第 参 輪【その手に宿るのは母の魂】


 絶体絶命の中、何故か桜香おうかは、無心になっていた。


 絶望も後悔もしていた筈なのに――その手には、鞘から抜かれた刀が握られていた。


 まるで初めから自身の一部の様で、手に馴染む感覚が指から体全体へと伝わる。


 細身ながらも確かな重量感に加え、ただならぬ威圧感のあるその刀は、持ち主の〝魂〟の様だった。


 手元には燦然さんぜんと輝く4枚の花弁を模したつば


 そして主要部である刀身は、切先まで汚れを知らぬ純白でありながら、幾多の〝植魔虫〟をほうむった歴戦の一振り。


 だが――刃こぼれはおろか一切の傷はない。


あでやかで純真無垢じゅんしんむくなその刀身は、桜香おうかの母〝三月みづきの心〟であった。


 の、その刀は死して尚も娘を思う母の思いが起こした一筋の奇跡だった。


 みづきからおうかへ、託された刀の名は――〝春刀しゅんとう花弁四刀かべんしとう


 植魔虫狩りの歴史上、最強とうたわれた〝四季の刀〟、春の一振りである。


 自らを奮い立たせたのは、〝怒り〟か?


 それとも〝悲しみ〟か?〝祖父の死〟か?


 否――全ては甘い考えの〝弱い己自身〟だった。


 桜香に背を向け、食事そふに夢中になっている植魔虫の間合いには、既に入っていた。


 肉親が捕食され、耳を塞ぎ目を背けたくなる様な光景だったが、桜香は一点しょくまちゅうだけを見つめた。


 後は振り下ろすのみであり、それは一握りのを持つだけ――


 出生から今までの中で、抜刀等持った事はない桜香だったが、その切先はへと向いていた。


 純白の刀身は、夜空から降り注ぐ月明かりが手伝い、花弁の紋様もんようが周囲の木々に反映された。


 それは、美しも儚く散る一輪花いちりんかの如く、優しく辺りを染め上げる。


 狩るための動作は、技術や力技などではなく、ただ握り手を下方へと振り抜くだけだった。


 桜香は深呼吸を一回だけ行う。


 ゆっくりと、まるでとむらいでもするかの様に静かに振り下ろした。


 刹那せつな――祖父がるふの尊い命を奪った植魔虫、〝夜盗虫ヨトウムシ〟は、動きを止めた。


 奪い食した者の命の灯火は消え、左右に割れながら音もなく死を迎えた。


 事態が飲み込めないこの時の桜香おうかは、知る由もなかった。


 振り下ろした刃速は緩やかだったが、刀から放たれた衝撃は、直線にして数kmにも及んだとされる。


 だが、無我夢中で力を扱いきれずにいたのに対して、幸いにも


 立ち向かう勇気と力を貸してくれた不思議な刀に、亡き母の温かさを感じ無意識の内に雫が頬を撫でる。


「お祖父ちゃん、さっきはごめんなさい。仇……取ったよ……守ってくれて、大事に育ててくれてありがとう」


 祖父の仇を自らで討ったが、その安堵も一瞬の出来事だった。


 辺りがざわめき出すと同時に、奇怪な音が耳を貫く。


夜盗虫ヨトウムシ〟は、一匹でもいればその周囲には必ずが存在する。


 既に先程の騒ぎと祖父の死体により、地中から出ていた個体は闇夜に紛れ、桜香を捕食対象としていた。


 全身をバネの様にしならせ、地面から跳躍ちょうやくし一斉に襲い掛かる夜盗虫ヨトウムシ


 ほのかな灯りを頼りに、目視出来る範囲だけ確認は出来た。


 咄嗟に恐怖と言う脳裏に焼き付いたが邪魔をし、思わず眼をつむってしまった。


 餌を前にした夜盗虫ヨトウムシ達と、花弁四刀かべんしとうを前方へ向ける桜香おうかの距離――僅か1M弱。


 もはや万策尽きたかに思われた……だが、奇跡は再び起こる事となる。


 生前のみづきは、死ぬ間際に自らのしていた。


複数の〝華技かぎ〟を娘のために、花弁四刀かべんしとうへと込めていたのだ。


華技かぎ春語しゅんか肆文字しもんじ桜贈返礼おうそうへんれい


 まばゆい光を放つ純白の空間が、桜香おうかを中心に円上のまくとなる。


 白壁はくへきに接触した夜盗虫ヨトウムシの軍勢はみな粉塵ふんじんへと成り果てていく。


 無意識に瞳を閉じ、目の前の光景を恐れている桜香は、まだ何が起こっているのか知らない。


 襲われた痛みは無かったが、死んでしまったとさえ思っていた。


 夜盗虫ヨトウムシが無となる数秒間、強く強く眼をつむるが、体全体を不思議なが優しく包み込んでいる様な気がした。


 この温もりはそう――まだ記憶が曖昧あいまいな幼い頃の物。


 泣きじゃくっていた私を、笑いながらあやしている母に、抱かれていた時と同じ感覚だ。


(私、死んじゃったのかな。にいるお母さん達と会えるなら――それでもいいかな……?)


 この時の桜香は死を覚悟し、無限に続くような白き記憶の回廊かいろうを歩いていた。


 見渡す限りの真っ白で何もない世界。


 ここはきっと、私を形成する物が何も無い場所。


 辺りを見渡しても何も無く、広くて深い私の記憶。


 (心残りがあるとすれば、両親と平凡でなんの変哲もない日々を過ごし、私が成長してから喧嘩が絶えなかった祖父との仲直りかな?)


 自らを犠牲に多くの人を救いながらも、〝花の守り〟として生涯しょうがいを捧げた母や父。


 2人は戦場で命を落とし、唯一の肉親である祖父も植魔虫に喰われてしまった。


 長く折れ曲がった道を時々立ち止まっては、一生掛けても掴めない幸せに絶望さえした。


「これはきっと神様がくれた試練なんだな……」って思いながら先へ進むと、空間を反響する様に何かが聞こえた気がした。


 自身を形成するそれは、ずっと私の名前を呼び続けている。


 無我夢中で足が動きさらでぼんやりとした頭の中を、駆け巡る言葉を追いかけた。


 頭の中で絡まっていた記憶の糸が、引き寄せられながらも綺麗な一直線で張った気がした。

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