第2話
こんなに寒い日なのですから、きっと外には雪が降っていることでしょう。
白く白く、綺麗で儚いかけらが積もっているのでしょう。
病室の空調設備は、今は動いていませんでした。
私がお願いして、電源を切ってもらったのです。
ベッドの上で、上半身だけを起こし、座る私。ここから動く必要もないので、ずっと毛布を被っていられます。だから暖房なんて必要ない、というのも当然あるけれど——それよりも今は、この冷たさを肌で感じていたかったのです。
私は窓の方に顔を向けて、瞼を閉じたままでじっとしていました。
(そうだ。雪になる、というのはどうかしら……)
雪は柔らかく、脆い。だからこそ、限定的だが美しさを誇ることができる。もし、私が雪になれたなら、それはとても素敵なことだと思う……けれど。
それは無理ね、と私は早々に諦めました。
氷は命とは相容れない。生には熱が必要だから。
たとえ身体がどれだけ冷えたとしても、私はそんな綺麗なモノにはなれないのです。
それは死に近い存在。だからこそ今は、そばにいてくれることが嬉しいのかもしれません。ほっとするのかもしれません。冷たいからこそ、生きていないからこそ、安心できる。
——とはいえ、候補が一つ減ったのは残念。別のモノを探しましょう……まあ、考えていても仕方がないのかもしれませんけれど。だってそんなこと、まともに生きている人が……明日を夢見て生きている人が、願うようなことではありませんもの。
それでも、他にできることがないのであれば、仕方がありませんよね。
私は薄く目を開く。視界には真っ白な世界が映る。何者にも染まらない、何者をも染めんとする、完全なる純白。雪が降っているからでも、病室にいるからでもない。私は数ヶ月前に、視覚を失ったのだ。
白内障、ということになっていますが、原因は不明。私の目は白くなっていく一方なのに——どこにも異常は見当たらないのだそうです。手術も当然失敗。お医者様の必死の処置もむなしく、私の世界は、一面真っ白に漂白されてしまったのでした。
お医者様や両親は、それでもできることはある、と私を励ましてくれました。目が見えなくたって、点字を使えば本は読める。杖を使うことに慣れれば、一人で街を歩くことだってできる——ええ、それはそうでしょうとも。正しいわ。でもね、私はもう、そんなことをしてまで生きていたくないのです。私はそれなりに長い間、何の疑いもなくこの目を使って生きてきました。それに慣れきってしまいました。毎日のようにスマートフォンをいじっていました。今となってはそれはもうただの板ですが、無意味なことだったと言うつもりはありません——ズレてしまったのは私の方なのですから。
とにかく私は、目が見えなくなると同時に、何か大切な、視覚よりも無くしてはいけなかったものを、喪失してしまったような……そんな感覚に誘われて、結局それから一度も外に出ないまま、親のお金を喰い潰して生きているのです。
もう、そんなことは嫌なのに。だから、死んでしまいたいのだけれど、それもできない……気力がなくなっている状態の私は、死ぬことすら億劫で、でもこのまま生きて行くことは諦めてしまったから——だから、希望を探しているのです。
カツン、カツンと、遠くから足音が聞こえる。それはだんだんこちらに近づいてくる。よく聞くと音が二重に、やや高さが違って聞こえる。ハイヒール。音の聞こえるペースと進行速度から身長はやや高め、百七十センチ台と推定。やがて足音は部屋の前で止まる。
ノックの音が聞こえたので、私は返事をしました。するとドアが開いて、一人の人物が入ってきました。
その人はとても不思議な人でした。声色は確かに女性のものでありましたが、話し方はとてもぶっきらぼうで、粗雑でした。私が通っていた学校にはこのような人はいませんでしたので、少しびっくりしてしまいました。けれど、かえってそれが新鮮に思えて、割れ物を扱うように接されるよりかは、ずっと気分がよかったのです。遠慮なく接してもらえることで、普通の人間に戻れたような、そんな夢見心地の錯覚をしていたからだと思います。
その人は自身を画家だと言いました。絵を描いてお金を稼げるなんて凄いなあと、しかしどこか自分には関係のないように思っていました。
その人と、他の人との違う点は、もう一度会いにくると言ってくれたことです。
口でそう言っていた人は他にもいましたが、日時を決めて、約束をして、そして再びここへやってきた人は、他にはいませんでした。
そうしてもう一度私に会った時、その人は見せたいものがある、と言って、私の手を取りました。こんな世界に閉じ込められてから、何かを見て欲しい、だなんて言われたことはありませんでした。
恐る恐る手を触れました。手には、柔らかい感触が帰って来ました。
私はすぐに人の肌だ、と思いました。周りを撫でていくと、一段と肌触りの良い箇所がありました。流れるように滑らかで、しかし無数の線でできているようにも感じられるほどの、細かい凹凸の波が指の腹を撫でました。質感と位置関係から、それは髪だとわかりました。また、髪と顔の形で、それが私を描いたものであるとも。
そして何より、温かかった。
触れた先から広がってゆくその熱は、絵にだけでなく、私の心にも広がっていくように感じられた。その温もりに浸って、ずっと眠っていたいとさえ感じた。
その感覚が多くの記憶をフラッシュバックさせる。
春、夏、秋、冬。
桃色、黄色、青色、赤色、橙色、緑色、金色、銀色。
いつか見た、色とりどりの景色が、世界を覆う雪を溶かしていく、その光景に。
私は心を奪われた。
けれど、それと同じくらい残念でもありました。せっかく、もうこれ以上ないほど素晴らしいモノを見つけたのに、だからこそ、私はずっと生きていかなくてはならないことが確定してしまったと思いました。
しかし、その女性は言いました。
直すべきところが出来たと。これは完成品ではない、と。
私の心を読まれたかと思いました。本当に魔法使いだったのかと。
その人は、これを未完成だ、と言ったのです。
涙が溢れそうになりました。
私の希望は、ようやく叶うと言ってくれたように聞こえました。
私は嬉しくて思わず、その作品をクリスマスになると同時に生んで欲しい、と願いました。不躾なお願いだと自らを恥じましたが、なんと器量の大きいことか。私の願いを快諾してくださいました。
深く、深く感謝をしました。そして、すべての決意ができました。
私は今、その感謝を書き留めているのです。
同時に、画家さまに迷惑のかからないよう、言葉を残すためでもあります。
今しがた、ようやく書き終わりました。慣れない作業でしたので疲れました。字を書くのに光がいらないのはありがたいと、初めて思いました。
私はスマホのボタンを長押しして、今何時? と聞きました。
「タダイマノジコクハ、ニ、ジュウ、サン、ジ、ジュウ、イ、プン、デス」
と帰って来ました。私は端末をポケットにしまい、次に目覚まし時計を手に取ります。
アナログ式のこの時計は、秒針が一番上を刺した時、分針が動く音が聞こえる、かなり正確な時計です。秒針がどこを動いているかは、手に伝わる感触と音でわかりますが、念のため。えい。
私が角度をつけて時計を叩きつけると、出っ張っていたプラスチックが外れて、針に直接触れられるようになりました。これで準備は完了。
We wish you a Merry Christmas,
We wish you a Merry Christmas,
We wish you a Merry Christmas,
And a Happy New Year.
私は機嫌が良くなって、鼻歌交じりに病室を出て、階段を登って行きます。壁伝いに歩きさえすれば、この病院を自由に歩き回れます。ここのことは、よく知っていますから。
私は当たり前みたいに鍵を懐から取り出して、建物の一番高いところにある扉の鍵を開けます。鍵の入手経路は話せば長くなってしまうので割愛いたしますが、私の頼みを断れる人はあんまりいないみたいです。
扉を開けたその瞬間、聴覚を大きな音が支配しました。屋上に吹く風は強く、私の体を吹き飛ばしてしまいそうでしたが、それは困ります。踏ん張って耐えながら、雪の積もる屋上を歩いて行きました。
端まで歩いた時、フェンスに手が当たりました。滑ってしまうといけないので、私はそこでずっと履いていたスリッパを脱ぎました。時間が押しているので、特に揃えたりはしません。時計を針に影響しないようにしまって、フェンスに手と、足をかけて登って行きます。その間、風向きや風速と建物の高さ、そして昼間に看護師さんと測った自分の体重のことを考えていました。
フェンスの外側に降り立った時、服と体で風を避けるようにしながら、スマホに時刻の確認をするよう呼びかけます。帰って来た返事によると、残された時間はあと一分ほどであるらしいです。
分針に触れ、秒針に触れる。狙うはジャスト一秒前。
震える体に火が灯る。命が熱を求めて笑う。
早く時間が経って欲しい。その気持ちで胸がいっぱいでした。こんなに気分が良いのはいつぶりかしら。私はこの喜びに感謝し、賛美するために歌を歌います。
We wish you a Merry Christmas,
We wish you a Merry Christmas,
逸る鼓動が時を刻む。さあ、待望の瞬間はもうすぐだ。
We wish you a Merry Christmas,
And a Happy New Life.
Happy New Life た中 た郎 @maybe_tanaka
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