです!! だって、この世に完璧なんて存在しないんですから」


「何だか簡単そうにも思えるけれど、反対に難しくも聞こえる……不思議。楓美ちゃんて、たまに大人っぽくなるよね」


「ふふん。こう見えて六人の姉弟がいる長女ですから!」


 胸を張り鼻を鳴らして御満悦な笑みをした。


「実際、そんな物なのかなぁ?」


 桜香が感心して頷いていると大きく息を吸った楓美が潜る。


 両太股に頭を通し、そのまま無防備な身体を持ち上げた。


「え、え、えっっちょちょっと何!? 高い、高いよぉ」


「少しだけうちの身長では高過ぎましたけど……それよりも景色はどうですか? 明日行く場所――〝花の守り人の本拠地〟はちゃんと見えますか? 見る距離は変わらないんですけどね」


「うっ、うん。しっかり見えてるよ」


 少しだけ戸惑いながらも不思議な感覚に魅了されていた。


 同じ物でも移り行く天気のような気持ち次第で視野が大きく広がることに。


「あそこにお母さん達がいたんだよね。実感はあまり湧かないけど、一歩でも近付けたことが素直に嬉しいんだ」


「なら良かったです。御自身の眼で見るのとそうでないとでは雲泥の差ですからね」


「これからは仲良く二人三脚だね」


「はい、一緒に進みましょうです」


「必ず、必ずなろう。先ずはそこだ」


「必ずなってくださいね。うちは何処まででも着いていきますから」


 二人して大きく息を吸って叫ぶ。

 いつか叶う夢見た未来へ届くように――


「「花の守り人麺職人に!!」」


「「え!?」」


 同時に楓美は上方を、桜香は下方を、それぞれの瞳を覗き込んだ。


(あれ、聞き間違いかな? 〝麺職人〟?……そういえば私、思い付きで言っちゃったなぁ)


(変ですね……桜香様の姿が可笑しいような……こう何にか)  


 何とも表せない空気感が漂う中で、見知らぬ老婆が楓美の肩を叩き無言で手を差し出した。


 目の前には見覚えのあるぐったりとした二枚の白い布。

 それは恥ずかしがり屋な肌を隠すための――


「「降ろしますです降りようかな」」


 会釈をして受け取る楓美と桜香は、不気味なほど冷静だった。


 上がる時の通りすぎ様に他のお客さんからの声がした。


「裸の付き合いが出きる仲が良い姉妹だこと」


「最近の子は大胆だねぇ。自身があることは良いね」


「久しぶりに若い大小の桃が沢山あったわい」


 と、言われたりもしたが火照る頬を両の手で隠した。


「ちょ、ちょっと逆上のぼせちゃったかも」


「はい。今日は色々とありましたから、お部屋でゆっくり体を休めて明日に備えましょう」!


「その前に待ちに待ったご飯だ!」


「あっ、忘れてました。どんな料理が出るのか楽しみですね」


「そうと決まれば……うぎゃぁぁぁぁあ!!!」


 熱々の上がり湯をして悲鳴を上げながらも再び走り出す桜香。


(素直に真っ直ぐに今の自分を愛する……か。まだまだ学ぶことは沢山ですね)


 普段は臆病気質の楓美自身も、背中を押されて少しずつ成長していた。


 思い返してみれば何だか色々とあった一日がこうして幕を閉じる。


 新しい出会いや物語への歯車が今まさに動き出そうとしていた。






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