第 肆拾肆 輪【生の実感】

 胸が強く締め付けられ、悪寒で額に吹き出た汗が髪の毛を濡らした。


 体を妙な冷たさが染み渡り、例えようのない不快感が全身に広がる。


 何か嫌な夢を見た後のように浜悠は目を覚ました。


「!?」


 瞬きを何度も繰り返し、次に忘れかけていた呼吸を慌てて行う。


「はぁっはぁっ……ここは何処なの? さっきまで私は――」


 先を口に出そうにも途端に声が詰まり言葉が思うように喋れない。


 咄嗟とっさに胸へ手を当て、打ち鳴らす鼓動だけが唯一の存在証明だった。


 混乱した頭の中で状況が把握できず、何かを得るために瞳を動かす。


 何度も何度も見直しても執拗に目を擦っても、そこは天井もない上に地面もない白き空間。


 急降下する感覚と真逆に頭が上へ引っ張られる感覚。


 意識の向け方次第で、自我等どうにかなってしまいそうだった。


 頭を抱え自問自答を繰り返す浜悠。


「あぁ、分からない……分からないけど、ここにいては駄目な気がする」


 視認できる限り明確な出口や、ましてや答えが存在するのかさえ怪しかった。


 例えるならば、それは果てしない無限の彼方。

 例えるならば、それは輪廻へ続く永遠の虚無感。

 例えるならば、それは避けられない現実との別離。


 場に適応したいならば、抗わず流れに身を任せるしか術がなかった。


 常に冷静を、もっと単純に、邪魔な思想を取り除いて再度挑む。


「こう言う時はおばあちゃんの知恵袋って奴を、試してみるのも一つの案だよね?」


 ひとまず手を眺め、指を動かし、顔を引っ張ってみる。


 時に強く、時に優しく、時に大胆に捻りを加えて。

 ――結果は、少しだけ頬が赤く腫れただけで、これといった成果はなかった。


 それでも良いきっかけにはなった。


 浜悠は眉間にしわを寄せて悩み、落下でなびく髪の隙間から目を光らせた。


「やっぱりおかしい……がゆ


 直感だけでは具体的な〝解決策〟が分かるはずもない。


 それから色々試してみたが時間の経過によって、


 水面に浮かんだ葉のように無感情で当てもなく漂っている気分。


 しばらくして、周囲にある変化が起きたことに気が付いた。


 瞳は光を取り戻したように揺れ動き、戸惑いを隠せない浜悠は唖然とした。


「嘘だ……どうして……これって……」


 聞き覚えのある音が声となり、懐かしい匂いが形となる。


「お姉ちゃんはしっかり者さんだから、まだまだ小さい青葉の事をきちんと守って上げるんだよ? 指きりげんまんの約束!」


「心配ないよ大丈夫さ、君は強い子だ。誰よりも、思いやりのある優しい子になれる。何たってお母さんに良く似ているからね」


「おいらの記憶にあまり無いんだけどさ。お姉ちゃんの中にいるお母さんとお父さん達が、沢山の愛情をくれている気がするんだ」


 生を授かってから今まで見た物が、〝映像〟となって体を通りすぎては泡の如く消えてゆく。


 浜悠は手を伸ばしても、失ってしまったものが絶対に届かないのを知っている。


 血の滲む思いをしても願い叶わず、虚しく惨めなのを誰よりも知っている。


 それでも自身の選択が正しいことを、


 抑えていた感情が止めどなく溢れ、宛もない涙が不思議と零れ落ちる。


 「今までありがとう。こんな娘で、孫で、お姉ちゃんでごめんなさい――」


 振り絞る心からの感謝の念だけが、自然と言葉になっていた。


 これは脳が見せている〝慈悲なる別れ〟だと直ぐ様に気がつく。


(この喪失感、やっぱりそうだ。記憶が何かに喰われているんだ)


 きっかけは些細なことで、段々と……初めから無かったみたいに。


 自分ではない何者かによって、強制的に上書きされていくような〝絶望〟を添えて――


 全てが真っ白に、まっさらに、大きな大きな孤独が体も心も包む。


「――きろ……浜……!!」


 耳を澄ます。

 心地良く懐かしい声だ。


 瞳を開けた。

 夜空から注ぐ星々の光が眩しい。


 誰かがいる。

 怖い顔の理由は分からない。


 抱かれていた。

 顔を見上げて微笑んだ。


「おい、起きろって浜悠!!」


 何れくらいの時間を費やして、意識を失っていたか定かではない。


 浜悠は血濡れた地面に背中を預け、目の前にいる鬼灯を眺め小さく呟いた。


「あれ……ワタシ……まだ、きてる?」


「あぁ、生きてるよ。弟君も浜悠もさ!! 早く皆で帰ろう?」


 温かい手で浜悠の手を握り、力強い言葉で勇気付けてくれる鬼灯。


 しかし、触れているであろう感覚や見える景色でさえ、何もかもが他人事のように遠く感じていた。


 思考が纏まらず浅い呼吸を繰り返す浜悠。


 夢心地の気分で自分が生きているのかさえ、曖昧な状態におちいる。


 我に返り地面から伝わる青葉の鼓動や、小さな息遣いまでもが耳に届いた。


(青葉……無事で本当に良かった。、お母さん達に顔向け出来ないから)


 安心して一先ずは胸を撫で下ろし、おもむろに傷を負った右腹部を触る。


 気を張っているとはいえ、あれほどの激痛や苦しみが不思議と今はないからだった。


 大量の出血が吹き出ていたのにも関わらず、凝固しているせいか肌に張り付いている。


 代わりに無数の〝何か〟が指先にまとわりつき、体内をうごめいるようだ。


(何だろう、これ。ちょっとくすぐったいかも……へへへ)


 異物感が気にならないばかりか、まるで初めから体の一部のような――


 母子のような尊さや愛しささえも芽生えていた。 


 言葉では説明できない高揚感が内から湧き出ている。


『今すぐ走れ』


 と、言われれば恐らく全力で動けるほど回復していた。


 頭で考えるよりも先に視界が鮮明となって、目の前にある鬼灯の顔がいつもと違って見えた。


(あれ……おかしいな。急に頭が痛くなってきた……)


 恋心にも似た想いに呆然としていると、鬼灯が手を差し伸べながら言った。


「まだ傷口が痛むだろ? 2人とも村まで背負ってやるからさ。辛いと思うけど俺、頑張るからさ!」


 時折、鼻をすすり涙を浮かべながらのいつもと変わらぬ顔と声。


 お気に入りの場所で話せる他愛もない時間が、心の隙間を埋めるように楽しかった。


 まるで提灯ちょうちんのように頬を赤らませ、とっても丸い笑顔が浜悠は大好きだった。


 しかし、それも


「――ごめんね。鬼灯君ホオズキクン


 これからもずっと〝ある〟と思っていた物を、右手で強く振り払い自らの力で立ち上がる。


「え?」


 呆気に取られる鬼灯を他所に、無言で辺りを見回すと地面に置かれた刀を持つ。


 最後とばかりにじっくりと眺める。


イマまでありがとうね。いつかのために……」


 日頃の手入れも実のり、幸いにも刃こぼれはない。

 軽く汚れを丁拭うだけで本来の輝きを取り戻した。


 深呼吸と共に額へ数秒ほど当て、腰掛けの鞘に納める。


 一瞬の静けさが場を支配し、あるのはひとときの〝無〟。


 堪らずいつもと変わらぬ夜空を見上げる。


 涙が溢れ落ちないようにする時は、良くしていたからだ。


 天上の月が変わらず地上を照らし見守っている。


(過敏になった聴覚。色覚異常の視界。深傷を治す治癒力。そっか……思い出したよ。私、あの時すでに寄生されてたんだね)


 明暗を分けたのは、


 それでも、浜悠は一切の後悔はしていなかった。


 自らの命よりも重い弟を守り抜き、幾重の想いを刀に込めたから――






 



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