第1170話 「異界」
男の言葉は音量以上の何かを以って周囲に伝播した。
無駄にはしない。 無駄にはさせない。 自分達の世界は、過ごした時間は尊いものだったのだ。
それを証明して見せる。 彼は命を失ってなお、そう言い切った。
それは彼を知らない者達からすればただの言葉でその心には何の波紋も起こさないだろう。
だが、そうでない者達――絶望に沈んだ者達の目を開かせるには充分過ぎる力が籠っていた。
魔剣の中でその時を待っていた何かが蠢く。
……一体何が起こった?
あの瞬間、俺は自分の死を意識した。 アレはどう頑張っても防げる攻撃じゃなく、間違いなく終わったと目を閉じようとした時だ。 何かが割り込んで周囲にいた連中をたったの一撃で一掃してしまった。
凄まじい光量の――恐らく炎が全てを焼き払う。
それを成したのは無限光の英雄だったが、明らかに雰囲気が違う。 黒かった表面は剥がれ落ちるように元の色を取り戻す。 打撃に使うのか両手足の部分に盛り上がりがある薄い緑がかった全身鎧に長い真っ赤なマフラー。 その顔は昆虫の飛蝗に酷似しており、間違えようもなく過去に俺がザリタルチュで出くわした「在りし日の英雄」だった。
飛蝗は俺へと振り返ると小さく頷いて見せた。
「この時をずっと待っていた。 ありがとう。 全ては君のお陰だ」
「……味方って事でいいのか?」
俺は何と答えたらいいのか良く分からなかったので知りたい事だけを尋ねる事にした。
「あぁ、俺と君の目的は一致している。 いきなりで信用できないかもしれないが、どうか俺に君の手助けをさせてくれないか?」
大きく頷いて見せる飛蝗に何故と聞き返そうとも思ったが、こいつは既に戦う理由を語っており、状況的に拒む理由はない。 それにこいつが居なければ俺は終わっており、この先の突破も難しいだろう。
そうと決まればさっさと動くべきだ。 こうしている間にも追加が湧こうとしていた。
「ここで後ろを俺が抑えるべきなんだろうけど前にいる奴らが厄介だ。 どうにか突破を――いや、後ろを心配する必要はなさそうだな。 彼が食い止めてくれる。 行こう」
……彼?
振り返ると黒い靄のような物が人型を象ろうとしていた。 形が出来上がろうとしたところで魔剣から何かが剥がれ落ちる感触がする。 何だこれは?
そこに現れたのは無限光の英雄ではなく、一体の辺獄種だった。
変わった装束――白と黒を基調としており日本の陰陽師が着ていそうなデザインの衣装で、顔には獣の面。 体格から性別は男で、年齢は十二、三の子供――少年だ。
飛蝗とは違い、ただの辺獄種といった感じだった。 服は酷く劣化しており、仮面には無数の亀裂が走っている。 魔剣から何かが分離した感触がしたので恐らくだが、何らかの手段を使って自身を切り離したのか?
飛蝗は前に出ると小さく屈んで視線を合わせる。
「また会えて、一緒に戦える事が嬉しい。 後ろを任せてもいいか?」
飛蝗は小さく握った拳を突き出すと、辺獄種は応じるように拳を小さくぶつける。
それだけで満足したのか飛蝗はそのまま立ち上がってこちらを振り返り、辺獄種は俺に小さく頭を下げると背を向けた。
「行こう」
飛蝗の言葉に俺は小さく頷いて駆け出した。
遠ざかって行く二つの背中を肩越しに見てその少年は小さく空を仰ぐ。
かつて第三の領域を守っていた在りし日の英雄。 その残滓とも言える存在だった彼は戦友である飛蝗とは出現の経緯が違う。 飛蝗は魔剣が崩壊した事により散らばった者達による支援があったからこそ、この場に立つ事が出来た事に対しフォカロル・ルキフグスが健在である以上は同じ事ができない。 少年は自身を魔剣から切り離す事によって強引に出て来たのだ。
その為、怨念を固めただけの劣化した辺獄種としてでしか外に出る事が叶わず、実力の半分も発揮できず、大した時間も保たずに霧散する事となる。
だが、それでもと彼は地を踏む足に力を込める。 戦友が立ち上がり、自分達の価値を証明しようとしているのだ。 こんなところで燻ってなどいられない。
今の自分に出せる全力でこの場を食い止めるのだ。 幸いにも彼の力はこういった場でこそ真価を発揮する。 次々と出現する追加の無限光の英雄を睨み。 少年はその力を振るう。
袖口から無数の紙――符が飛び出し、少年の意に従って飛ぶ。 彼の背後の空間を埋め尽くさんと展開された符が並ぶ。
――
全ての符が瞬時に燃え尽き、代わりに空間に大きな波紋が広がって少年の姿は呑み込まれるように消え去った。 無限光の英雄達は目の前に起こった異常を意に介さず空間の揺らぎに突っ込んでいく。
そして接触。 波紋に触れた無限光の英雄達はその姿を消した。
消えた者達が最初に遭遇したのは浮遊感だ。 何故ならそこは大地がなく、ひたすらに落下していくだけの空間だった。 これこそが符を用いて生み出した異空間であり、世界の一部に異なる世界を生み出す奥義。
その空間の中心に浮かぶ少年は小さく手を振り上げて――下ろした。 同時に彼が生み出した彼の支配するこの世界が牙を剥き、四方八方から無数の落雷が豪雨のように降り注いだ。
その雷は無限光の英雄達を次々と貫き、焼き焦がす。 一撃一撃が凄まじい魔力を纏っており、その痕跡は空間の外にまで及んでいる。
本来ならこの空間は外からの出入りを制限できるのだが、今回は敢えてそれをしていない。
とにかく派手に魔力を使う。 それにより無限光の英雄達は光に誘われる蛾のように空間に引き寄せられていく。 瞬間的な魔力の放出量は凄まじく、先に進んだロー達よりもこちらへと引き寄せられているのだ。
そして空間に取り込まれた個体群は雷に焼かれて滅び去っていく。
本来の彼なら複数種類の効果を持った空間を多重展開が可能だったのだが、範囲を極限まで広げる為に数を絞る必要があったのだ。
符は辺獄種の肉体でもある程度ではあるが安定した威力を出せる。
それでも本来の力と比べると比較にならない程に弱体化していた。 効果範囲、維持時間、威力、全てにおいて全盛期の自身を考えれば歯がゆさを感じてしまう。
間違いなくそう長い時間の足止めは難しい。 出来る事はほんの僅かな時間稼ぎ。
それだけで充分だった。 ローの傍には彼が心の底から頼りにしている仲間の一人が居るのだ。
彼ならばどんな逆境も撥ね返してくれるとそう信じていた。
――この戦いは死者である彼らには関係のないものだ。
それでも仲間達の価値と矜持を証明する。 仮初の命を燃やす理由としてはそれで充分だった。
後は――視線を遠くに向ける。
彼の言葉を聞いたのならもう一人、絶対に立ち上がるであろう男を少年は知っていたのだから。
ここで恥ずかしい真似はできなかった。
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