第876話 「愛貫」

 聖女と戦闘を繰り広げていたアリョーナだったが、胸中にあったのは夫であるブロスダンの安否。

 彼の聖剣アドナイ・ツァバオトは死なない事に関して言うのなら最高と言っていい武具だ。

 どんな過酷な戦場だろうとブロスダンは必ず生還する。


 その能力は彼女自身が一番理解はしていた。 だが、何故だろうか?

 不安が消えないのだ。 普段からずっと一緒に居た所為だろうか? 傍に居ない事に不安が募る。

 アリョーナが戦っている聖女は彼女と同様に聖剣の担い手で、油断できるような相手ではない。

 

 分かってはいる。 今、自分が行ってるのは殺し合いで、下手をすれば自分が殺されてしまう。

 そう、分かってはいるのだ。 それでも不安が消えない。

 彼女の抱く不安。 その最大の理由は本拠が襲撃を受けて居る事と、シムシエルが消失した事だろう。


 ユトナナリボが襲撃された事を受け、戦力の半数を戻した。

 少なくともグリゴリの天使達は本拠を失う訳にはいかないと考えている事は彼女にとっては朗報だったのかもしれないが、明らかに自分達の動きを見越しての襲撃だ。


 グリゴリはあちこちを襲撃していると聞いていたので、方々で恨みを買っていてもおかしくはない。

 その為、襲撃自体はあり得なくもないだろうとは思うが、戦闘開始に合わせての動きが気になった。

 恨みつらみが爆発して勝算を考えずに仕掛けて来たのだろうか? だとしたら何の問題もない。


 戻った天使とブロスダンの力で薙ぎ払われるだけだろう。

 

 ――ただ、そうでなかった場合は?


 仮に襲撃者が聖剣と天使をどうにかする手段を確立していたとしたら?

 戻るのは危険――否、誘き寄せられたのではないのか?

 そう考えるとアリョーナは不安でどうにかなりそうだった。 彼女はブロスダンを愛している訳ではない。 ただ、良き妻として在れと自分に課しているだけだ。


 ――良き妻は夫を支え、守る者。


 それは全ての事情よりも優先される。 自分はグリゴリの配下ではなく、ブロスダンの妻だ。

 やるべき事を決めたアリョーナの行動は早かった。 持っていた魔石を取り出す。

 これは緊急時にと持たされていた使い捨ての転移魔石だ。 こちらは他と違い、グリゴリの天使ペネムが作成した物で、一度限りだが物を入れ替えるのではなく特定の場所に転移できると言った代物だった。


 アリョーナはそのまま転移。 ユトナナリボへと戻る。

 転移した先は街の中心付近のはずだったのだが――そこはまるで別の場所としか思えなかった。

 黒い霧のような黒雲に覆われ、その切れ間からは何故か海のような広大な水塊が浮かび、中を泳ぐ巨大な何か。 あちこちで応戦する天使兵や戦士階級の民と襲撃する異形の魔物達。


 そしてグリゴリの天使達の気配は――あるが消えかかっており、数も減っている。

 最後に聖剣の気配を探すが見当たらない。 殺されたのだとしても気配まで消えるのは考え難いからだ。 この短時間でブロスダンが殺されて持ち出された可能性もなくはないが同様に考え難い。


 ならばブロスダンは何処に居るのか? 心当たりはあった。

 足を踏み入れれば気配が分からなくなる場所があるからだ。 本来なら魔剣を用いなければ足を踏み入れる事は不可能だが、聖剣でもできなくはない。


 アリョーナは聖剣の警告を無視して辺獄とこちら側の境界に干渉。

 辺獄へと足を踏み入れた。 彼女の予感は正しく、辺獄でブロスダンは戦っていたのだ。

 だがそれも決着が付こうとしていた。 ブロスダンは生きているのが不思議な有様で、彼を追い詰めている男は魔剣を片手にとどめを刺そうとしている。


 アリョーナは躊躇なく割り込み、聖剣を振るう。 彼女の聖剣エル・ザドキはブロスダンの命を刈り取ろうとする魔剣の一撃を弾き返す。

 信じられない程の重い一撃だったが、そんな事で怯んでいられない。


 『この人をやらせない!』


 アリョーナは自らを鼓舞するように覚悟を叫び、聖剣を構える。

 彼女の聖剣は自己や周囲に魔力を供給する固有能力を有しているが、この辺獄ではその力は大きく落ちている。 その為、魔剣に挑むべきではないのだが、ブロスダンが動けない以上は逃げるわけにはいかない。


 錫の球体を無数に生み出しながらアリョーナは叫びながら敵――ローへと斬りかかるが、先に襲い掛かった球は魔剣から分離した刃が変形した円盤に次々と斬り裂かれる。 

 それでも構わない。 彼女は自身、剣の技量が低いのは理解しているので、多少でも意識を散らせればいい。 魔剣相手に魔法では時間稼ぎにもならないので近接以外、彼女に取れる選択肢はなかった。


 なるべく意表を突く形で斬りかかる事を意識し、身を低くして一気に肉薄。

 聖剣の能力が落ちているとはいえ、常人を遥かに超える身体能力は捉える事は難しいだろう。

 

 ――相手が常人であれば。


 相手は大柄、足を狙って機動力を削――側頭部に衝撃。 何が起こったのかさっぱり分からなかった。

 認識したのは相手が左腕を軽く振った所までだ。 喰らった感触から殴られたと言うのは理解できたが、いきなりのダメージに精神的にも大きく揺さぶられる。


 同時に魔剣の刃が細かく分離して螺旋を描いて高速回転。

 

 ――アレは駄目だ。


 まともに受けたら死ぬ。 崩れた体勢を強引に立て直し、転がるように全力で回避。

 胴体を狙って来た一撃を躱す事には成功したが完全にとは行かなかった。

 腕を掠めて肉を抉ったのだ。 アリョーナは苦痛に顔を顰めるが、問題ないと無視。


 この程度の傷なら聖剣の加護で――そんな思考は即座に消し飛んだ。


 『あ、あぁぁぁぁ!』


 傷口から信じられない程の激痛が発生し、彼女の思考を抉り取る。

 痛いなんて生易しい物じゃなく、苦痛という概念を直接脳に叩き込まれた。

 そう錯覚する程の物で、僅かな時間だがその思考が苦痛に埋め尽くされる。


 それでも彼女は歯を食いしばって、痛みでバラバラに弾けた意識をかき集めて動く。

 動きを止めたら死ぬと言う事は分かり切っていたからだ。

 そして戦わなければこの状況を脱する事が出来ない。


 アリョーナは普段の彼女からは想像もつかないような叫びをあげながら、渾身の突きを放つ。

 彼女の一撃は無情にもあっさりと躱され、その腹にローの膝が突き刺さる。

 

 『ご、ほ――』


 腹に衝撃と苦痛、圧迫された事により呼吸が困難になったが、そんな物は次の瞬間にはどうでもよくなった。

 ローの膝からタイタン鋼で形成されたドリルが飛び出し、彼女の腹を瞬時に掘削したからだ。

 巨大な風穴を開けられアリョーナは派手に血を吐く。


 ローは魔剣を使おうとしたが間合いが近すぎるので諦めたのか、拳を握ってその顔面に叩き込んだ。

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