第 拾壱 輪【気遣う山と谷一渓】
戸を開けば熱気を纏う一陣の風。
龍の如くうねり立ち上る湯煙。
沸き立つ源泉が止めどなく流動する。
内と外の世界は違えど、一糸乱れることのない調和した環境音。
「「こ、こ、これが……お風呂!!?」」
二人が声を上げた先には両手を目一杯広げても足りることはなく。
左右へ見回さねば二対の瞳にさえ収まらない、大きな大きな貸し切り露天風呂がありました。
それもその筈、最大収容人数は約百人強。
花の都でも指折りの最高級旅館なのです。
「ねぇ、楓美ちゃん。私は見たことないんだけどさ。ここは大海原ってところ?」
「違うです桜香様。恐らく極楽浄土かも知れません。ほら、死した人が何れ行くと言われる……いわば天国です」
「あっ、ならさ。お母さんいるかな? 顔も覚えてないから会えるといいな」
「え?」
触れてはいけない地雷を楓美が踏みかけたその時――
甲高い音を携えて他の宿泊者の
遠く、遠く、 まるで息をするようにすんなりと身体の芯に染み渡り心地良く反響した。
「あっ、何処かで嗅いだこの匂い……懐かしいな」
「ここに居ると凄く落ち着きますね」
漂う甘い香りが魅惑の
遡ること数分前――
何故か自信満々の桜香と挙動不審の楓美に、受付の人は丁寧かつ定番の質問を投げ掛ける。
「お客様。先ずは御風呂になさいますか? それとも御食事になさいますか?」
「勿論――
二人同時に体半分以上を台へ乗り出して叫んだ。
真逆の意見を口にしたせいか互いに眼を見合わせる。
「楓美ちゃん。私はお腹が空いたので先に食べたいです!! お祖父ちゃんも言ってたよ、〝善は急げ〟ってね!」
もう、頭の中は食欲の事しかないようだった。
そんな桜香に気遣ってか耳元で
「うちは別に構わないのですが、忘れているかもなので言いますね。髪型こそ綺麗に纏まってはいますけど、獣のような臭いが頭皮から……」
「はわっ!」
すっかり忘れていた驚愕の真実に白眼を剥いて静止する桜香。
その手は焦りと痙攣で震えていた。
「お、お客様……だ……大丈夫でしょうか?」
「ご心配なさらずに食欲と理性が戦っているみたいです」
楓美はおもむろにお土産で貰った
奥の奥、普通なら蒸せかえる位置まで、串の手持ち部分が入った所でゆっくりと閉じられた。
大きな
「
面白いほど機敏な動きで敬礼をした。
例え最初は亀のように遅くとも、いざ動けば兎のように早い。
「はい。手荷物等は先に係の者が御部屋まで運びますので、貴重品を持って最上階にある〝松の湯〟へとお願い致します」
「こんな所で止まってらんない! 楓美ちゃん、善は急げだよ!!」
「ちょっと待ってください~。早っ。もう行っちゃったですね……」
「ごゆっくりどうぞ。本日は夏の名物湯となっています。当旅館の売りの一つでして、毎年この時期になりますと思い出される方も多く、その効能は折り紙付きです」
くどくど、くどくど、また長尺の話が始まる。
しかし、楓美の意識は既に桜香の方へと向いていた。
(桜香様と一緒にお風呂。初めての入浴。洗ったり、洗われたり、裸の付き合い……そうと決まれば、こんな所で立ち止まってられませんです!!)
「更にここ花の都においての象徴でもある果実が――」
「とても丁寧な説明ありがとうございます。歴史的な背景は分かりました。でもあの子、〝一流の麺職人〟を
「ん!?!?」
楓美の怒涛の勢いに押し負けて呆然とする仲居さんだった。
そして、今現在。
雰囲気最高、景色良好、気分上々。
何れをとっても文句無し、二人は末端の角付近でくつろぐ。
「ふぁ~足を伸ばせるって気持ちいいなぁ。湯加減も丁度良くて最高だね~楓美ちゃん」
「本当ですね~。うちは兄妹が多いので、いつもすし詰め状態ですからゆっくり入るのなんて何時振りやら……」
湯を肌に馴染ませ上品に座る楓美の横では、広角を上げまくった顔の桜香がいた。
季節の果物である〝桃〟と一緒に、大の字になって漂流するあられもない姿が浮かぶ。
「あっ、あれを見て下さい。窓際に〝効能の立て看板〟がありますが、沢山あるので見切れてしまってます」
楓美が指差した先まで静かに湯槽を進んだ。
看板の文字を逆さのまま読む。
「え~と、どれどれ~。〝疲労回復〟〝治癒効果〟〝炎症抑止〟〝地肌美容〟……とりあえず沢山だ。ん、一番末尾にある〝各部位の成長作用〟って?」
桜香の脳内では呉服屋で出会った〝
それを聞いた楓美は、どこか儚げな溜め息交じりに胸を撫で下ろしながら言った。
「成長……ですか。実はうちは兄妹の中で一番(身長が)小さいのが悩みなんです。家族と居るだけで周囲の眼が気になって仕方がありません」
色気漂う悩ましい声により、飛び起きて二度見、三度見、四度見までしてしまった桜香。
(ぐふっ……あれで……小さいなんて……。楓美ちゃんには悪気はないんだろうけど、純粋な嫌味が怖い……でっ、でも本気で悩んでたりしたら答えてあげるのが友達だよね)
布越しからでも分かる程に、自らのと比べても比較対象にならない強大な谷間。
その前には例え同性でさえも破壊的な魅力に惹かれてしまう。
古来より築かれた法則――
「あの、どうかしましたか?」
「う~ん。私から言わせて貰えばちょっと贅沢な気がする。どんな形で産まれても今を愛さなきゃ駄目だよ?」
「その心は?……」
「周りからどう思われようとも自分は自分だし、煮ても焼いても歳を取っても神様から貰った〝身体〟。楓美ちゃんが学んで備わった〝個性〟。何よりも〝両親〟から授かった命を大切にしなきゃ!」
手の平を胸に当てまるで自分に言い聞かせるように言葉を
大事なことは口にした自身も、いつかその意味を本当に理解すること。
不安定な心へと一字一句全て届いたかは分からない。
でも、楓美の表情を見た桜香の顔は何処か懐かしそうだった。
「うちは心より深く感動を致しました。
「へへへっ、そう……かなぁ?」
瞳から溢れをばかりに感涙した楓美。
何だか誇らしくも照れ臭さが交ざる。
「どうやったらそんなに(身長が)小さくても堂々としてられるのですか? 過去に何か特別な訓練でも受けてらっしゃったとか?」
「これはね、小さい頃から口酸っぱく言われたお祖父ちゃんからの教……え!?」
鼻を鳴らしながら自慢げに振り向くと驚愕して眼を見開いた。
湯煙でぼやける視線の先には、嬉しそうに歩み寄る楓美がいた。
しかし、その前には大きな大きな――
両の胸に押し寄せられる波が頭上まで立っていた。
「あっ、これは……死ぬ奴だ。って、あ~れ~」
有無を言わさず無慈悲に桜香を呑み込んだ。
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