第 伍 輪【夢見た光景されど想い叶わず】


 (そうか、あれは私が思い出せる最後の記憶なんだ。そして、母と過ごした記憶の欠片を切り取った、ほんの一握りの幸せ……)


 夢でも温もりを感じられて良かったと、思わず笑みが零れる桜香。


 だが残酷な現実は、再び彼女を何度も突き刺す事になる。


 再び眼を開けると、複数匹の夜盗虫ヨトウムシが、まるで甘い蜜に群がる虫の如く、純白の膜に触れ散々と消えてゆく――


 不思議な感覚が体を支配し、体感で数十分程、実際は数秒間にも充たないといった所だろう。


 私は、夜盗虫の命が尽きるまで、何も考えることはなく、ただ漠然とその光景を見ていた。


 しばらくして辺りを照らす白い光が無くなった頃。


月明かりを頼りに周囲を見渡した。


 これは悪い夢だと信じたかった……嫌、無理矢理にでもそう認識した。


 だが、眼を開けたそこにはいつも通りの日常はない。


 木にもたれる頭部のない祖父の亡骸が現実を知らせる。


 手には母が遺してくれた刀がいつの間にかさやに入っており、試しに抜こうとしたがビクともせずにそっとしておいた。


 気持ちの整理が付かないまま、強く握られた左手を開ける。


 すると、小さな桜の花弁はなびらが、冷たく肌寒い夜風に吹かれ、月がある空へと消えていった。


 自らの理想よりも、現実は厳しく残酷な物であり、また――叶う夢もあれば、叶わぬ夢もあるのだと、この時の桜香おうかは痛感する。


 幸せとは何か?――形有る者がずっと側に居ることや、と言う都合の良いことは、絶対に存在しないのだ。


 きっと周囲には、私以外の生物は居ないだろう。

 それは、どこから出てくる自信なのか己でも解らなかったが、今出来ることは、立ち止まらずに前へ進まなきゃいけない事。


 自分自身は恐ろしい位に冷静であり、祖父に対し、悲しみはあったが涙は流れなかった。


 「何だか今日は疲れちゃったでしょ? 今までありがとう。そして――おやすみなさいおじいちゃん」

 祖父が埋まる土へと、丁寧にお辞儀を行い、力が入らない右手で刀を引摺りながら、自宅へと歩いた。


 帰路の途中、次々と起こった事柄に対し頭の中で整理が出来ず、灯りとなる月がいつの間にかかげり始めていたが、まだ夜は深い。


 桜香は、もしかしたら祖父が息を吹き返えして帰れるように、母の刀で地面に道標を付け、か細い声で独り言を呟きながら歩いた。


「お祖父ちゃんさ、私が小さい頃に言ったよね?〝優しい心〟と、誰かを〝守る勇気〟を持ちな」ってさ。

 

(私は決して優しく何てない。只、臆病なだけだよ、いつも誰かに守られてばっかりだ。さっきだってそう……お祖父ちゃんに生かされ、母の思いが込められた刀に助けられた。私が守るべき大切な家族は、もうこの世にはいない。だけど、同じ思いの人は必ずどこかにいるはずだ――)


 拳に力を込める度に腕から落ちる血が、地面へと滴る。


 本来ならば、血の臭いに反応して別の植魔虫しょくまちゅうが、襲って来てもおかしくはない。


 だが先刻の出来事により、桜香の知らぬ所で奴等は、周囲に情報の伝達を行い警戒をしていた。


 振り絞る様に動かした歩を止め、再び空を見上げる桜香は、未来の己のために誓った。


 「どんな茨の道でも必ず才能の花を咲かせてみせる。私の名前は桜香おうか。母と同じ〝花の守り人〟になって、植魔虫しょくまちゅうを全て根絶やしにする事。それが唯一、弱い私が託され生きている意味と使命だと思うから――」


 両親から授かった桜色の瞳には、今日も綺麗な月夜が天上の彼方から、静かに見守っていた。


 既に頭の中は空っぽであり、刀を引摺ひきずりながらも帰路に着いた。


 時間が経ったせいで腕の出血は止まっていたが、指を動かすだけで痛みが体中を走り、血が出るほど唇を強く噛み締めた。


 痛みに耐えながら力なく扉を開けると、誰もいない部屋には明かりだけが灯っている。


 目の前にあるのは山積みの野草とのみ――桜香は膝から崩れる様に倒れ込んだ。


 目先の布袋から香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「そう言えばご飯……一口も食べてなかったなぁ……あぁ、お腹空いたよ」


 布袋の口を開き、中から野草に包まれたが出てきた。


 意識朦朧いしきもうろうの桜香は、腹の虫が鳴っているのもあってか、夢中になって食らい付いた。


 一口また一口と噛む度に、いつもとは違うせいか眉間にしわを寄せながら桜香は小声で呟いた。


「お祖父ちゃん。今日の魚、何だかしょっぱいな。また血圧上がっちゃうよ? 私、2匹も食べたら太っちゃうよ……」


 に這いつくばる様に顔を擦り付けつつ、祖父が残した塩辛い魚を残さず食べた。


 山積みの野草に手を伸ばしたが、そこまでの体力は残っておらず、桜香の意識は静かに離れていった。


 森中を駆け回ったせいで出来たすり傷等の怪我。


 度重なる疲労と混乱のせいもあってか、気付いた頃には陽の光が部屋全体に差し込んでいた。


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