第877話 「愛涙」
――アリョーナ。
聖剣の力で肉体を再生させながらブロスダンは目の前で妻が痛めつけられているのを見ている事しかできなかった。
腹を抉られ背中にまで貫通する穴が開いた所で、ローがアリョーナの顔面を殴りつける。
その衝撃で腹を貫いていたドリルが抜けて彼女の体が吹き飛ぶ。
――何故だ。
ブロスダンには分からなかった。 アリョーナは妻ではあったがそこまで深い情を重ねた相手ではない。
少なくともここまでして守る価値が自分にあるとは思えなかったからだ。
逆の立場なら自分はここまでの事が出来ただろうか?
ブロスダンは考える。 復讐にかまけ、他を疎かにし、妻や民には適当に心にもない言葉を並べる。
そんな自分はそこまでして貰えるような存在じゃない。 そのはずだ。
吹き飛んだアリョーナは腹から零れそうな臓物を押し戻しながら立ち上がり、ブロスダンを庇うように前に出る。
困惑するブロスダンへと肩越しに振り返ったアリョーナは大丈夫だと笑みを浮かべて見せた。
――あぁ、そう言う事か。
その笑みを見てブロスダンは唐突に理解した。 自分が愛されていると言う事、アリョーナが必死に自分を愛そうとしている事に。
家族が家族に向ける愛情。 それを想い、ブロスダンの脳裏にはかつて自分を愛し、守ってくれた両親の姿が駆け抜ける。 気が付けば涙が自然と溢れて来た。
彼女の愛情に気付かなかった自分の馬鹿さ加減や情けなさ、様々な感情が彼を揺さぶった結果、それが涙となって頬を伝ったのだ。
自分は今まで何をやって来たのだろう。 復讐にだけ目を向け、自分を立ててくれた妻や民すらまともに見る事もせず、後ろだけを見てきた結果がこの有様。
ブロスダンは激しい後悔に身を焼かれるが、まだ間に合うと己を叱咤して立ち上がろうとする。
蟲に喰われた体は未だに再生の半ばだが、何とか立ち上がるんだ。
早くしなければアリョーナが――妻が死んでしまう。 ブロスダンは何でもいいと必死に祈る。
――どうか自分にもう一度立ち上がる力をと。
腹の傷を塞いだアリョーナは魔剣の呪いによる激痛に襲われながらも、戦意を失わずに聖剣を構える。
対するローはアリョーナを見ておらず、そろそろブロスダンの治癒が進んでいるのでいい加減に片付けないとまたヒラヒラ躱されるから面倒だなと考えていた。 アリョーナに関しては攻撃が当たるから後でいいかと興味を失いつつあり、あまり意識していない。
夫を庇うアリョーナの姿は見る人が見れば尊い物に見えるのかもしれないが、相手は涙すら流さない上、血も通わない異形。 そんな物を見た所で首を傾げる以上の反応はあり得ない。
ローは無言で魔剣を第二形態――砲へと変化させる。 辺獄で力を最大限に発揮できる四本の魔剣は信じられないスピードで魔力を充填。
ブロスダンへと照準を向ける。 その動きに気が付いたアリョーナが咄嗟に射線上に割って入る。
発射。 闇色の光線が聖剣によって断ち割られ、ブロスダンの左右を通り抜ける。
アリョーナは防いではいたが、その闇は彼女の腕を焼いて激痛を齎す。
のた打ち回りたいほどの痛みが襲うが彼女は一歩も引かない。 ブロスダンを愛する。
そう決めた彼女の決意は固い。 聖剣はその思いに応えるように担い手に力を貸し与え、光線を防ぎ切ったのだ。
だが、防ぐだけではだめだ。 次の攻撃に備えようとしたが、ローは最初からアリョーナの事など眼中になかった。 彼女の脇をすり抜けブロスダンの下へと走る。
第一形態に変形させ、螺旋を描く刃がブロスダンに襲いかかろうとして――割り込んだアリョーナの背を大きく抉った。
ブロスダンとアリョーナの目が合う。
『あな――』
「さっきから鬱陶しいな」
アリョーナは何か言いかけたが、それは最後まで紡がれることはなかった。
次の瞬間にローの一撃によってその上半身が血煙と化したからだ。 アリョーナだった物がブロスダンへと降りかかり、彼を斑に染める。
『あ、アリョーナ?』
ブロスダンは目の前で起こった事が理解できずに思考が止まる。
だが、現実は無情にも過ぎ去っていく。 使い手を失った聖剣エル・ザドキが宙を舞い発光。
新たな担い手を求めて飛び去ろうとしたが、その前にローの右腕から鎖のような物が飛び出し聖剣を絡め取る。
「……それはもう見飽きた」
ローはそう呟いて魔剣を左手に持ち替え、絡め取った聖剣を引き寄せて掴み取った。
同時に残ったアリョーナの下半身を蹴り飛ばした後、再度魔剣を第二形態へと変形。 そのまま狙いを付ける。 聖剣使いはしぶといので完全に消し去らないと安心できなかったようだ。
『やめ――』
ようやく思考が戻ったブロスダンが、手遅れにもかかわらず無意味な制止の声を上げる。
当然ながらそんな事で止まる訳もなく発射。 残ったアリョーナの下半身を跡形もなく消し飛ばす。
ローは腕から生えた鎖を引き千切った後、後ろで見ているサベージに投げ渡すと今度こそブロスダンを狙う。 アリョーナが命を賭けて稼いだ時間は無駄ではなくブロスダンはどうにか立ち上がれる程度に回復した事により聖剣をローへと突き付ける。
『……何故だ! 何故お前は僕から何もかも奪っていくんだ!』
もはや意味のない問いかけでしかなかったが、彼はこの理不尽な現実に対してそんな言葉でしか向き合う事が出来なかった。
対するローは心底不思議そうに首を傾げた後に一言。
『邪魔だったからだな』
それ以外の何があるのだと言った口調だった。
絶句。 ブロスダンはそんな反応しかできなかった。 そしてここに来て彼はようやく目の前の男と自分の間には種族や言語と言った次元では括れない隔たりがある事を悟った。 そう、目の前のこれは言葉が通じるだけで会話の成立しない、価値観が全く違う化け物だったのだ。 彼はアザゼルからの言葉を鵜呑みにし、ローは悪意を以って故郷を焼いた極悪人だと思っていたが、それは大きな勘違いだった。
恐らく目の前の化け物は飛び回る羽虫を目障りと言った理由で叩き潰す感覚で故郷を滅ぼしたのだろう。 そこには愉悦も悪意すら存在しない。
今のブロスダンの胸にあるのは復讐心ではなく虚しさと恐怖、そして後悔。
――この化け物に触れるべきではなかった。
そして思う。 こんな化け物がこの世に存在していい筈がない。
自分達では無理だったが、いつかきっと誰かが滅ぼしてくれるかもしれない。 そんな僅かな可能性に望みを託し、その為の希望を遺さなければ……。
せめてそれぐらいをやらないと死んだアリョーナに申し訳が立たない。
ローはもういいなと魔剣を変形。 螺旋がブロスダンへと振り下ろされる。
回復が終わっていないので躱す手段は皆無。 自分は確実にここで死ぬだろう。
だが、ただで死んではやらない。 それが自分がこの化け物に対してできる最後の意趣返し。
魔剣が自分の頭部を粉砕する刹那――彼は魔法で自分の腕を聖剣ごと切り離す。
視線は最後まで屈しないと睨みつけ、次の瞬間に血煙と化した。
最後にローが舌打ちするような音を耳が拾ったが、もう彼にはそれを認識することは叶わない。
――アリョーナ。
彼は最後に妻を想い、辺獄の大地に散って逝った。
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