第859話 「打擲」
ファティマを前線に送り出すに当たってヴァレンティーナは二つの条件を出した。
一つ。 一体仕留めたら帰還して全体の指揮に戻る事。
一つ。 仕留めるグリゴリの大型天使はヴァレンティーナが指定した個体で我慢する事。
以上二点だ。 これが守られなければ力尽くでも止めると彼女は姉に言い放った。
ヴァレンティーナも姉が止まらないのは理解していたので、無理に我慢させて暴発されるよりはマシだと判断したのだ。
流石のヴァレンティーナもファティマがここまでのストレスを抱え込んでいるとは読めなかった。
恐らくはセンテゴリフンクスで劣勢に立たされた事とローが殺されかけた事が相当、腹に据えかねたのだろう。 こうなった以上は、もう何らかの形で発散させないと職務にも悪影響が出ると判断せざるを得ない程だった。
彼女も普段、冷静な姉がここまで怒り狂うとは思わなかったのだ。
方針が決まれば安全に目的を達して貰うしかない。 早い段階でヴァレンティーナはガドリエルを仕留めさせようと決めていた。
グリゴリの大型天使は合計で九体。 最初の襲撃では六体を遠征に出し、三体が留守を務めた。
内、名称の判明しているアザゼルとシェムハザは序列が上と言う事で居残っている事は理解できたが、残りの一体は何故居残っているのか? 階級が高い? それも考えられるが、引き連れている天使の群が別の可能性を示唆する。
要は兵士の調達――召喚か生産までは彼女には分からなかったが、前線に出せるタイプではないと判断。
付け加えるならグリゴリは燃費が悪く、外部からの魔力供給により損傷の回復を行うと言った情報もあったので他に比べれば比較的ではあるが、仕留め易いだろうとの考えもあった。
実際、ヴァレンティーナの考えは正しく、ガドリエルは現存するグリゴリの中で最弱と言っていい戦闘能力しか持っておらず、つい先ほど兵士の増産を行ったので酷く消耗していた。
その為、今の怒り狂ったファティマに対して抗う術を持たなかったのだ。
ガドリエルはファティマの背から生えている尾によって滅多打ちにされていた。
彼女の尾はかつてンゴンガンギーニという地に封じられていた巨大狐の尾を模したものだ。
普段は体内に収納できるようにしてあるが背から飛び出すと巨大化し、彼女の意のままに敵を打ち据える。
九つの尾にはそれぞれ違った能力が存在し、ガドリエルの攻撃を防いだ物と現在、打ち据えている物は別だ。 ガドリエルをひたすらに殴りつけている尾は表面に金属を纏って硬質化させる物だが、ローによって変質されたそれはタイタン鋼と言う非常に硬い物質に変換されていた。
『おのれ――』
ガドリエルにもグリゴリとしての矜持があり、それが矮小な存在に見下された上に思うままに打擲されている状況を良しとしない。
羽を震わせて魔力を解放し、衝撃波を発生させてファティマを吹き飛ばそうとしたが、その羽が即座に消滅する。
ファティマの持つ別の尾だ。 彼女の三本目の尾は不定形で、決まった形を持たないが炎や雷、酸の霧へと変化する。 それによりガドリエルの羽は即座に焼き尽くされたのだ。
ファティマを吹き飛ばして体勢を立て直そうとしていたガドリエルだったが、羽を失った事で再び地面に倒れ伏す。
『貴様、こんな事をして――』
何かを言いかけたガドリエルだったが、横っ面を尾で殴り飛ばされて言葉が途切れる。
「はい? 今、何か仰いましたか? お偉い天使様なのでしょう? もっとはっきり――あぁ、これは無理ですね。 メイヴィス、それに皆。 これから少し汚い言葉を使いますので、耳を塞いでいなさい」
「はい、勿論ですお姉さま。 ここに居る者は誰一人として余計な物を見聞きしません」
メイヴィスがやや引き攣った顔でそう応えると、ファティマはそれは良かったと小さく微笑み、その表情が――
「汚い口を開くなよ羽虫が」
――憤怒と憎悪に彩られた形容しがたい物に変化する。
「お前達の所為で私がどれだけの恥をかかされたのかが分かるか? ロートフェルト様の前で失態を演じさせられ、この私の目の前でロートフェルト様を傷つけ、ロートフェルト様からお預かりしたオラトリアムに土足で踏み込み、ロートフェルト様の所有物である聖剣を寄越せと図々しくも要求する」
ファティマ・ローゼ・オラトリアムは非常に冷静な女性だ。
大抵の事には動じずに対処を行い、合理的に物を考え、常に最善の成果を求め続ける。
例外は夫の事だけだが、それ以外に関しては要領よく処理し続けていた。
ローの旅の障害を排除し、彼がトラブルを起こせば後腐れなく処理を行い、いつでも戻ってきていいようにオラトリアムを大きくする事にも力を入れ、外敵の排除や無力化も積極的に行って来たのだ。
完璧とは言えないが、それなり以上に上手くやって来た。 彼女は夫の求めに充分に応えられていると自負していたのだ。
――だが、グリゴリの存在がその全てを台無しにした。
ファティマはローの考えを完璧に理解している訳ではないが、失態を犯して評価が下がらない訳がない。 繰り返すが、彼女は大抵の事には動じない。
だが、そんな彼女にも恐ろしい事はある。 夫であるローに失望される事だ。
使えない女、役立たず、そう冷たく言い放たれる事を想像するだけで、彼女は恐怖と絶望に体が震える。 幸いにもローの不興を買う事態だけは避けられたが、こんな状況を招いたグリゴリに彼女は激しい怒りを抱いており、一度吐き出さなければ判断に支障が出るレベルで心がかき乱されていた。
その為、グリゴリの一体でも叩き潰す必要があると考え、前線に出て来たのだ。
硬質化した尾で何度も打ち据え、不定形の尾で羽を焼き尽くし、ガドリエルを一方的に叩きのめす。
権能で強化された尾の一撃はガドリエルの強固な肉体を破壊し、次々と破片が飛び散る。
「分際を弁えろよこの羽虫が! 虫なら虫らしく無様に――あぁ、見ているだけで苛々する。 もう目障りだから消えなさい」
ファティマはそう言うと四本目の尾を伸ばすと、損傷が激しすぎて言葉すら発する事が出来なくなったガドリエルの背に突き立てる。
同時に尾がドクリと鼓動するように脈打ちガドリエルの体に残された魔力を吸い上げた。
『――! ――!』
「虫の言葉は分からないのでもう消えて頂けませんか?」
もがくガドリエルを冷たく見下ろしたファティマがそう言うと、力尽きたかのようにグリゴリの天使は消滅した。
少しの間、ファティマは無言。 周囲にいたメイヴィス達は顔を見合わせる。
誰が声をかけるかで迷ったが、全員の視線がメイヴィスに集中した事により彼女はだらだらと額から汗を流す。
ややあってメイヴィスは諦めたかのように小さく肩を落とすと、恐る恐ると言った感じでファティマに声をかけた。
「あ、あのお姉さま? そろそろ……」
「えぇ、約束通り、私は引き上げます。 後の事は任せても?」
「勿論です。 お任せください!」
振り返るといつもの調子を取り戻したファティマがいつものように微笑んで見せる。
それをみてメイヴィスはほっと胸を撫で下ろした。 流石の彼女も今の姉に触れるには少し勇気が必要だったようだ。
それを知ってか知らずか、ファティマは護衛の三人に小さく声をかけるとそのまま連れて転移。
周囲の空気が僅かに弛緩するが、即座に引き締める。
「では予定通りに一度ここを離れます」
消滅したガドリエルは間違いなく味方を呼んでいる筈なのでここに転移する可能性が高いからだ。
メイヴィス達は急いでその場を後にする。
残されたのは誰もいない神殿と静寂のみだった。
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