Happy New Life
た中 た郎
第1話
カツン、カツンと足音が響く。
歩いているのは病院の廊下。同じような景色が前から後ろへと流れてゆく。
そこそこ大きな病院だから、廊下の長さもそれなりだ。
緩くカーブを描いているため、先の突き当たりが見えないということもあり、永遠にこの道が続いているように錯覚してしまいそうになる。
……なんてな、言ってみただけだ。私はそれほど文学的じゃない。画家だからな。ここへも仕事で来ている。なんでも、入院中の女の子の面倒を見て欲しいのだそうだ。
精神的に何か問題があるとかで……病室から出ようとしないんだとか。はっ、カウンセリングでもやれってか。私に出来ることなんて、何もないよ……とは思ったものの、依頼人であるその子の両親には(主に金銭的な)恩があるし、断る事は出来なかった。
どうせ断れないからって、その子の病室の番号以外、詳しい話も聞かずにやって来たのは早計だったかな……。と、そんなことを考えている間に。
カツン。足音が止まる。どうやら到着したようだ。
フロアの一番奥の部屋。ノックをすると、どうぞ、とか細い声が聞こえた。
ドアをスライドさせ、部屋に入る。真っ白い部屋に、真っ白いベッド、真っ白いカーテン。
そして件の女の子は、ベッドに座ってじっとしていた。
私は分厚いコートを脱ごうとして、気づく。
「さむっ。暖房効いてないぞ、この部屋」
「そうですね、……今は、つけていません。どうしても必要なら、ナースコールを」
「なんでつけてないんだよ」
「……寒いのは、苦手ではありませんので」
私は苦手なんだけどな……まあいいや、とそのまま椅子に座って、手荷物を小脇の棚に置く。
「ええと……それで、私はどうすればいいんだ。何も聞いてないんだが」
「私からは別に何も……。両親が勝手にやっていることですので」
「弱ったな」
「……では、少しだけ、話し相手になっていただければ」
「まあ、そのくらいなら」
癖でタバコを取り出し、火を付けようとして、いかんいかんと首を振る。
一息つくとすぐこうしてしまうのは、普段全く人と接していないことの副作用か。
病室で吸うべきじゃないことくらいわかっているが、手が勝手に動いたのだから仕方がない。
悪い、癖でな——と言い訳しようと少女の方を見たとき、私は少女がずっと
「お前、目が悪いのか」
我ながらデリカシーの欠片もない聞き方だと思ったが、向こうは気にしない様子で、そうですよ、と短く答えた。
それを聞いてますます弱った。ここに来る前は、元気がない病気の子がいて、その子にチャチャっと絵を描いてあげて、それをプレゼントにでもしよう——安直な思いつきだが、それしか自分にできることがないし、そうしよう。それでなんとか、元気付いてもらおう……そんな風に思っていたものだが……。まさか目が見えないとは。
正確には見えないとは言わなかったけれど、瞼を開かないならどの道同じことだ。絵画という芸術は視覚的に味わうものである。
もちろん自分の絵にそこまでの力があるとは思っていない。微力なものだとは思っていた。それが無力になっただけのことだ。
「……どうしたのですか、黙り込んでしまって」
「ん、いや、実は、私は……画家なんだ」
「ああ、気にしなくても良いのですよ。絵の話でも。見えなくなったのは最近の話ですから、絵も少しならわかります。ほんの少しですけれど。ええと……フェルメールとか」
驚くべきことに、大の大人が、病人に気を遣われている。情けないことこの上ない。それに、絵の話をする気にもなれない。一体それに何の意味があるというのだろう。
「いや、そんな話はしなくていい。そうだな……では君のことを聞かせてくれ」
「私のこと、ですか……?」
「うん。嫌なら別にいいけど」
「いえ……しかし」
何の意味もありませんよ、とその子は言った。構わない。同じ無意味でも、こちらに合わせただけの話題よりは空虚じゃない。少なくとも私にとってはそうだった。
それから私は、彼女と色々な会話を交わした。そのほとんどが彼女の目がまだ見えた時の話だった。少女はそれを、遠い遠い昔を懐かしむように語っていた。ここではない空想の世界を語るようでもあった。
それと、彼女は思いのほか物知りだった。多分私よりずっと頭が良い。言葉もどこか詩的で、その節々からも育ちの良さを感じた。
それから私は、なぜ自分がここに呼ばれたかを問うた。どう考えても場違いだ。しかし、私だけが例外ではなかったらしい。
というのも、彼女の両親は古今東西、あらゆる種類の知人を呼んで、彼女と面会をさせているのだそうだ。他の人と話すことが、どうか、彼女のためになるように。ひいては彼女が病室から出て来るようにと願って。まあ今の所、無駄骨のようだが。
きっと彼女の目も、心も治らない。辛いがそれが現実のような気がした。だが私は、それでいて、この子の胸中には何か、未練のようなものがあるんじゃないかと感じ取った。勘だが。それが彼女の心を縛っているんじゃないかと。
確かに彼女が失ったものは大きく、取り返しもつかない。しかしきっかけさえあれば彼女はまた前を向けるようになる気がする。
全部思い込みで、甚だしい決めつけだが、話をするうち、私は彼女にそのような情を向けるようになっていた。
彼女は何かの願いを持っている。そのせいでここから動けない。そう感じた。
だから決別させてあげたかった。少なくともその時の私はそうだった。
一週間、時間を貰った。次のクリスマス・イブにまた会いにくると約束をして、私は病室を後にする。絵を描くことしか能のない私だが、できることをようやく見つけた。まだアイデアの段階で、実現可能かどうかもわからないが、幸い時間だけはある。他に仕事が入っていないからな。医学がいくらあっても仕方ない、今回のような状況でこそ、芸術の力ってやつを信じてみたかった。
期間を一週間にしたのは、イブにプレゼントを贈る、というのがカッコいいしロマンチックだ、などという考えもあるにはあったが、根っこの所では、私は焦っていた。
自覚はあまりないが、妙な焦りだった。
線路の上に立っている気分だ。早く、早く、早く走り出さねば。轢かれて死ぬか? それとも、私自身が電車なのか……。とにかく、そんな短い時間で望む作品を作れるかは微妙なところだったが、やるしかなかった。
私は画家だ。それも、冴えない画家だ。
昔は『天才』だなんて名前で呼ばれたが、そのあだ名は随分前に、『カコノエーコー』ってのに変わった。
スランプくんとも長い付き合いになる。まあ多分死ぬまで一緒だろうが、それでも、スランプくん。きみ、一週間だけ熱海にでも行ってきてくれないだろうか。
どうしても、えがきたいものがあるから。
そして時が過ぎた。一週間前と同じように、私はまた、病室の扉をノックする。どうぞ、とか細い声が聞こえ、病室に入る。
当たり前だが、ほんの一週間である。病室も、あの子も、前と全く変わっていなかった。そのことに、なぜだか胸を撫で下ろす自分がいた。
「こんにちは」
少女が挨拶をする。
「ああ、こんにちは」
こちらも挨拶を返しつつ、台車に入れて持ってきた荷物を下ろす。布が巻かれたそれは、私では抱えづらいくらい大きな、厚みのある長方形。私はゆっくりと、それに巻かれた布を丁寧に取り払っていく。やがて全てのヴェールが剥がれたそれを、ベッドの傍に置いたスタンドの上に飾った。
それは、やはり一枚の絵画だった。
一人の女性が、モナリザを連想させるような構図で描かれている。髪や肌、衣服などの質感がよく伝わってきて、まるでその人が生きているかのような錯覚を、絵を見る人に与える。さらに陰影を巧みに使うことで、立体感と奥行きのある絵に仕上がっていた。しかしもちろん、これはただの絵ではない。
「見せたいものがあるんだ。君に……手を、取ってもいいかな」
私がそう言うと、彼女はおずおずと右手を差し出してきた。とても驚いている様子だった。無理もない。『見せたいもの』だなんて……気取ったことを言った。
ともあれ私は、少女の小さい手を取って、絵に触れさせる。彼女が感じたものは、硬いカンバスの感触か。いや、少し違う。
「まあ、この感触は……」
人の肌そのものではありませんか、と言わんばかりの驚きように、私は内心ガッツポーズを決める。
その感触は、柔らかく、かつある部分ではやや硬く。なめらかで、かつほんの少しだけざらついており。さらに弱い弾力を感じるものになっていた。あくまで絵なので凹凸は少ないが、厚みを持たせて塗ることで触覚的立体感を演出している。使用した塗料は普通の絵の具ではない。様々なものを混ぜたり、特殊メイク等に使用されているものを使ったり、とにかく試行錯誤の連続だった。
特に髪にはこだわり抜いた。視覚的な艶や質感はもちろんのこと、触った時の手触り、流れるような感触を表現するために毛先にはあえて輪郭を設定せず、髪の先まで撫で終える際に抵抗感がなくなるよう工夫した。そうして作業時間のほとんどを髪の部分に使った。思えば食事は二日に一回だったしここ数日ろくに寝ていないが、集中するとこうなるたちなのだ。
さらにもう一つ、仕掛けがある。この絵には、温もりがあるのだ。
正確にはある金属の混ざった塗料を肌の部分の深部に使い、触れた手の熱が伝導することで温かくなる仕組みだ。金属量を
……と、そのようなことをペラペラ喋っているうち、ハッと我に帰った。好きなことの話になるとどうも熱中して饒舌になってしまうからいかん。私は再び彼女の様子を伺う。
「ど、どうかな」
「あの、ひょっとして、この絵……私、ですか……?」
むっ。
彼女の言葉に、今度はこちらが驚かされた。
そう。この絵に描かれているのは、この盲目の少女その人なのだ。
「ばれたか。内緒にしておこうと思ってたのに」
「どうして内緒にするんですか」
「えっと……なんとなく」
なぜか、それは伝えないようにしようと思っていたのだが……なぜそうしようとしていたのかは覚えていない。ただ、なぜ絵のモデルを彼女にしたのかは、はっきりと言える。
私はこの絵を通して、彼女自身を好きになってもらいたかったのだ。
それだけだった。
「この絵、とっても素敵です」
それは、君が素敵だからだよ。と言おうとしたが、あんまりにキザっぽくて恥ずかしかったのでやめた。
「ありがとう」
そう私が言った時、私はもう一度驚くことになる。
彼女が、目を開けていた。
その瞳は白かった。しかし濁りとしての白ではない。水晶のような、透明に近い清らかな白。白目の部分より白く、しかし美しいその色は、外の雪景色にも劣らない。
私は目を奪われた。
「これを完成品として君にプレゼントしようと思っていたが……どうしても直さなくてはならないところが、今、できた。すまないが、また明日来るよ。その時に改めて……」
「え、すみません今、何と言いました?」
「ああ、これ、未完成なんだよ。ほんの少しだけなんだけど訂正したいんだ。近いうち……まあ明後日くらいにでも完成させて、また渡しにくるから」
「未完成——あ、あの。それなら少し、わがままを言っても、良いですか?」
「んん? ああえっと、何かな」
「今日の二十四時ちょうどに、して欲しいんです。」
「ええっと、何を」
「この作品の完成を。その、直すっていう作業が終了して、この絵が本当の意味で出来上がるときを」
「ああうん、まあ、頑張れば……あ、いやっ! 絶対、大丈夫! 問題ないとも。でも、どうして?」
だって、と彼女は聖母のような笑みをうかべて言った。
「クリスマスが来ると同時に生まれるなんて、素敵じゃないですか」
彼女の意外な一面を見られた私はすっかり上機嫌で、徹夜の疲れも何処へやら。早速アトリエに戻り作業を続け、そしてその時を待った。
こんなにモチベーションの高い仕事は久しぶりだった。大半の作業はとっくに片付けてしまい、余った時間でレトルト食品をたくさん食った。うっかり寝過ごすのが嫌だったので、人工感の溢れる緑色のエナジードリンクをがぶ飲みした。
そして、いよいよ間も無くクリスマスが来る。あとひと描き。ほんの小さな箇所、目に映る光の一点を描けば完成する。
大晦日でもないのにカウントダウンをしたのはこれが初めてのことだった。なんだかガラにもなくワクワクした。私はずっと彼女のことを考えていた。喜ぶ顔を思い浮かべて、早く時が進んで欲しいと感じた。
そして、その時が来た。
時刻が変わる瞬間に、この絵に命が吹き込まれる。
生きている絵を作ろう。初めはそんなふうに考えていたものだが、今は目の前の絵が、本当に魂を持ったかのように感じられた。
達成感とともに、肉体に限界だと告げられる。酷使した自分の身体を労って、私は深い微睡みの水底へ沈んでいった。
蝶が飛んでいた。
蝶は羽を広げ、懸命に空を飛んでいた。
蝶はやがてその命を終え、池の水面に落ちた。
波紋が広がり、収束する。
するとどこかで、蛹の割れる音が聞こえた。
私がその方向に走っていくと、見慣れたまだら模様を見つけた。
蝶が飛んでいた。
私が目を覚ましたのは、大幅に昼を過ぎてからだった。
スマホを見ると、大量の着信履歴が残っている。全て同じ人物からだ。
私は折り返し電話をかける。
そこで私は。
あの盲目の少女の死を知らされた。
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