海が太陽のきらり PP

文月(ふづき)詩織

陽子観察記録

 世には不思議が満ちている。


 海斗の周辺においても、不思議は枚挙まいきょいとまがない。


 例えば、高校のクラスの女子たち。彼女らはスクロースにハバネロ、それに理不尽な何もかもでできている。


 顔よし、頭よし、性格よし。運動だって人並みにこなす、ほとんど完璧と言っても良い男子かいとがクラスにいるというのに、二年四組の女子ときたら誰も興味を示さない。それどころか、せっかく海斗の側から声をかけたとしても「ゴメン」という不可思議なフレーズで拒絶する。


 いつしか海斗は教室の隅に身を沈め、女子なる不思議生物の観察に注力するようになった。


 女子を凝視してはノートに何事かを書き込む海斗の姿は「キモイ」という奇怪な呪文で形容されたが、海斗はやめようと思わなかった。


 女子は解明の価値ある神秘である。


 しかし残念ながら、夏休みに突入したことにより、将来的に高名な科学雑誌に載るはずの観察記録は中断を余儀なくされる。それきり女子観察記録は海斗の興味を外れ、部屋の隅で埃と同化した。


 海斗は怠惰を突き詰めるべく尽力した。彼の夏の予定は穢れなき白に染まっていた。祖父母宅に宿泊する一週間を除いて……。


 遊ぶ場所と言えば秘境と称えられる海岸と、白黒灰以外の色を排した質実剛健な水族館くらいしかない。そんな田舎町が海斗の親の出身地である。老人孝行をしたいという崇高すうこうな気持ちがなければ、何故そのような町を訪うだろう。里帰りする父母への同行を海斗は丁寧に辞退するのだが、人道を知らぬ両親は毎年のように彼の首根っこを掴んでその町へ連行するのである。


 だがその年、海斗はそこで、陽子と出会った。


 彼女と過ごしたあの日々は、不朽の輝きをもって海斗の淀んだ心を生涯照らし続けるであろう。


 あの夏に海斗が情熱の全てを注ぎ込んだ彼女の観察記録は、未完である。


 *****


 彼女は正に神秘だった。


 白く寄せる波間を弾丸のように泳ぐ彼女の姿を海斗の目が捉えた瞬間、鈍色の海は日の光を反射することを思い出したかのように輝きを放った。


 彼女の黒い頭はすぐに海中へと没し、待てども上がっては来なかった。


 海斗は吸い寄せられるように海に足を踏み入れた。たちまちスニーカーに水が沁み込み、ズボンの裾を海水が駆け上がる。水を吸った服はねちっこく肌に絡みつき、動きを妨げた。


 やがて頭までが海に沈んでしまうと、塩水が一斉に眼球を襲った。海斗は痛みに耐える。角膜を海水にさらす危険に見合う絶景が、海斗の前に広がっている。


 彼女がしなやかに海中を泳いでいた。動きに一切の無駄がない。時折思い出したように腕を動かすと、それだけで水の抵抗を振り切った。何故あんなことが可能なのだろう。


 夢中になって彼女の姿を追ううちに、だんだんと息が苦しくなってきた。海斗はようやく、自分と水との相性が著しく悪いことを思い出した。このままでは死んでしまうと気が付いて、海斗はあたふたと踵を返す。


 何とか浅瀬に戻り、全身を使って空気を貪る。空気に味があることを、海斗はこの時知った。


 海面に視線を走らせると、彼女はぷかぷか波間に浮かんで、不思議そうに海斗を見つめていた。彼女の身体は魚雷のように水を切ることができる一方で、発泡スチロール並みに水に浮くのだ。海斗とは根本的な体の造りが違う。


 海斗と目が合った途端、彼女は再び海中に姿を消した。


 海斗はしばし空気に舌鼓を打った。そうするうち、彼女は付近の岩場に現れた。水中から飛び出し、空中で見事な制動をかけて体勢を整えると、両足で着地する。強靭きょうじんな肉体が可能とする絶技を披露した彼女は、口を尖らせてツンと上を向き、なで肩越しに海斗を振り返った。


 海斗はゆっくりと立ち上がると、彼女を怖がらせないよう、息を潜めて近付いた。彼女のつぶらな瞳に、柔らかい表情を浮かべた海斗が映っていた。


「僕は海斗。君の名は?」


 彼女は返事をしなかった。海斗は失望しない。返事を期待していなかったのだ。彼女が日本語に不自由であることは、外見から明らかだったので。


 海斗は思案する。彼女という神秘は、必ずや記録に残さねばならない。名前がないというのは、いかにも不便に思われた。


「そう、僕は海斗なので、君は洋子……」


 二人がセットであることを示す、素晴らしい名ではないか。だが、すぐに海斗は思い直した。唐突に「キモイ」という呪文が効力を発揮したのである。


「陽子にしよう。うん、それがいい」


 海斗は己の名付けにすっかり納得して、得意満面に陽子陽子と繰り返す。


 海から吹き付ける涼やかな風が、海斗の身体を優しく撫でた。濡れそぼった皮膚は唯々諾々いいだくだくと風に体温を明け渡し、海斗は体表を毛羽けば立たせる。耐えきれずにくしゃみをした途端、陽子は身をひるがえして海中に逃れた。


 取り残された海斗は、陽子の消えた海をしばし呆然と眺めやった。


 *****


 陽子はどこから来たのか。陽子は何者か。陽子はどこへ行くのか。


 家に帰ってからも、海斗の頭は陽子のことで占められていた。


 彼女をもっと知りたい。


 海斗はスマートフォンを取り出した。海斗と共に海に浸かっても文句ひとつ言わない健気な奴である。海斗は心優しいスマフォと指を通わせ、電子の波に飛び込んだ。


 陽子に関して思いつく限りの情報を入力し、見つけたページを読み進めるうち、海斗の表情は曇る。


 やがて海斗は健気な電動下僕を強制的に眠らせて、深い溜息を吐いた。


 ああ、何ということだろう。


 陽子は追われる身なのだった。


 *****


 翌日、陽子は岩場にしどけなく寝そべっていた。


 彼女は必ずしもプロポーションに優れているわけではない。だが、岩の上に悠々と寝そべるその姿は魅惑的だった。


「大丈夫だ。君のことは、僕が守る」


 声をかけると、陽子は不審げな目を海斗に向けた。立ち上がるのもおっくうなのか、岩の上をずりずり這って、海に飛び込んだ。


 海斗は恐る恐る岩場の縁に座る。岩に付着した得体の知れない生き物の殻が、太ももの裏側をチクチクつついた。海斗は深く息を吸うと、勇気を出して海に入った。


 海は思ったよりも深かった。海斗は岩場に掴まって顔を出し、陽子を探して何度も海面に顔を浸けた。そんな海斗を笑うように、陽子は変幻自在の泳ぎを見せつける。


 追手への恐怖も焦燥も、彼女の様子からは伝わって来ない。彼女の警戒心は、もっぱら海斗が占有しているらしかった。軌道に泡を残して泳ぐ彼女は、とても楽しそうだ。


 海斗は岩場から手を離す。すぐに体が沈み始めた。必死に手足をばたつかせて、体を浮かせようと試みる。辛うじて水面から顔を出し続けることができたが、陽子の泳ぎとは似ても似つかない。


 さながら水に浮かぶ白鳥のようだと海斗は自己を評した。奴らは優雅に浮いているように見せかけて、その実水面下では必死に足をばたつかせている。


 実際のところ海斗の泳ぎは自己評価をはるかに下回る無様さを示している。それを白鳥に例えるのは目に余るまでの名誉棄損であったが、海斗は本気で自身が白鳥程度に泳げていると信じている。


 そんな海斗を横目に、陽子は悠々と海中に遊んでいる。


 彼女は追手の存在を知らないようだった。


 *****


 海斗と陽子の逢瀬はそれからも続いた。


 海斗は陽子の様子を、つぶさにノートに書き記した。ここにいる彼女は神秘そのもの。クラスの女子なんぞとは一線を画する不思議である。


「君の絵を描いてみたんだ」


 海斗はケント紙に炭素で刻んだ混沌を誇らしげに示した。陽子はC炭素の悲哀に目もくれない。何が興味を引いているのか、彼女の視線は砂浜の一点に釘付けだ。海斗はケント紙をそっとノートに挟んだ。


 陽子が何を考えているのか、海斗には解らない。海斗が何を意図しているのか、陽子は察してくれない。相変わらず、二人は解り合えない。


 それでも一日また一日と時を重ねるうちに、海斗と陽子の距離はわずかずつ縮まっていた。昨日よりも今日、今日よりも明日。陽子は海斗に近づいた。もう手を伸ばせば届く距離だ。


 だが触れようとすると、陽子は酷く怯えて逃げ出してしまう。水中では比類なき機動力を発揮する陽子だが、陸上では全く不自由だった。不器用に逃げ惑う姿は非常に愛らしいが、嫌われては困るので、海斗は彼女を抱き寄せたいという欲求をただ延々と噛み潰した。


 触れられずとも良い。傍にいるだけで幸せだ。陽子も海斗の傍らに安らぎを見出しつつあるらしい。


 そんな二人の幸せに水を差すように、追手が迫っていた。


 陽子に懸賞金がかかったのである。十万円。金の亡者が群れを成して彼女を追い詰めるかもしれない。不快な想像に、海斗の胸は締め付けられた。


 陽子はどこか不安げに海斗を見つめた。迫りくる追手の足音が、彼女にも聞こえているのだろうか。まだらに白く抜けた黒い顔に向けて、海斗は安心させるように微笑んだ。


「大丈夫。僕は君を裏切らない」


 陽子は照れたように視線を逸らすと、不器用に走り出した。お尻をぷるぷる揺らす姿に、海斗は思わず笑みを漏らす。悲哀の透ける笑みだった。


 裏切らないと約束した。だが、このままでは……。


 海斗は弱気な自分を振り払うように立ち上がると、海に向けて走り出した。もはや深さは問題にならない。海斗は泳ぐ楽しさに目覚めたのである。


 すでに海斗はトノサマガエル程度の遊泳能力を身に着けている。水辺の生物でありながら、奴らは意外に溺死するのである。


 無論、海斗の泳ぎは自己評価を著しく下回る稚拙さを呈している。その様をトノサマガエルに例えるのは耳を覆いたくなるほどの侮辱であったが、海斗は本気で自分がトノサマガエルのようにすいすい泳いでいると思い込んでいる。


 そんな海斗の周囲を、陽子は楽しそうに旋回していた。


 彼女と離別したくない。海斗は心の底からそう思った。


「陽子」


 小舟のように水に浮かぶ彼女に、海斗は重々しく声をかけた。


「僕は、明日帰らなければならないんだ……」


 陽子の表情は変わらない。海斗の言っていることが伝わっていないのだろう。


「僕は君を守りたい……。僕と一緒に、東京に来てはくれないか!」


 陽子はぷいと海斗から顔を背けると、海に潜った。断られたのだろうか。落ち込む海斗の背後で、陽子が海面を貫いて飛び上がった。彼女は岩場に着地して、海斗を振り返る。付いて来い、と言っているように見えた。海斗は苦労して岩の上に這い上がり、陽子の背を追う。


 緩やかな斜面となっている岩場をよたよたと歩いた末に、彼女は足を止めた。彼女が身を置く岩場のふちは、定位置と比して著しく大きな位置エネルギーを彼女に与えていた。陽子は追って来る海斗に視線を投げると、頓着とんちゃくなく飛んだ。


 海斗は身を乗り出して海を見下ろす。


 そこはえぐり取られたように海底が深くなっていた。水深に余裕があるからか、陽子はとても気持ちよさそうに羽を伸ばしている。海斗は大きく息を吸い込んだ。


 己の身体能力をかんがみれば、安全に着水できない道理はない。海斗は水泳選手がプールに飛び込む要領で岩の縁から飛んだ。


 水中の魚を捕らえるカワセミのごとく、鮮やかな飛び込みであったと海斗は思う。


 もちろん海斗の飛び込みがカワセミに例えられるわけがない。広げた手足をばたつかせて腹から着水するその姿は、ワライカワセミが笑い死にしかねない痴態であった。


 鮮やかに着水したつもりになって沈んでゆく海斗の上を、陽子は泳いでいた。海斗は反転して陽子を見上げ、息を呑む。


 海の中に空が広がっている。深く、青く、それでいて緑。海面が揺れる度に陽光が屈折し、昼日中ひるひなかの青空がまたたく。細やかな泡が七色をていして光を撒き散らす。


 あらゆる輝きを抱え込んだ空を、陽子が飛んでいた。空を飛ぶ鳥よりもはるかに自由に、速く、力強く、彼女は羽ばたく。なんて美しいのだろう。彼女は正に神秘である。


 その光景をいつまでも眺めていたかった。しかし悲しいかな、人間が水中に居続けることのできる時間には限度がある。体中の細胞が海斗の意思に反旗を翻すにつけ、海斗は海から上がらざるを得なかった。


 息を整える海斗の傍らに、陽子が歩み寄って来た。


 海斗はそうっと陽子の黒い頭に手を伸ばす。海斗の手が触れると、陽子は気持ちよさそうに目を閉じた。初めて触れる彼女はとても温かかった。


 海斗の自戒が弾けた。


 海斗は両手を伸ばし、陽子を抱き寄せる。陽子の身体は柔らかく、そのくせ強い弾力を持っていた。驚いて暴れる彼女を両腕に抱え、頭に頬を摺り寄せ、キスをした。陽子は何かを叫んでいたが、やはり海斗には意味が解らなかった。


「怖がらないで! 大丈夫、大事にするよ。だから一緒に、うちに帰ろう!」


 固いものが海斗の頬を張った。陽子は一声叫ぶと踵を返し、不器用ながらに猛烈な速度で砂浜を駆け抜けて、海へと姿を消した。


 陽子が何を言ったのか、やはり海斗には解らない。


 さよならに類する言葉であろうことだけは理解できた。


 ******


 一年が経つ頃、海斗は陽子と出会った海辺の町を訪れた。


 海斗は陽子観察記録を片手に海へ向かう。そこに陽子はいないのに。


 陽子が追手に囚われたことを、海斗はもう知っていた。彼女に会いたいと思うのならば、行くべき場所は解っている。


 だが、海斗はそこへ向かうことができなかった。


 観察記録はあまりにも中途半端な終わりを迎えた。彼女の仲間たちが共に囚われている施設に行ったとして、海斗は彼女を見つけることができるだろうか。そう思うと怖いのだ。


 海斗はいつか飛び降りた岩場の縁まで歩き、座り込んだ。潮風を頬に受けて目を閉じる。


 まぶたの裏に、今も鮮やかによみがえる。ずんぐりとした丸い身体、大きく短い脚、強くたくましいフリッパー。ツンと尖った愛らしい口に、澄ましたつぶらな瞳。


 海斗はそっと陽子観察記録を開いた。そこには彼女と過ごした日々が軽妙な筆致で記されている。はらりと落ちたケント紙の上には、キュビズムとシュルレアリスムとアヴァンギャルドの融合が描き出した、彼女の赤裸々な姿があった。


 海斗はノートを閉じて岩場に置く。ゆっくりと立ち上がり、深く息を吸って海に飛び込んだ。


 広がる世界は変わらない。水底の神秘。だが、そこに陽子はいない。この景色は陽子がいて初めて完成を見るというのに。……水底の太陽は、陽子そのものだというのに!


 零れた涙は海に溶けた。


 二千円も払えば海斗は陽子に会いに行くことができる。だが、そこにいるのは陽子であって陽子ではない。彼女からは神秘が失われ、今や凡百と並べられて衆目に晒される身だ。彼女の神秘は、この場所とセットだったのだ。


 彼女はもはや陽子と呼べない。今の彼女はペペちゃんだ。


 ――さようなら、陽子。


 海面に滲む太陽に向けて、海斗は声なき言葉を投げた。


 ――君と過ごしたあの夏は最高だった。


 ――僕は絶対に、君のことを忘れない。


 ――ありがとう、僕の、僕だけの陽子。


 ――あの夏ここで共に過ごした、僕のペンギン……



~Fin~

海が太陽のきらり~Pepe of Penguin~

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